« 「私には悲しむ動機があ十分ある。しかし、悲しむまい」 | トップページ | なかなか「分離独立」してくれません。 »

知的自由および多様な才能や興味の発揮を考慮に入れて

01_r0012859

-----

 真の個人主義は、信念の規範としての慣習や伝統の権威の支配のゆるみから生じた産物である。ギリシャ思想の最盛期のような、散発的事例は別として、それはわりに近代的な現象なのである。さまざまの個人の多様性がつねに存在してたことはたしかだが、保守的な慣習が支配している社会は、それらを抑圧するか、でなくても、少なくとも、それらを利用し奨励しはしないのである。しかしながら、いろいろな理由から、その新たな個人主義は、それまで一般に認められてきた信念を修正し変化させる力の発達を意味するものとしてではなく、各個人の心は他のあらゆるものから孤立して完全なものであるという主張として、哲学的解釈を与えられのである。哲学の理論的方向においては、これは認識論の問題を生じた。すなわち、個人と世界との間にはどんな認識上の関係がありうるかという問題が生じたのである。その実践的方面においては、それは、全く個人的な意識が全般の利益すなわち社会の利益のために作用することがどうしてできるかという問題--社会的指導の問題--を生じたのである。これらの問題を処理するために苦心して作り上げられてきた哲学は教育に直接に影響を及び作無かったが、それらの基礎によこたわる仮定は、学習と管理、個性の自由と他人による統制の間に、しばしばつくられた分裂となって現われたのである。自由に関しては、心に留めておくべき大切なことは、自由とは外面的な行動の無拘束状態といよりむしろ精神的態度を指すということ、しかし、この心の性質は、探検や実験や応用などにおける十分な行動の余地なしでは、発達することができないということである。慣習に基礎をおく社会は、慣例に一致する限度までしか、個人的変異を利用しないだろう。画一性が、各階層の内部の主な理想なのである。進歩的な社会は、個人的変異の中にそれ自体の成長の手段を見出すから、それらの変異を大事なものと考える。それゆえ、民主的な社会は、その理念に従って、知的自由および多様な才能や興味の発揮を考慮に入れて教育政策を立てなければならないのである。
    --デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育(下)』岩波文庫、1975年。

-----

出勤前に鉢植えの花桃の木をみると、ようやくいい感じに花びらをふくらませてきました。朝晩はまだまだ寒いのですが、昼のやさしい陽光には春の訪れを感じるばかりで、一瞬すがすがしささえ覚えるわけですけれども、飛沫する花粉に頭を悩ませる宇治家参去です。

明日……といいますか精確にはもう本日(及び明日)ですが、所属する研究所の年度末の学術大会がありますので、早く寝るべきなのでしょうが、なかなか眠くもなく、酒をやりながら予習とばかりにデューイ(John Dewey, 1859-1952)の著作をぱらぱらとめくっております。

太平洋戦争での勝敗を評して「(人工的に創られた)国家神道がデューイのプラグマティズムに破れた」という先哲の言葉があります。

理念的なるものをこの地上の生活になんとか根付かせようとする試みがプラグマティズムであるとすれば、その営みも人工的なそれになるわけですけれども、先の言葉を勘案するならば、同じ人工的な営みであったとしても……否、人間の営み全てが人工的であると評することができますが……どのように着地させるかその手法によっては大きく道筋が異なってくるものだよなと実感するばかりです。

仕事の休憩中にも今日は豚汁だろうということで、汁をすすりつつ、デューイの言葉をひもといていたわけですが、人工の最の最たる教育にデューイが頭を突っ込んでいた所為でしょうか……「役に立つ」という発想は実は大切なのかなと思う次第です。

-----

自由に関しては、心に留めておくべき大切なことは、自由とは外面的な行動の無拘束状態といよりむしろ精神的態度を指すということ、しかし、この心の性質は、探検や実験や応用などにおける十分な行動の余地なしでは、発達することができないということである。

-----

何者にも還元不可能な精神性と、還元を第一とする応用主義とはまったくべつのものではなく相互交流が合ってこそ生き生きと輝き出すのでしょう。

ともすれば、市場経済的発想を遙かに見下ろすような審美的観点からながめてみると、有用の美と無用の美を対立させながら、「役に立つ」「有用である」ということは、「役に立たない」「無用である」ということに対して、「一段低い」と考えがちなのですが、実はそうでもなかろうと。

