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われわれはつまり、宇宙の貴族というわけですね

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 <神の像>への問いが問題化してきたもう一つの理由は、われわれの世界像の変化である。現代の世界像は、われわれの地球を創造と救済史の中心とみなした古い地球中心的把握に代わって、複数の世界および世界機構を具えた際限なき宇宙の像を立てた。この世界像は、専門学者によってすでに四〇〇年も前に告知されていたが、宇宙飛行の時代に至ってようやくそれは広くひとびとの意識のうちに定着し、また衝撃に近い仕方でわれわれの世界感情と宇宙的意識を変化させたのであった。アポロ八号の宇宙飛行士たちによるあの写真、火山性で褐色で荒涼とした、またあちこちにクレーターの見える月面の情景と、その上方に魅惑的な、青味を帯びて煌めく明るい球体の地球を浮かび上がらせたあの有名な写真は、われわれの宇宙的意識の新時代の始まりである。
 このように地球以外の天体から地球に視線が向けられたということから生ずる注目すべき帰結は、予想されうるであろうものとはまさに逆に、地球の唯一無比性、そして人間の唯一無比性なることの新たな発見ということなのである。クレムは、「おお、この楽園のごとき地球よ!」ととっさに叫んだ。大気もなく、生命もなく、風も香りも水も、植物や動物もなく、いかなる未来の可能性もない一つの死せる天体を目の前にして、はるかに地球は宇宙無いの不思議な特例、まったく稀有にして無比なる諸条件をもつ場所として姿を現わし、しかもこれらの条件のもとで原子運動から有機的生命へ、そして動物的生命へと進む歩みは、一つの楽園そのままの多様性において生じえたのだ。そして今や最後に、人間が、この生命発展の最後の歩み、自覚=存在(意識)への歩みが現われ出る! それはまさに、いわゆる意識をはるかに超える一つの認識の形態への歩みである。と言うのも、この意識はまさに個別的なものを一つの統一へと綜観するという能力が帰属するからである。しかしこれとて、視点の一側面にすぎない。人間の意識のうちでは、われわれの地球上のさまざまな存在領域が一つの全体性へとともに配列されるばかりではない。人間において初めて、宇宙がその自己直観に到るのである。
 大宇宙(マクロコスモス)への観察は、さしあたっては人間を、宇宙内のほんの一つの塵塊上にさらに付着する塵粒と思わせ、人間の価値をまったく見失わせるに到るかのように見えたが、今や次第に人間は、生命の発展がまったく唯一無比なる段階にまで到達した例外的なものとしてますますおおきく現われてくる。天文学が星雲や恒星やその他の新たに発見された宇宙事象のスペクトル分析を通じて、多様にして測り知れない物質の神秘への観察をいよいよ深く進めるにつれ、また天体物理学が物質の構造の神秘への洞察をますます深く開くにつれ、人間の特殊性はそれだけいっそう唯一無比なものとなるのである。
 パスクアル・ヨルダンは--彼にはザンブルスキー教授も言及しておられる--、目下ある著作を執筆中であるが、この書のなかで彼は、地球以外の天体または宇宙空間内に生命の存在を想定しなければならないという、その蓋然性算定に関して従来なされてきたすべての結果に反対して、人間が意識の段階に到達した、また宇宙がそのうちで自己直観に達した宇宙内の唯一の存在であるという、その蓋然性の方がより大であることを証明せんと試みている。それによれば、なるほど地球以外のどこかで、場合によってはまたまったく異なる情況の前提のもとで、何等化の有機的生命が形成されることはありうるかも知れないが、他方、意識への飛躍が生ずるには、幾百万年の発達を経てわれわれの地球上にのみ出現した唯一無比なる諸条件が前提となり、それが繰り返されることはおよそ不可能であるとされる。人間はまず世界の複数性の発見以後、完膚なきまでの自己の価値剥奪を味わったのであったが--そしてそのことがまた十六世紀のカトリック教会にとってこの理論に反対させる動機となったのであったが--、今や突如として再び、唯一無比なるものとして宇宙の中心へと引き寄せられるのである。私はパスクアル・ヨルダンに、「あなたのお考えからすれば、われわれはつまり、宇宙の貴族というわけですね」と言ったが、それに対して彼は、「そうですよ。しかもそれも、いわば別格の貴族なのですよ」と、私に答えた。
 それゆえここには、神学的に見て、新しい宇宙論に関連する神学的人間学のまったく新たな課題が提起されている。すなわちそれは、まず物質の神学的考察に始まって、われわれのまったく新たな世界を神学的に改めて徹底的に思考するという課題である。
    --エルンスト・ベンツ(薗田担訳)「<神の像>としての人間」、エラノス会議編(井筒俊彦ほか日本語版監修)『人間のイメージI』平凡社、1992年。

