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私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている

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 自然のあらゆる素質の発展を実現するために自然が用いる手段は、社会における自然的素質の敵対関係であり、しかもそれはこの関係が最終的に社会の合法的秩序の原因となる限りでのことである。私がここで理解する敵対関係というのは、人間の非社交的社交性のこと、すなわち人間が社会の中に入ってゆこうとする性癖であるが、同時にこれは社会を絶えず分断する恐れのある一般的抵抗と結びついている性癖のことでもある。明らかに人間の本性にはそうした素質がある。一方で人間には社会を作ろうとする傾向性がある。なぜなら、そうした状態の中にいると、自分がよりいっそう人間としてあること、つまり自分の自然的素質が発展してゆくのを感じるからである。しかしまた他方で、自分は一人でいたい(孤立したい)という人間の性癖も大きい。なぜなら人間は、すべてをまったく思いどおりにしたい非社交的性質を同時に自分のなかに発見し、そのために、他人に対する抵抗の傾向が自分にあると自覚しているのと同様に、他人の自分に対する抵抗がどこにもあると予想するからである。ところがこの抵抗こそは、人間のあらゆる力を呼び覚まし怠惰へと傾く気持ちを乗り越えさせ、たしかに一緒にいるのはいやだが、しかし放っておくこともできない仲間のもとで、功名心や支配欲に駆り立てられ、一つの地位を獲得するまでに人間をし向ける当のものである。このとき、粗野な状態から抜け出て、人間の社会的価値を本質とする文化的状態への本当の第一歩が生じ、またこのとき、あらゆる才能が少しづつ伸ばされ、趣味が形成され、また絶えざる啓蒙によって思惟様式の構築が始まる。
カント(福田喜一郎訳)「世界市民的見地における普遍史の理念」、『カント全集 14』岩波書店、2000年。

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倫理学の最大の眼目は、やはり個と全体、すなわち個人の存在と共同体のあり方にかかわってくるのだと思うわけですが、そうしたところの翠点をさらりと言い表すカント(Immanuel Kant,1724-1804)の言葉が最初に引用したところです。

文字・活字・言葉としては意味は理解できます。

人間には孤立していこうとする性癖(非社交的性質)をもちつつもそれだけではなく、他者とか共同体と関わろうとする性癖(非社交的社交性)をも持ち合わせております。

この緊張関係がうまくいったとき、月並みな表現になりますけれども、その当該の人物も成長することができるし、その当該の人物のかかわる共同体もよりよき共同体にスライドしていくことができるのだろうと思います。

そのことはまさに文字・活字・言葉としては理解できます。

しかし実際にはなかなかその元意といいますか、真意といいますかリアルな現実での形が思い浮かばず、講義でもその言葉を紹介しながらも、果たしてこれでいいのかな……などと悩み多き乙女のごとく焦燥感にさい悩まされ、なにげにリアリティを語ることに卓越したカントにしては、この表現だけで終わっていることに苛立ち、「これは宿題なんだ」とひとり納得していることが2年ほど続いておりました。

現実の世界では、そうした緊張関係はどちらかといえば放棄されている始末です。

「どうでもいいや」「関係ねえや」「ほっといてくれ」「ナニモカワラナイ」……とぼやきながら無気力感を表にだしながら非社交的性質に沈潜していく圧倒的多数のひとびと。
「オホヤケですよ!」「メッシホウコウに真の生き方があるんじゃ」……非社交的性質に沈潜していくあり方を〝恫喝〟し、どちらかといえば、全体から個を強引に牽引していく街宣車のような非社交的社交性〝のみ〟を強要しようとするひとびと。

二元論はもとより大嫌いで肌に合いませんし、両者の言い分もわからなくもないのですけれども、生きている人間としてはどうもそれだけじゃアねえだろう……カントのいうとおり、この両方の性質はひとりの人間のなかに「同時に自分のなかに発見」されるべきものであって、どちらか一方だけで生きていくことは不可能なことはハナからわかっております。

しかし、易きへのおもねり……とまでは言いませんけれども、なにか、どちらか一方に案ずることで、当座の状況を処理するあり方・いい方には当惑するばかりで、じゃあどのようにカントの言う両者のよりよき緊張関係を具体的に立ち上げていけばよいのか悩み続ける宇治家参去です。

さて、不思議なものですが、カントだけ読んでいるとカントを理解できるかといえばそうでもありません。それはカントだけに限られた問題でもなく、あらゆる対象に関係してくる問題なのでしょう。

