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純粋に道徳的な、心情の友情は、たんなる理想ではない

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 「愛と尊敬のもっとも内的な合一」〔VI469〕は、しかし友情である。友情とは、他者の福祉に与り、それを分かちあうという理想であり、かくしてまたそれじしん一箇の義務である。友情のうちで、接近することの原理と、距離をたもつことの原理が合一される。友情とは、相互の利益を目的とした結合ではない。友情は純粋に道徳的に、すなわち直接に心情そのもののうちで基礎づけられている--友情とはつまり、目的から自由に互いに対して(フュール・アイン・アンダー)存在することなのである。そこでは、だれも他の或るもののために存在するのではなく、両者は直接に互いのために(フュール・アイン・アンダー)存在している。友情は、それが外的に取りまとめるなにものも結合することがない。だからこそしかし友情には、内的な支えが必要となる。友情にそうした支えを与えるものが相互的な尊敬であって、相互的な尊敬により、友情における相互的な愛が制限され、じぶんを-卑俗に-することが防止される。この純粋に道徳的な、心情の友情は、たんなる理想ではない。この「黒い白鳥」〔VI472〕は、じっさいいたるところ、完全なかたちで現実に存在しているのである。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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来年で幼稚園の年長さんになる一人息子がおりますが、宇治家参去と同じく非常に「人見知り」が激しく、最初はどうなることか……と悩んだものですが、どうやらそれも杞憂のようで、最初はあれほど嫌がった登園ですけれども、1ヶ月もすると馴染みはじめたようで、ホッとしたのが思い出のひとつです。

年中さんになってからも元気に幼稚園に通っているようで、その小さな世界のなかで、共同存在としての人間というあり方を学んでいるのだろうと想像する次第です。

遊ぶことは楽しいのでしょう。
しかし、話を聴いてみると、ひとりで遊ぶよりも、どうやら「ゴガクユウ」と一緒に遊ぶのが痛快のようでございます。

思えば自分自身も、幼年教育からはじまり大学院を満期除隊するまでの期間で何が残ったのかといえば、やはりかけがえのない「友」の存在ではなかろうかと思います。もちろん、そうしたことをオッサンの呟きとして活字としてしまいますと、「オトモダチ」とは、そうした艶やかな思い出だけでなく、時として自分自身の存在を抹殺しようとする暴力としても発動するゼ……などと現代思想家からはののしられそうですが、そんなことは百も承知です。しかし、それでもなおそこに通俗的な表現を用いるならば「美しさ」「ありがたさ」を感じるのも生活世界の実感であり、暴力性を承知してはいるものの「人間世界はそれだけではない」などと思うところです。

ちょうどドイツのユダヤ系哲学者・レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)がカント(Immanuel Kant,1724-1804)『道徳形而上学原論』についてコメンタリーをしているところを読んでいたものですから、頷くところしばしばです。

友情にもマア様々なレベルもありますし、その弊害とか黒い呪われた部分も承知ですが、アリストテレス(Aristotle,384BC-322 BC)も言っているとおり「友愛(フィリア)」の感覚とは人間が人間らしくいきていくうえで必要不可欠な観念なのでしょう。

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両者は直接に互いのために(フュール・アイン・アンダー)存在している。友情は、それが外的に取りまとめるなにものも結合することがない。だからこそしかし友情には、内的な支えが必要となる。友情にそうした支えを与えるものが相互的な尊敬であって、相互的な尊敬により、友情における相互的な愛が制限され、じぶんを-卑俗に-することが防止される。この純粋に道徳的な、心情の友情は、たんなる理想ではない。この「黒い白鳥」〔VI472〕は、じっさいいたるところ、完全なかたちで現実に存在しているのである。
    --レーヴィット、前掲書。

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レーヴィットの表現もなかなか乙なものです。「理想」といえば、現実に存在していない理念として受けとめがちですが、友情の概念に関して言えばそうではなく、「じっさいいたるところ、完全なかたちで現実に存在している」。哲学者の議論といえば、七面倒な議論が多いですが、この一文は、なにか本人がストレートにそう思っている心情をそれとなく織り交ぜたようで、美しさすら感じるもので御座います。

さて、息子殿にとっては、大好きな幼稚園生活ですが、大変恐縮ですが、明日……というより……もう本日ですが、チト私用でお休みしていただかなくてはなりません。

宇治家参去の休日というヤツが、平日しか設定しておらず、もちろん、有給で休日休むことは可能なのですが、チト3月は卒業式とか研究所の学術大会で「休まざるを得ない」要件が多く、平日に家族の人々との要件を入れざるを得ない……というのが実情です。

それでこの金曜日、お受験塾からも春休みに必ず行くようにとの通達が出ておりましたので、東京都恩賜上野動物園を訪問しなくてはならず……大好きな幼稚園はお休みの予定です。

動物の様子をきちんと観察して表現できるようにして起きなさいとのことだそうです。
あれほど、最初は抵抗していた塾通いも、今では元気にいっているようで、マア勉強とはいうもののひとつの息抜きにでもなればと思います。

で……
この日は雨の予定だとかで、細君と息子殿がなつかしいてるてる坊主をつくっておりましたが、どこにつけたのだろうかとやおら眺めてみると鉢植えの植木につけられておりました。

植木につけるなよ……などと突っ込むと、じゃあおめえが外につるせとなるので、そのまま情況を甘受というわけで、なんとか金曜日はもってもらいたいです。

正直なところ大切な休日ですので、ダルイという気持ちもなくはないですが、楽しみにしているようですので、なんとか空模様激しく荒れてもらいたくないものです。

マア、自分としてはとなりの東京国立博物館(表慶館)で、日曜日まで開催されている「慶應義塾創立150年記念 未来をひらく福澤諭吉展」 に出向くのが裏の目的ではありますが、なんとかして、家族を振りきり?一瞬でも見てこようかと思う次第です。

福澤諭吉(1835-1901)の闊達なそして愉快痛快な手紙を活字では読み、親しんでおりますが、その原本が展示されているようですので、興味しんしんです。

……ということで、早起きしなければならないのですが、ヱビス党としては「シルクヱビス」の発売を記念しなければならないだろう……ということで、ヱビス様たちに夜間集合をかけてみました。

サア、どれからいくかな?