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市井の職場で仕事をしていると、希にあるのですが、帰宅する前にまとめる「日次報告書」に「特記事項何もなし」と書くしかないよな……という一日があります。

今日もそのような業務内容で、それなりには忙しいわけでしたが、特段のトラブルも事故もなく、いうなれば「つつがなく」作業が進行したという状況で、ふと安堵です。

クレームとかトラブルということはもちろん忌諱したい「つつがなくさせない」情況ですが、それはそれとしながらも、「つつがなく」「ナニモナイ」ということに関しては、昔は「ツマラナイな」などと思うことがありました。

しかしながら、仕事をしながら最近つくづくと実感するのは、「つつがなく」「ナニモナイ」という情況は、実はそれこそ稀有な事例であって、「つつがなく」=「ナニモナイ」のではなく、それは見逃しているだけであって、実はそこに芳醇な意味とか人間世界のオモシロミが実はひっそりと存在するのでは無かろうか……そういうところです。

もちろん、手帳に予定がまったくないことを「なんだかな」とつっぱった若い頃の感覚から、そうした心根を見るならば「つつがなく」「ナニモナイ」ということは、考えるに値いしない対象だろう~と若かりし頃の自分に叱られそうで、今の宇治家参去さんは「枯れたのか?」などと心配されそうです。

しかし、「枯れた」わけでもなく、益々?意気軒昂に生きている?自分としては、つっぱしるなかで見過ごしてきた「つつがなさ」とか「なにもなさ」に対してまでもアンテナを張ることが出来るようになったのかな……などと思うところです。

メーテルリンク(Count Maurice Polydore Marie Bernard Maeterlinck,1862-1949)の『青い鳥』ではありませんが、「つつがなく」「ナニモナイ」情況にもそれを現出させる奮闘があり、ふだんひとびとはそれを省みなく、穏やかな波だけを見て「ツマラネエ」と自閉しているだけであって、実はそこにこそ豊かな意味があるというところでしょうか。
さて……
仕事の最中ですが、メーカーの担当者が来店しましたので、煙草を吸いながらしばし情報交換です。

何が売れているのか。
何が売れていないのか。
作り手はどれを売りたいのか。
……んでもって「つつがなくさせない」事例のこととか。

どうやら伺ってみますと、最近多いのが、「表示されていないからなんとかしろやボケ」という事例のようでございます。

譬えは悪いのですが、例えばカップスープとかカップ春雨……よく売れています。
熱湯を入れてあつあつのをふうふうやると、これがマアうまい……というわけでこの季節よく売れております。

たしかに「熱湯に注意!」とは表示されております。
しかしながら、「かきまぜた熱湯が手に被ることに注意」とは表示がありません。もちろん「ゆっくりとこぼれないようにかきまぜましょう」と書かれてはおります。

すると……、「かき混ぜた時、熱湯が手に被り、水ぶくれができたぞー! をゐ!なんとかしろや」という声も出てくるわけで……。

というような話をしながら、哲学の議論ではありませんが、「書かれてないのが責任といえば責任でしょうが、これまで〝想定〟していたような事例ではなく、〝想定外〟のお申し出があり苦慮するばかりです。ただそこにもいろいろなヒントはあるわけで……」との言葉を頂きながら、ワタクシとしては「普通の人間ならこうだよな~と以心伝心ではありませんが、まずもって自分持っている人間像から対象を措定する。そうしたあり方が実はみなおされているのかもしれませんね!……とわいえ、何でも〝ごねたもん勝ち!〟とか何でも〝訴訟〟という風潮には極めて違和感がありますから、お互いに何が人間かを確認しながら、一元的な概念の強要を求めるのではなく、協同しながら概念を立ち上げていくしかないのかもしれませんよね」などと応答しながら、マアここでも「人間とは何か」を少し考えるきっかけになったということなのでしょう。

確かに、現実に問題のある製造会社やメーカーがあることも一面の事実です。
しかし、全部が全部そういうわけでもなく、真摯に紳士に対応しながら、がんばっている会社にはホントに頑張ってもらいたいです。

本論からずれる……いつもそうですが……訳ですけれども、売り手や作り手の問題ももちろんありますが、そうした他者論とともに「自分という人間は何ものなのか」という深い人間学的議論、自己認識を欠如した日本の消費文化には一抹の未成熟さを感じてしまうのは宇治家参去ひとりではないのでしょう。