かつて、文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)は「一つの言語しか知らない者は、どの言語も知らない者だ」という言葉を残しましたが、その言葉を参考にして、初期の宗教学者で、比較宗教学の祖と言われるマックス・ミュラー(Friedrich Max Muller,1823-1900)は次のようにいっております。

すなわち……
「一つの宗教しか知らない者は、いかなる宗教も知らない」。

これをアナロジカルに解釈するならば、まさに「ひとりの哲学者しか読まない者は、いかなる哲学をも知らない」……ま、ひとつこのように言うことも可能でしょう。

ですからカントの文章に関してもその理解が深まるのは思わぬ文献・思想家・現実の事件から対象が照射されてくるという事態はアリエルワケで、あれほど2年弱思い悩んだ疑問がひとつ、本日になりますが、ひとつ氷解するといいますか、活路がみえたといいますか、深い闇の中から一条の光をみつけることができました。

これはまだまだ印象批判の粋を超えることができない発想の煌めきのひとつですが、ちょうど漱石・夏目金之助(1867-1916)の文明論を読んでいると面白い一部分に出会いました。

この文章も何度も読んでおり、その文章に即しては、まさに文字・活字・言葉としては理解していたわけですが、まさにカントと漱石が握手するとも思えず、まさに「どうでもいいや」「関係ねえや」「ほっといてくれ」「ナニモカワラナイ」などと思っていたわけですが、なにかの拍子なのでしょうか、ぐんぐんと引き込まれていくわけで、漱石を読みながらそこにカントを見出した次第です。

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 人間という者は大変大きなものである。私なら私一人がこう立った時に、貴方がたはどう思います。どう思うといった所で漠然たるものでありますが、どう思いますか。偉い人と速水君は思うか知らんが、そんな意味じゃない。私は往来を歩いている一人の人を捉まえてこう観察する。この人は人間の代表者である。こう思います。そうでしょう神様の代表者じゃない、人間の代表者に間違いはない。禽獣の大乗者じゃない、人間の代表者に違いない。従って私が茲処(ここ)にこう立っていると、私はこれでヒューマン・レースをレプレゼントとして立っているのである。私が一人で沢山ある人間を代表していると、それは不可(いか)ん君は猫だと意地悪くいうものがあるかも知れぬ。もし貴方がこういったら、そうしたら、いや猫じゃない、私はヒューマン・レースを代表しているのであると、こう断言するつもりである。異存はないでしょう。それならば、それで宜しい。
 同時にそれだけかというとそうでもない。じゃ何を代表しているかというと、その一人の人間は人間全体を代表していると同時にその人一人を代表している。詰らない話だがそうである。私はこうやって人間全体の代表者として立っていると同時に自分自身を代表して立っている。貴方がたでもなければ彼方でもない、私は一個の夏目漱石というものを代表している。この時私はゼネラルらものじゃない、スペシャルなものである。私は私を代表している、私以外の者は一人も代表しておらない。親も代表しておらなければ、子も代表しておらない、夫子(ふうし)を代表している。否夫子自身である。
 そうすると、人間というものはそういう風に二通りを代表している--というと語弊があるかも知れませんが--二通りになるでしょう。其処(そこ)です、それをいわないと能(よ)く解らない。
 それでこのヒューマン・レースの代表者という方から考えて、人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一私は人間全体を代表するその人間の特色として、第一に模倣ということを挙げたい。人は人の真似をするものである。私も人の真似をしてこれまで大きくなった。

 (中略)

とにかく大変人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。好んで遣る、好んで模倣をするのです。
 同時に世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束(ひとたば)にしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一(じつぱひと)からげにして教育されている。そうすいないと始末に終えないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。

 (中略)
 それから、法則というものは社会的にも道徳的にもまた法律的にもあるが、最も劇(はげ)しいのは軍隊である。芸術にでも総(すべ)てそういうような一種の法則というものがあって、それを守らなければならぬように周囲が吾人に責めるのであります。一方ではイミテーション、自分から進んで人の真似をしたがる。一方ではそういう法則があって、外の人から自分を圧迫して人に従わせる。この二つの原因がって、人間というものの特殊の性というものは失われて、平等なものになる傾きがある。その意味で私なら私が、人間全体を代表することが出来る資格を有(も)ち得るのであります。

