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……もっとも俺だけじゃないがなあ

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 彼は頭にシャボンをつけて、こちらに顔をむけた。はじめて私の白い痩せた腕や細い腕をみたように、ふしぎそうな眼つきをした。
 「痩せているな、あんたは。その腕じゃ人間を突き刺せないね。兵隊では落第だ。俺なぞ」と言いかけて彼は口を噤んだ。「……もっとも俺だけじゃないがなあ。シナに行った連中は大てい一人や二人は殺ってるよ。俺んとこの近くの洋服屋--知っているだろう、--あそこも南京で大分、あばれたらしいぜ。奴は憲兵だったからな」
 どこかでラジオの流行歌が聞こえてきた。あれは美空ひばりの声である。女湯ではまだ子供が泣いている。
 体をふいて「お先に」と言った。脱衣所の所で一人の男がうしろむきになってシャツをぬいでいた。勝呂医師だった。彼は眼をしばたたきながら私を眺めたがすぐ視線をそらした。先日のことを覚えているのか、覚えていないのかわからない。午後の陽が医師の額にあたって、そこに小さな粒汗が幾つも浮いていた。トマト畠の中を通って帰った。キリギリスがあちらこちらで、かすれた声をあげて鳴いている。それを聞いているのはひどく息苦しかった。
 洋服屋の前を通りかかった時、私は足をとめた。ガソリン・スタンドの主人が言った言葉を思いだしたからである。ショーウインドーは相変わらず埃に白く汚れている。店のなかで男がうつむいてミシンをふんでいた。顴骨(けんこつ)がとび出て眼のくぼんだ男だ。この男が南京で憲兵をしていたのだろうか。しかしよく考えてみると、これもよくある顔なのだ。鳥取部隊の内務班でも私は古参兵や戦友のなかにこの種の農民的な顔をよく見たものである。
 「なにか用かい」
 「いや、あまり暑いので」私は狼狽した。「大変ですね。お仕事ですか」
 「いやあ!」洋服屋は案外人なつこく笑った。「こんな田舎ではあんた、とてもとても……」
 ショーウインドーの人形は例によって空虚ななぞめいた微笑をうかべていた。碧い二つの眼が一店を注目しているように凝視している。
    --遠藤周作『海と毒薬』文藝春秋、1958年。

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日本人とはいったいいかなる人間なのだろうか……宗教と倫理とのかかわりでこの問題を執拗なまでに探究し続けたのが作家・遠藤周作(1923-1996)の創作活動ではなかったか……活字を一つ一つ拾いながらその作品と向かいあうといつもそのことが実感されてしまう宇治家参去です。

そのひとつの起点となるがやはり『海と毒薬』なのでしょう。

あらためてその作品に向かい合いますと、おどろくのはやはり遠藤の筆致です。

遠藤には何かを糾弾しようとか、罪を指摘しようとか、あげつらおうとかという意識が全くないことにあらためておどろく宇治家参去です。

キリスト教的な倫理規範と、そうした倫理的な規範を欠如した日本人の集団心理と現世志向の対峙に過ぎないと断ずる遠藤評(ステレオタイプ論)がありますが、読めば読むほど、そうした遠藤評はどうなのかな?などと至極実感するとこであります。

確かに罪の問題を中心的な対象として遠藤は意識しながら作品を創りあげており、そのなかでステレオタイプの群像たちが次々と登場してきますけれども、おどろくのは、やはりそこに罪を苛弾するという匂いがまったくなくないという事実です。

おそらくそれは、遠藤が自分自身の問題として同苦・受苦しながら「考えている」……否、むしろ「考えている」というよりも「悩んでいる」ものがひとつひとつの活字になってからではないだろうか……素人の門外漢ながらも、そう偲ばれてしまいます。いわば自分とはまったくことなる別の問題ではなく、自分自身の問題として常に対象と関わり合っているということなのでしょう。