「それではお互いにマア、ひとつ頑張りましょう!」
と交歓してから、休憩にはいり、『人間のイメージ』を繙くわけですが、マールブルグ大学で教義学を講じたエルンスト・ベンツ(Ernst Benz,1907-1978)の文章はなかなか含蓄深いものがあるなと一人悦に浸ってしまいました。

宇宙時代を迎えて神学の世界は、その創造論・救済論に関して大いなる挑戦と更新の時期をむかえました。

たしかに大宇宙に夢を馳せてみますと、知性を備えた生命の存在を否定することは不可能です(ただし、ここでも本論からずれることをいうならば、これをおもしろおかしく報道するメディアの責任は重大ですが)。

しかしそれと同様に、その存在が開花するための条件もきわめて希なことをふまえるならば、地球に住む人間である自己自身もまさに稀有な存在であり、まさに「別格の貴族」たることを忘れてはならないのかもしれません。

そしてとなりの部屋で気持ちよく寝息を立てている子息殿も「別格の貴族」なのでしょう。自分一人が「別格の貴族」であるわけではありません。

ここのところを理解しておかなくてはなア~などと思うわけですが、日付が変わった本日、上野動物園ツアーなるものが予定されており、こんなことをグダグダと書いているわけにもいかないのですが、「別格の貴族」様に向かい合いながら「別格の貴族」様とは何か……考察していきたいものですが、ぼちぼち飲んで寝ないと……極めてマズイでございます。

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コメント

最近コメントをつけすぎな男、うへのです。
どうも宇治家さんの言に反応してしまいます。

さて、「熱湯に注意」について。
中島義道の「うるさい日本の私」を紐解くまでもなく、実はこれって日本固有の問題ではないかと。プラットホームに立てば、「危ないので黄色い線の~」、電車に乗ったら「駆け込み乗車は危ないので~」、走りだしたら「揺れますので~」・・・。一人一人が主体的(宇治家さんが疑問を呈していた主体的とはここではおそらく意味が違うでしょう)に生きていたらこんなもの必要ないのではないかと思います。
どうも日本人(の多く)は主体的に生きるとか責任をとるという事を放棄しているようにも思えます。
この人生というやつは不条理でしかも偶然的で、でも生きる以上はそれを引き受けなければならないはずなのに。
例えば、野球選手。甲子園を目指してどんなに努力しても、努力に比例して結果が出るわけでもない。プロを目指してどんなに努力したって、結果が全ての世界。プロジェクトXの裏には、無数のプロジェクトマイナスXがあるのです。

さて、ここで「派遣切り」の話へ。
最近よく切られた派遣の人がドキュメンタリー形式でテレビに出てきたりします。そこで、社会が悪いとか政府が悪いとかのたまって、何とかしろ!みたいなことを言う人もしくはそういう活動をしている人がいます。しかし、どーも同情できないんですね(もちろん同情を禁じえない人もいます)。誰が生活や仕事の保証をしてくれると言ったのでしょうか。ないし生きていく保証などを。確かに生存権などは憲法にうたわれているものの、そんなものはそもそも人間が作り出したフィクションでしかないのに。
にもかかわらず、自分で何とかするのではなく他人に何とかしろ!という浅ましくも傲慢な態度。
この態度は「熱湯に注意」と同じ基盤を持っているような気がします。

とここまで書いてみたところで、どーせ日本社会は変わらないので、「毒舌に注意」とか「時々嘘をつきます」とか、自分に張り紙をして外出するようにしようと思います。

投稿: うへの | 2009年3月11日 (水) 10時58分


うへのさんゑ

>「毒舌に注意」とか「時々嘘をつきます」とか、自分に張り紙をして外出するようにしようと思います。
そこまでする必要はないかと思うのですが(苦笑)。
しておいた方が、「無難」というやつが今の社会かもしれませんね。

フィクションにしかすぎないものをフィクションであると知った上で、あえてそれにのるが大人の生き方かなと思うわけですが、フィクションをフィクションだから潰してしまえ、だけど代換品は用意していないよっ!って弾劾が多く、何か違和感を感じざるをえませんね。もちろんフィクションそのものに問題があるのであれば、まさに自覚的にスライドさせていかなければならないはずなのですが、安全地帯から遠吠えするだけではどうしようもないのですけれども。

ご指摘の通り、あるところでは主体的な関わり……自覚とよんでもいいかもしれませんが……自覚的に主体を放擲しているのが今はカッコイイのでしょうかねえ。

そのように呟く時点で既に私もオッサンかな?

などと思うわけですけれども、池波狂としては、無様な不躾な生き方というやつはどうも選択できません。


投稿: 宇治家 参去@モバイル | 2009年3月12日 (木) 09時49分

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