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人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない

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 しかしながら、自分は自由たるべく生をうけたと人間が感じることを、世界のなにものも妨げることはできない。断じて、なにがあろうと、人間は隷従をうけいれられない。懲罰によって奪いさられた過去の至福にせよ、神秘的な摂理との一種の盟約によって到来すべき未来の至福にせよ、人間は限定/限界なき自由を夢想することをやめはしなかった。マルクスが想像した共産主義はこの夢想の最新型である。すべての夢想とおなじく、この夢想もやはり実現されずに終わった。たとえそれが慰めになりえたとしても、阿片としての慰めにすぎない。自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期がきている。
 完全な自由を明瞭に思いえがく努力をすべきである。ただし、それに到達する望みをもってではなく、現在の状況よりも些かでも不完全ではない自由に到達するという望みをもって、より善き状況は完全な状況との対比でのみ構想しうる。めざすものは理想(イデアル)をおいてほかにない。理想は夢想とおなじく実現不可能であるが、夢想とちがって現実との関連がある。限定/限界としての理想があれば、現実的もしくは実現可能な諸状況を、さまざまな価値の序列にそって並びかえることができる。
 われわれが恒常的に重圧をこうむる必然の消滅のみをもってしても、完全なる自由を構想することはできない。人間が生きていくかぎり、つまり人間がこの無情な宇宙の微々たる断片でありつづけるかぎり、必然の重圧は一瞬たりともゆるむまい。最小限の労苦で最大限の見返りを享受するなどという状態は、たんなる虚構としてでなければ、われわれの生きる世界に場をみいだしえない。たしかに、自然は人間の欲求にたいして、風土やおそらくは時代によっては寛大なことも厳格なこともある。しかし時と場を問わず、自然を決定的に寛大にする奇蹟敵な発明を期待するのは、かつて千年紀の当日によせられた希望とおなじく、およそ合理的とはいえない。そんなものは仔細に検討すれば、虚構であることを惜しむ価値すらないとわかる。人間の弱さを考慮するならば、労働の観念すら喪失したような人生が、さまざまな情念やおそらくは狂気にすらさらされるだろうことは、充分に理解できる。
 規律なしに自己の制御はない。そして人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない。有閑階級の連中がみずからに障碍を与え、学問や芸術や遊戯に精をだすこともあろう。しかしたんなる気まぐれが生みだす努力は、人間にとって気まぐれそのものを制御する手段とはならない。自己にうち克つ機会を与えてくれるのは、ぶつかって乗りこえねばならぬ障碍である。学問や芸術やスポーツのようにこのうえなく自由とみえる活動でさえ、労働に固有の精確さ、厳密さ、細心さを模倣し、ときには凌駕しさえするのでなければ、なんの価値もない。農夫や鍛冶師や水夫が、みごとに両義的な表現が示すごとく、「しかるべき立派に」かつ「必要に迫られてやむなく」働くとき、かれらが意識もせずに呈示してくれる手本なしには、自由と見える活動も純然たる恣意へと堕するだろう。
    --シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005年。

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思索と行動の思想家とは誰かといえば、やはりシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)の他にはおるまい……などとその難渋な文章と立ち向かうある日の宇治家参去です。

冒頭に引用したのはヴェイユの初期の著作からの一節ですが、近代社会の構造的な不正と暴力、そしてその抑圧の構造の原因とは何かを論じた和文で100頁たらずの小著ですが、そこで紡ぎ出されている言葉は軽く看過することができず、何度読んでも新鮮で読むたびにその理解が新しくなるのが不思議です。

ヴェイユはリセの教員となる傍ら、工場や農場での労働の現場で仕事をし、そのなかで思索を深め、政治活動に身を投じる中では、1936年のスペイン内戦では、人民戦線派義勇兵に志願した人物で、「労働する人間」にこだわっています。しかしながら、トロツキー(Lev Davidovich Bronstein,1879-1940)親子と深い親交があったにもかかわらず、マルクス主義(全体主義)に対する違和感も強烈に表明しており、そのへんをどのように理解すればよいのだろうか……そう悩んでいたとき?紹介されたのがこの一冊です。

余談になりますが、活字文化の衰退が危惧されるなかで、こうした「まとまな」本が文庫本で出版されるあたりに、かすかな光明をみる思いです。

さて……
人々は現実の、マア「どうしようもない」状況をなんとか脱却しようとして、理念とか理想とかを「仰ぎ見る」ことがしばしばあります。

ヴェイユはそうしたイデアルなものを仰ぎ見つつも、「どうしようもない」状況が諦めさせてしまう実態も熟知しております。

不幸とはまさに理不尽に人の世界に食い込んできます。

ヴェイユは工場労働の経験の中で、通俗的な表現ですが、「奴隷」へと堕ちたたくさんの人間を見ておりますし、ヴェイユ自身そのことをいやというほど経験しておりおます。理念へ向けて上昇しようとするのも人間ですが、それと同時に、「奴隷」へと引き下げられてしまうただ中にいるのも人間です。

