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「私には悲しむ動機があ十分ある。しかし、悲しむまい」

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 喜びとは、妨げになっていたものが不意になくなり、その結果満たされた意欲のことである。悲しみとは、何事かについて、それが不可能だと分かってもなお止むことのない意欲のことである。そこで理性的な人は言う。「私には悲しむ動機があ十分ある。しかし、悲しむまい」。これら喜びや悲しみなどは、意志の作用である以上、動機づけの法則に従っている。認識の直接の客観であるとともに意欲の直接の客観でもある身体は、必ずと言ってよいほど、こうした喜びや悲しみなどによって影響を受ける。また、喜びや悲しみなどには〔第一に挙げた〕肉体的感情が伴っている。つまり、両者は混ざり合っているのである。
 ところで、われわれは喜びや悲しみなどを支配しようとする。はっきり言えば、抑制しようとする。すなわち、喜びや悲しみを抑制し続けることで最後にはそれらがもはや現れなくなるようにするために、それら喜びや悲しみのそれぞれに対立する願望を意欲にまで高めようとする。そして、誰もが持つこうした要求によって、喜びや悲しみなどは意志の作用であるということがすでに証明されている。
 一方、抑制とは反対のことが起こると、経験的性格はそのことによって生じる激しい願望に完全に規定された格好で現れるため、あたかも、こうした激しい願望に対立する願望はもはや起こりえず、その点で人間はいわば自らの理性の使用を停止しているかのように思える。そうした場合、人間はまるで動物と同じに見える。以上のような激しい願望が、いわゆる情熱である。
    --ショーペンハウアー(鎌田康男ほか訳著)「充足根拠律の四方向に分岐した根について(第一版)」、『ショーペンハウアー哲学の再構築』法政大学出版局、2000年。

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全国区の学生歌……といっても旧制の時代ですが……のひとつにデカンショ節なる都々逸のような歌曲があります。

兵庫県(篠山市)の民謡をもとにアレンジされた歌なのですが、そのデカンショとは何かといいますと、学生の立場からすると、デカルト(René Descartes,1596-1650)、カント(1724-1804)、ショーペンハウアー(1788-1860)といった哲学史上のビッグネームの略称につらなるという説がひとつあります。

真偽のほどは定かではありませんが、旧制高等学校の学生たちにマア、愛読されたのデカルト、カント、ショーペンハウアーであるとすれば、牽強付会とまでいわなくとも、その往時の人気ぶりを偲ぶことは可能でしょう。

哲学史を振り返るならば、デカルト、カントの人気には頷けます。デカルト、カントの哲学は、西洋哲学を学ぶ学徒にとって避けがたい対象であり巨峰であります。しかし最後のデカンショの〝ショ〟の部分のショーペンハウアーに関しては、デカルト、カントに比べると、通俗的な哲学史では、そこまで関与しなくてもいいんでは?などとフト思われる存在として位置づけられているところを踏まえてみるならば、戦前の学生たちの心を掴んだことに不思議な思いを抱いてしまう宇治家参去です。

べつにそれは、省みなくて良い対象、踏まえなくて良い対象という意味では決してありません。しかし、ビッグネームはデカルト、カント以外にたくさんある中で、何故にショーペンハウアーの哲学が人気を博したのか……興味深いところであります。

私見になりますが、ひとつはショーペンハウアー自体が稀有な才能の持ち主であったのに対し、不遇な生涯を送らざるを得なかった煩悶の人であったということなのでしょう。

日清戦争後、日露戦争を経るなかでいわゆる国民国家体制としての日本という枠組みが堅固な楼閣として構成されます。何をなそうにも、自分の外界はすでにできあがっており、レールにそって歩むしかない。そのなかで、若い世代たちは、生き方の問題を徹底的に悩むわけです。

1903年、華厳の滝に入水自殺した旧制一高生の藤村操(1886-1903)の「萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」という時世の言葉に象徴されているように、まさに時代と世界に対して自己自身の意志が煩悶している……煩悶の世代……そこに煩悶の人生を歩んだショーペンハウアーの言葉が共鳴したのかも知れません。
※先んじて書きますが、別にショーペンハウアーは自殺を肯定もしておりませんし、後世の研究では、藤村操の入水自殺の真相は別にあるようです。

ただしかし、できあがった世界とか体制……実はできあがっていないのですけれども……それとどのように自由な意志の存在者としての自己自身を向き合わせていくのかという問題意識を考えるならば、あながち煩悶というのは、古臭い問題でもなく、ひとは皆、生きる中で煩悶しながら、「さあ、どうするべ」と考えているのが実情なのでしょう。