 私は人間を代表すると同時に私自身をも代表している。その私自身を代表しているという所から出立して考えて見ると、イミテーションという代りにインデペンデントという事が重きを為さなければならぬ。人がするから自分もするのではない。人がそうすれば--他人(ひと)は朝飯に粥を食う俺はパンを食う。他人は蕎麦を食う俺は雑煮を食う、われわれは自分勝手に遣ろう御前は三杯食う俺は五杯食う、というようなそういう事はイミテーションではない。他人が四杯食えば俺は六杯食う。それはイミテーションでないか知らぬが、事によると故意に反対することもある。これは不可(いけ)ない。世の中には奇人というものがありまして、どうも人並の事をしちゃあ面白くないから、何でも人とは反対をしなければ気が済まない。

 (中略)
私のここにインデペンデントというのは、この故意を取り除ける。次には奇人を取り除ける。気が付かないのも勘定の中に這入らない。それじゃあどういうのがインデペンデントであるか。人間は自然天然に独立の傾向を有(も)っている。人間は一方ではイミテーション、一方で独立自尊、というような傾向を有っている。その内で区別してみれば、横着な奴と、横着でない奴と、横着でないけれども分からないから横着をやって、まあ朝八時に起きる所を自然天然の傾向で十時まで寐ている。それはインデペンデントには違いないが、甚だどうも結構でない事かも知れません。それは我儘、横着であるが自然でもある、インデペンデントともなるけれども、これも取り除けということになる。最後に残るには--貴方がたの中で能く誘惑ということを言いましょう。人と歩調を合わして行きたいという誘惑を感じても、如何せんどうも私にはその誘惑に従う訳に行かぬ。丁度跛を兵式体操に引き出したようなもので、如何せんどうも歩調が揃わぬ。それは、
諸君と行動を共にしたいけれども、どうもそう行かないので仕方がない。こういうのをインデペンデントというのです。勿論それは体質上のそういう一種のデマンドじゃない、精神的の--ポジチブな内心のデマンドである。あるいはこれが道徳上に発現して来る場合もありましょう。あるいは芸術上に発現して来る場合もありましょう。

    --夏目漱石「模倣と独立」、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫、1986年。

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漱石のキーワードを拾っていくならば、

人間の全体と関わってくる部分、= 「レプレゼントとして立っている」人間存在。
人間の個別と関わってくる部分、= 人類としてではなく「その人一人を代表している」ものとしての人間存在の部分。

これが、人間における全体に関わる存在者としての性格であり、他とは違うとする個別の存在者としての性格であり、これがひとりの人間にそなわっております。

そして、それを生活環境でふりかえってみるとどうなるのか、キーワードを拾っていくならば、

人間の全体と関わってくる部分、= 生活の中における「イミテーション」(模倣)。
人間の個別と関わってくる部分、= 生活の「インデペンデント」(独立)。

「模倣」と聞けばそれは「猿まね」という言葉あるとおり否定的な印象がつきまといがちですがそうではないようです。ひとはひとを真似ることで人類になり、そこに喜びを感じること出来るのでしょう。

そして「独立」と聞けば一歩間違うと「奇行的」独立に傾きがちですがそうでもない。それは「精神的の--ポジチブな内心のデマンド」ですから関わりの中から自己自身の存在を積み上げていくしかないということなのでしょう。

そうした応答関係から、ひとは人類になり、そしてそれと同時にかけがえのない独立した人格へと成長していくのだろうと察せられます。

そのへんの訓練を怠りなく、どちらかに傾くことのないよう舵取りしていくことが必要かも知れません。

さて……

帰宅してみると、クレジットカードのポイント交換でセレクトしていたギフトカードが届いておりました。これは細君には内緒なわけで……自分一人で、「精神的の--ポジチブな内心のデマンド」で使う予定で、できればこっそりと受けとりたかったわけですが、仕事で不在時に家人が受けとったようにて、意味深に自室の机の上に置かれておりました。
福澤先生が二人分ぐらいのですが……。

「圧迫ではないのです。好んで遣る」ぐらいの精神で分かち合った方がよいのかしら?

新しい悩みに頭を抱える宇治家参去です、。

そふいえば、上述した漱石の「模倣と独立」は第一高等学校(旧制)での大正2年に行われた講演ですが、時代状況を反映して末尾で次のように述べております。

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 要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。唯どっちが今重いかというと、人と一緒になって人の後に喰っ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、こういう方が今の日本の状況から言えば大切であろうと思うのです。
    --夏目漱石、前掲書。

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……であるとすれば、黙って使い込むも良しですが、それもなんだかな~とまた悩んでおります。

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