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コメント

えびす部隊集合!1、2、3、4、5!隊長!全員揃ったであります!

さて、友情についてですが、私には友人と呼べるような友人がほとんどいないのですが、だからこそ自分の友情観というものが浮き彫りにされて良く分かるのです。
「友情にそうした支えを与えるものが相互的な尊敬であって、相互的な尊敬により、友情における相互的な愛が制限され、じぶんを-卑俗に-することが防止される」
この部分に激しく同意。
尊敬できるような人間などほんの一握りしかいないから、誠実に友達というものについて考えれば、その数が少ないのは当たり前です。
そして、上記記述には中高生がよく議論する異性の間に友情は成立するかという問題(低俗的な!?)のヒントもありますね。

最も「友情とは、相互の利益を目的とした結合ではない。友情は純粋に道徳的に、すなわち直接に心情そのもののうちで基礎づけられている」この部分には、異論あり。
友情とは相互の尊敬の上に成り立つことは然りであるけれど、なぜ他者に尊敬の念を抱くかというと、その他者が私の知らないことを知っているからではないかと。そして、「愛知」精神からそのような他者と共に世界の見取り図(世界に蓄積された膨大な知識とアイディアの配列)を描こうとする本質的欲求。
この欲求が他者に尊敬の念を抱かせ、友情関係を結ばせる。
その欲求にかなうような人としか友情関係に入らないわけだから、やっぱり少し利益的な部分が有るのではないかと。。。

なーんて、二日酔いの頭で昨日の飲み屋での出来事なんぞを思い出しながら、考える次第であります。

投稿: うへの | 2009年3月 6日 (金) 09時37分

うへのさんゑ

えびす部隊の点呼ありがとうございます。

ご多分に漏れずわたしも数少ないわけでけれども、そのひとりひとりとの向き合い方は丁寧につくりあげたいなと思うところですが、たま~に飲みに行って酩酊してしまうと、結局お互いに「昨日……で、どうなった?」などとやっておりますが、「友情にそうした支えを与えるものが相互的な尊敬であって、相互的な尊敬により、友情における相互的な愛が制限され、じぶんを-卑俗に-することが防止される」からこそ、一方的な人間の相対する関係とはちがった部分が出てくるのかなと思うところです。

>友情とは相互の尊敬の上に成り立つことは然りであるけれど、なぜ他者に尊敬の念を抱くかというと、その他者が私の知らないことを知っているからではないかと。そして、「愛知」精神からそのような他者と共に世界の見取り図(世界に蓄積された膨大な知識とアイディアの配列)を描こうとする本質的欲求。
>この欲求が他者に尊敬の念を抱かせ、友情関係を結ばせる。
>その欲求にかなうような人としか友情関係に入らないわけだから、やっぱり少し利益的な部分が有るのではないかと。。。

これ!読んでいて面白いな~と思いましたです。
伝統的な西洋の価値観でいくと、やはり「利益」……はばひろくいうならば「利」という価値ですが、『ベニスの商人』を繙くまでもなく、あまり省みられないというよりも、蔑まされてしまう価値のひとつかと思います。功利主義という発想ももちろんありますが(ローティのような戦略的自己防衛ネットワークの構築による再発見もありますが例外なのでしょう)、どちらかといえば、やはり、「くだらない」価値であり、「聖」とか「真」とか「善」とか「美」なんかにくらべると「どうでもよい」「さけるべき」あり方だという意識が強烈にあります。カントのコメンタリーでのレーヴィットの言葉になりますが、そうした背景から出てきたいい方なのだろうと思うわけですが、ご指摘のように実はそれだけでもないんだよな……というのがご指摘的のとおりの現実なんだろうと思います。

降雨のお陰で、動物園行きはながれましたが、当方もチト二日酔いですが、仏教学者の中村元博士なんかは、「利」について通俗的な否定的側面だけでもなく、積極的な側面もあるよ!と講演で述べられていたことを思い出しました。


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「利」というと利益を連想されますれども、しかし、これはですね、案外、東洋哲学の核心に迫るものだと。仏教で一番大事にするものは何だというと、結局、「人のために画(はか)る」「人のためになる」ということですね。
    --中村元「奴隷の学問を乗り越えて」、『比較思想研究』第15号、1988.

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「利」を嫌悪するのではなく、積極的にその中身を見つめ直していかない限り、「利」は人間にとって避けるべき対象のままで、生活からかけ離れた空虚なものになってしうのだろうと思うことしばしばで、本来的な生活を豊かにしていく価値観として実は積極的に見つめ直していく必要があるのだろうと思います。

投稿: 宇治家 参去 | 2009年3月 6日 (金) 19時22分

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