ショーペンハウアーは、主著『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819)のなかで、世界の本質は生きんとする盲目の意志であるとします。

一見すると超個人的還元主義な独我論に聞こえそうですが、実はそうではありません。
この意志とは実は恣意的な独我的な意志のちからでもなく、同時にそれに向かい合ってくる自分より先にできあがっているとされる世界もその真相は堅牢な楼閣でもない……『意志と表象としての世界』を読んでいるとそんな気がするわけですが……。

自分も世界もできあがった完成品であるわけではありません。

「概念は死んでいるのに対してイデアは生きている」というのはショーペンハウアーの言葉ですが、そうした言葉に耳を傾けると、自由に生きようとする人間が、世界の制約のなかで実は自己自身に目覚め、世界と関わっていく中で、理念的なるものに形をあたえていく……そうした歩みをすべきでは……マアそんなところにショーペンハウアーの哲学の魅力を感じるわけですけれども、そうした力が、ときには自己自身の無力感に悩まされた学生たちに人気を博したのかも知れません。

さて……。
最初に引用したのはショーペンハウアーの博士論文の一部からです。
こういう彼の文章を読んでいるとつくづく実感するのが、人間の清濁あわせた不可思議な言葉にならない感情を表現する最大の名手はショーペンハウアーをおいて他にはいないよな……というところです。これはどうしてもデカルトにもカントにも真似できない部分です。

すべてを意志の問題として論じていくわけですけれども「喜びとは、妨げになっていたものが不意になくなり、その結果満たされた意欲のことである。悲しみとは、何事かについて、それが不可能だと分かってもなお止むことのない意欲のことである」などという言葉はなかなかでてこないわけでして……あらためてショーペンハウアーの鬼才ぶりに驚きつつ、珍しい越後の地酒「吟醸生貯蔵酒 朱鷺」(美の川酒造株式会社/新潟県)を手に入れましたので、黄金カレイの唐揚げで、ちびちびとその余韻を味わいつつ、ぼちぼち寝ようかななどと思うところで御座います。

出荷からまだ半月も経っていないようで、「生」という言葉に弱い宇治家参去ですけれども、ひとくち舐めると、これがマア味わいが口の中で口の内壁を圧倒するように広がる・広がる……。

で……なんでショーペンハウアーの言葉に注目していたのでしょうか?

書いているときは失念しておりましたが、今思い出しました。

24時に仕事が済んでから
「サア、酒でも買って帰るか」と酒を買ってお店を出ると、自分の前で買い物をしてた20代半ばのカップルなのでしょう……店からでるといきなりキスをはじめちゃいまして……。かなりディープなようで……。

よく漫画なんかにあるじゃないですか。
自転車に乗っている主人公が……自分もそのとき自転車に乗っていたわけですが……何かに見とれていると……そのお陰で電信柱にぶつかってしまうネタがあります。

そういうコボちゃんのお父さんのような眼差しで驚きながら、あわやこけそうになりながら、若いカップルの路上キッスに「喜びや悲しみなどには〔第一に挙げた〕肉体的感情が伴っている。つまり、両者は混ざり合っているのである」んだよな……とショーペンハウアーの鋭い眼光が思い浮かばれたわけでして……。

お幸せに……。

マア、驚く自分自身が昭和の人間なんだよなと自覚しつつ、それでもなお、それは当人の問題であるからして……美しい日本人にこだわるオオヤケ優先主義的な「パブリック・スフィアにパーソナル・アフェアーを持ち込むな」という恫喝には賛成できないなという感覚をもっていることも自覚しているので、それはそれで平成の人間でもあるんだよなと思いつつ、言説として「パブリック・スフィアにパーソナル・アフェアーを持ち込むな」というのは恫喝の言説として履行すべきではなく、対話と説得によって履行すべきだよなと考えているという時点でポスト・モダンなんだよなと微笑している宇治家参去です。

オオヤケさんのいう恫喝(すなわち「恥を知れ、恥を。清き美しい日本人は路上でキッスをすべきでない!お前ら非国民で逮捕する!!」)にも、どこでもキッスをすることにはばからない動物化するポストモダニストにも共通するのは、実は品性を欠いた「この無礼者」というところでしょうか。

しかしながら……。
お幸せに。
山下公園@横浜市なんかでその光景を眼差すと別に不快感も不愉快感もありませんが、これが満員電車のなかでやられると不愉快で不快感なんだよなと……。

どうでもいいネタですいません。

「私には悲しむ動機があ十分ある。しかし、悲しむまい」と頑張る宇治家参去でした。

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