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私たちはこの美しい惑星上の人間存在を、決して消滅するがままに放置することはできないのです

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 未来については私の頭のなかに、二つのイメージが浮かんできます。一つは、来世紀のある時期、といってもかなり早い時期に、この宇宙から知能の高い生命が姿を消してしまう可能性です。というのも宇宙には、他に生命が存在するという証拠はなく、この地球以外の場所に新しく、生命が誕生するという保証もないからです。核戦争によってどんあに厳しい核の冬がやってこようと、地上の生命が終わるということはないでしょう。というのも深海の海底火山の噴気孔のまわりには、まったく太陽エネルギーに依存しない微生物も住んでいるからである。恐竜を絶滅させた破局はたぶん、極端な核の冬のシナリオにたいへんよく似ています。しかしこの破局も当時、生存していた種の半分を滅ぼしたにすぎないのです。生命はなお続くでしょう。しかし、たぶん私たちをぬきにしてです。
 第二のイメージは、こんご数百万年後のある日に、地上に何らかの別の文明が現れて、信じがたいような生活を展開し、考古学者たちがツタンカーメンの墓を調べるように、私たち自身のはかない文明の遺跡を発見するかもしれないという可能性です。この未来イメージも、最初のものよりちょっとばかり気休めになるだけです。
 核戦争が気候におよぼす影響が、かりに小さいことが示されたとしても、核戦争の直接の影響はあまりにも大きいので、人間はどうしてもこの滅亡の淵から引き返さなければなりません。核の冬は核戦争の災害を何倍にも拡大するとともに、人々に対して直ちに立ち上がることを求めています。私たちはこの美しい惑星上の人間存在を、決して消滅するがままに放置することはできないのです。
    --M.ロワン=ロビンソン(高榎尭訳)『核の冬』岩波書店、1985年。

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きわめて印象批判になるわけですが、それでも承知でかくならば、生活をしておりますと、やはり宇治家参去という生き物はどこまでいっても昭和の人間の自覚がどこかにあるなという実感があります。

意識しているところもあれば、意識していないところもあるのですが、そのひとつが核兵器の存在という問題です。

スタンリー・キューブリックの名作『博士の異常な愛情』を見るまでもなく、自分がうまれた昭和の後半という時代は、実は核戦争の恐怖というのがひとつのリアリティとして確固として自分自身のなかに刻まれております。

ベルリンの壁が崩壊し、バタバタっと共産主義体制が崩壊していったとき、ちょうど高校3年から大学1年にかけての多感?な時期を過ごしておりましたが、到来した社会は、血みどろの内戦と暴力が散発するという状況で、予断を許さないという意味では、ベルリンの壁崩壊前後でなんら自体は変わっておりません。

しかし、若い学生さんたちと話をしていると、生まれたときには、すでにベルリンの壁はなく、ソビエト連邦ではなく「ロシア」であり、東西ドイツではなく「統一ドイツ」という時代認識であり、その感覚に驚くことがあります。

崩壊前のまさに最大の問題は、上述したとおり核戦争の恐怖をリアルにみせた核兵器をいかに削減していくのかというのがそれであったと思いますが、崩壊後の焦眉の問題は、内戦・テロといった問題群に、核兵器から取って代わられたように思われます。

もちろん、どちらが先か重要かといった二者択一の問題ではありません。
ただ、現今のショッキングな映像の陰で「解決済み」と思われがちな核兵器の問題……このことは看過してはならないのでしょう。それが昭和の感覚といわれればそれまでですが、崩壊前後で、核兵器の問題は以前として解決しておらず、なんらかの漸進的な取り組みは、内戦やテロの問題と同様に、否、それ以上に真剣に向き合っていかなければならない問題なのでしょう。

その感覚のずれ……たしかに時代感覚のずれはこうした地球的問題群に対する現象に限定されるわけではありませんし、世代間の問題として現実の生活空間のところではいたるところに現出してくる話題です。

しかし、それがなにか「解決済み」「優先順位の問題」として意図的にミスリードされているようであれば、自分自身で現状を確認しながら、問題と向き合っていく必要があるのでしょう。

ちとふるい本ですが、全面核戦争後の地球の状況を警告したのがうえに引用した『核の冬』です。高校1年のときに、何かの課題でよまされた覚えがありますが、その描き出された未来予想図に戦慄を覚えたものです。

あらゆる問題に関して「私たちはこの美しい惑星上の人間存在を、決して消滅するがままに放置することはできないのです」という深い決意と出発を抱きつつ、現象世界と格闘しなければと思う宇治家参去です。

さて。
よくあることなのですが、鯨飲すると2回に1度ぐらいの高い格率で風邪をひいたり、著しい体調不良になってしまうのですが、今回も例にもれずそのようにて……今回は風邪の模様。飛散する花粉がそのアクセルを踏み続けてしまうという悪循環ですが、これはやはり「罰が当たった」ということなのでしょうか。

「罰をうける」のは自分一人で充分なのですが、核の冬によって人類全体が「罰をうける」のは承服いたしかねると思うのは、宇治家参去ひとりではあるまいと思うところで……。

なぜなら、この「ろくでもない」世界は、「すばらしき」世界だからです。

http://www.youtube.com/watch?v=W-7fzrIJRjM&feature=PlayList&p=B0790740CE7EBAE7&index=4

今晩は飲まずにさっくりと寝ます。

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