その、そのどうしようもなくひっぱられる力のなかで、何が不幸なのかすら理解できない地平にまで引きずられてしまうことも多々あります。そのなかで人格まで存在の地平から退場を命じられてしまうわけですが、それでもなお、なんとかその「重力」@ヴェイユ『重力と恩寵』から脱していこうとするのも人間であります。

それでもなおヴェイユはイデアルなものを「諦め」ません。
そこに彼女の魅力と難解さを実感するわけです。
その意味で、ヴェイユ自身がイデアルなものを手放さない見本としての歩みを生き抜いた生涯であった……そう思わざるを得ません。自分自身が傷つきながらも、そして病みながらも、隣人へと向かい合おうとしつづけたヴェイユのそこ力には、実は諦めも不平も不満も何もありません。

ただ、大切なのは注意力かもしれません。

小さな声なき声に耳を傾ける、すなわち、存在していないものへの気遣いといっていいでしょう。

そんなことに裂く時間はねえ。

言うのはたやすいしですし、ヴェイユの真似もできません。

しかし、大切なことは、注意、気遣いであり、それは何かといえば、思想的には自らの思考を決して停止させない努力と忍耐なのでしょう。

ほんのすこしだけ、自分自身に気を遣い、そして目の前の人間に気を遣うだけで、大きく状況とは変化するものです。

不思議なもので、レジを打っていても……マア、今日もまたまたアリエナイ状況で、さすがに4時間を超えると足がしびれてくるのには参りましたが……ひとつ、今日は「丁寧にやってみよう」と久し振りだったので、そうした向かい合い方で注意しながらやってみると、1回1回のレジ打ちが、これもマア作業なわけですが、新鮮な人間と人間との向かい合いになることに驚きです。

脱線しました。

ヴェイユによれば、この世界とはひたすら下落へと向かう重力に支配されているのが実情です。その恣意性のなかで、ひとは迷い、過ちを犯していくのでしょう。

ヴェイユが一番注意したのは恣意性です。

その意味で、理念的なるものはどうしても必要不可欠かもしれません。

「人間とは何か」という議論において、理念的なるものが先行してしまうと、どうしても生きている人間を分断しているのも承知です。しかしどこかで現実を相対化させ、次のステップへと歩みを進めさせる理念的なるものはどうしても必要かも知れません。分断による血のにおいをかぎつつも、その血のにおいをかぐことによって、現実の生きている人間の存在を自覚し、その連帯のなかで、より善へとむかっていくしかないのか……というのが宇治家参去の実感です。

夢想は慰めにすぎないのでしょう。ここには現実を変革する本物の力を秘めてはおりません。

そして……

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理想は夢想とおなじく実現不可能であるが、夢想とちがって現実との関連がある。限定/限界としての理想があれば、現実的もしくは実現可能な諸状況を、さまざまな価値の序列にそって並びかえることができる。
    --ヴェイユ、前掲書。

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理想は夢想とちがって、現実の関連があるからこそ、現実の限界を乗り越える本物の力を秘めているのかも知れません。

さて……。
仕事が済んでから帰っても本日は食事がないということで、更級そばを買ってかえり、今からざる蕎麦で一杯です。

SAPPOROの出した新商品「冷製SAPPORO」が出ていたので、試しに!とのことにて、ざる蕎麦とのセッションです。

この時間から食べると、間違いなくメタボへ直行なのですが、その意味ではまだまだそうしたところへの予防を夢想にしか思っていない、れいの如くヘタレな宇治家参去です。この分では脱却通し!というのが実情ですが、またこれはこれで考えましょう(苦笑)。

とわいえ……「冷製SAPPORO」。
いわゆるその他の雑酒に分類されるアレですが、そのジャンルでいくと同社の「麦とホップ」のほうがウマイような……。

来月21日は、「道産素材」が同社よりリリースされますが、こちらに期待したほうがよいかもしれません。

ということで……。

末尾のヴェイユの言葉を今一度味わってみたいものです。

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 規律なしに自己の制御はない。そして人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない。有閑階級の連中がみずからに障碍を与え、学問や芸術や遊戯に精をだすこともあろう。しかしたんなる気まぐれが生みだす努力は、人間にとって気まぐれそのものを制御する手段とはならない。自己にうち克つ機会を与えてくれるのは、ぶつかって乗りこえねばならぬ障碍である。学問や芸術やスポーツのようにこのうえなく自由とみえる活動でさえ、労働に固有の精確さ、厳密さ、細心さを模倣し、ときには凌駕しさえするのでなければ、なんの価値もない。農夫や鍛冶師や水夫が、みごとに両義的な表現が示すごとく、「しかるべき立派に」かつ「必要に迫られてやむなく」働くとき、かれらが意識もせずに呈示してくれる手本なしには、自由と見える活動も純然たる恣意へと堕するだろう。
    --ヴェイユ、前掲書。

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