役に立つ美しさもあれば、役に立たない美しさもあるわけで、そんな二者択一は簡単にできないのですが、余裕をもって対象にアプローチしていかない限り、必然的な分断構造を生みだしてしまうのが実情であるとすれば、「有用性第一主義」にも「無用性至上主義」にも辟易とする宇治家参去です。

さて予習でデューイといいましたが、学術大会の壮美は、なんといっても「記念講演」になるわけですが、本年は、John Dewey SocietyのJim Galison博士のデューイのヒューマニズムに関する講演の予定です。

ヒューマニズムという言葉をきくと眉間にぴくりと筋が走るわけですが、思想史を振り返ってみますと、理念先行のヒューマニズムなるものが、ヒューマンを拘泥したのがその実情です。

であるとすれば、理念を着地させようと奮闘したデューイの探究は、そうした思想史上の陥穽をひとつマア超克するモデルになるわけで、どのような話が出てくるのか今から興味津々です。

民主主義の理念を教育によって着地させようと著されたのが『民主主義と教育』になるわけですが、ひとつ念入りに予習しながら、数時間後のひとときを今か今かと待ちわびたいものですが、数時間後であれば、とっとと寝ろや……ということなのですが、あいにく美酒を手に入れてしまいまして……したたかに味わっているところで御座います。

ちょうど、自分が通信教育部で教鞭を執った初手の講義に参加してくださった学生さん……いまでも交流している(飲んでいたり)わけですが……かれが「先生、いつか地酒を贈りますっていっていたのですが、おそくなってすいません」って口上とともに贈って下さった銘酒が今朝届きました。

最初の講義は07年の5月末に福岡でのスクーリングが初めてになるのですが、それはそれはカルチャーショックの連続で(教鞭歴としてはすでに4年あったにもかかわらず!)、マア濃い~2日間をおくらせていただいたわけですが、そのいわば宇治家参去倫理学1期生からの進物で、恐縮になると同時に嬉しくも思い……馬鹿なのでにやけながら飲んでいます。

細君からは「教師が学生からもらってどうする! 教師こそ何か学生におくるべきだろう、ボケっ」って怒鳴られる始末で、それはそれで100%納得するので、なにか考えますが、それを横に置いておいても嬉しいと感ずることに一抹の浅はかさを覚えつつも、やはりうれしいもので、ありがとうございました。

舐めるように飲んでいます。

「地酒原酒 天山 地酒」(天山酒造株式会社/佐賀県)。

「天山」と聞くと中島飛行機が開発した艦上攻撃機の名前を思い出すことに忸怩たる部分はありますが、竹皮で覆われた一升瓶をさやさやとめくり、盃にうつすと、口に含んでいないにも拘わらず、かぐわしい酒香が部屋一面にひろがるようで……。

本当にありがとうございました!

ちなみに、そのときの学生さんもこの4月で4年生。
教育現場での進路を模索しているようで、これまでも苦闘しつつ順調に単位を取得してきており、本年が勝負どころの1年です。自分も頑張りますが、ともに勝利の一年でありたいもんだよな……とおもいつつ、盃が進むのが……嬉しい難点です。

ガリソン博士の講演を熱心に聞かないとマズイので、ぼちぼち、ねましょうか。

しかしマア、あれです。

-----

画一性が、各階層の内部の主な理想なのである。進歩的な社会は、個人的変異の中にそれ自体の成長の手段を見出すから、それらの変異を大事なものと考える。それゆえ、民主的な社会は、その理念に従って、知的自由および多様な才能や興味の発揮を考慮に入れて教育政策を立てなければならないのである。

-----

こいつはひょっとすると、画一性のヒューマニズムを乗り越える一日になりそうです。

02_img_0948 03_rimg0011

民主主義と教育〈下〉 (岩波文庫) Book 民主主義と教育〈下〉 (岩波文庫)

著者:J. デューイ
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 「私には悲しむ動機があ十分ある。しかし、悲しむまい」 | トップページ | なかなか「分離独立」してくれません。 »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 知的自由および多様な才能や興味の発揮を考慮に入れて:

« 「私には悲しむ動機があ十分ある。しかし、悲しむまい」 | トップページ | なかなか「分離独立」してくれません。 »