思えば、遠藤にとっては、11歳でカトリックの信仰に入りますが、だれよりも一番遠藤自身が日本人であるということを深く自覚しているからなのでしょう。そしてその日本人性から著しく隔たった感情が、自分自身そのものを打ちのめしたヨーロッパの思想としてのカトリシズムなのかもしれません。

神の観念にも、そして罪の概念にも、そして絶対にも対立にも能動にも、およそそうした感情とか観念に無感覚な伝統が深く自分自身に内在することを深く認めながら、信仰との絶望に近い距離の意識が遠藤の出発点になっているのかも知れません。

それが『沈黙』を経て『深い河』へと到る遠藤の思索の軌跡なのだろうと観ずるわけですが……。

あまり電車のなかでナイーヴな小説は読むべきではないかも知れません。

さて……。
昨日は早朝にたたき起こされ、電車に乗って恩賜上野動物園へ子供と細君と行って参りましたが、さすがに平日ですので、遠足出来ている小学生と幼稚園のグループが目立つ程度で、ゆっくりと動物を鑑賞させていただきました。

ちょうど、塾から動物園へいって動物を鑑賞してくるようにという宿題が息子殿へ出ておりましたので、出かけたわけですが、結構つかれたお父さん・宇治家参去です。

で……
その狙いは、動物の真似が精確にできるかどうかということが(動物だけでなく)大切だということのようです。「ウサギの真似をしてください」とふられて「手でウサギの耳をつくり、ぴょんぴょんとウサギ飛び」をするような「ステレオタイプ」的に戯画された真似ではなく、本当に動物はどのように行動しているのか、きちんと見て動けるようにしておこう!ということで、マア「学習」というわけです。

とわいえ、宇治家参去は「学習」に行ったというよりも、「学習」する息子殿の同伴者という身分ですから、おりおりに生ビール×3を飲みながら……というわけでより以上に疲れてしまった次第です。

彼のなかでは「コウモリ」が今、あつい動物のようで、なかなか気軽に見ることのできる動物ではありませんでしたので、「コウモリ」はよく見ているようでした。多摩動物公園ほど広い動物園ではありませんが、その分、近くで見ることが出来るのが上野動物園のよいところからもしれません。ただ、広くないとはいってもそれなりの規模がありますので、ひととおりみてまわると既に昼過ぎとなり、小休止を挟んで、次は、国立科学博物館へ行ってきました。自分としてはルーヴル、ルーヴルと叫んでいたのですが、却下された模様のようで……。

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さて、こちらは「忠犬ハチ公」の剥製があるとかで、『ハチ公』の物語か絵本を読んでいたためなのでしょう……「ハチ」に合いたい!ということで、鑑賞させていただきましたが、この国立科学博物館……要所要所の見学で隅々まで真面目に鑑賞しませんでしたが、科学と歴史に関してはかなり丁寧につくられた博物館で、ゆっくり回ると勉強になるナ!と驚きました。10数年前に一度何かの用事で訪問したことがありましたが、次回はゆっくりと見て回りたいものです。

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……すると、そうこうするうちに陽が傾き始めましたので、帰路につき、仕上げは近所の旬彩ダイニング「ささ花」にて打ち上げ?です。

自分自身としてはこれが当日のメインになるわけで、このダイニング、いつも会計すると結構な額になってしまうのですが、今回も例の如く、考えずに好きなものを頼み、楽しませていただきました。

クリームチーズの炙りサーモンロール
銀だらの西京焼
もち豚と旬野菜のせいろ蒸し
季節の鮮魚と山菜の天ぷら

酒は、エビスではじめ、黒龍の大吟醸をいただき、〆は博多明太子おろしが美味でした。

お父さん稼業も疲れるものですが、この一杯のために生きている宇治家参去です。

ちなみに、ルーブル美術館展に行こうかとも思いましたが、体力的に無理でした。
これはまた後日です。一度に2,3箇所回るほど体力が落ちていることを実感した一日です。

ま、しかしながら「……もっとも俺だけじゃないがなあ」というところでしょうか。

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