知らないあいだに幸福と和解している
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人間は考える、それには季節などない。それは人間の誇りそのものである。冬は眠ってしまうのではなくランプをもとし、このランプによって見えない太陽を予測し推し量る。反対に、七月どうしようもなく暑い時、冬の寒さをあれこれ想い、がたがた震えている。知性はどんな観念も見落とさないように気遣いながら観念から観念へと駆けめぐる。それはよく知られているように、すべての数字が1から引き出され、すべての多面体が多面体の考えから引き出されているのと同じだ。それが法則というものだ。なぜなら、正しさはもつことができないから。法則に、断食に、四旬節(カレーム)に、人間の思考は度肝を抜かれる。問題はまさに、魂と肉体とを分けることで、これこそデカルトが欲したことである。痩せたエクリチュール、魂のない代数学。
ただしデカルトは毎日このような厳しい方法を取れと命じてはいない。逆に、散歩をしたり人と話したりして、しばしば魂と肉体とを結びつけねばならないと言っている。人間は肉体を動かすことによって健康を取り戻し、知らないあいだに幸福と和解している。しかしながら、肉体が動物のように幸福な時もまた、さまざまな想いに囚われることがある、ちょっとした瞬きしただけで、あるいは歩調を変えただけで思想が鳥のように飛び立つこともしばしばある。人はこのような心の突然の動きを精神と読んでいる。そこから詩人たちはあの思索方法を学んだのだ、すなわち肉体の法則にしたがって言葉を放つこと、放ち続けること。そのとき精神は幾分正気にとらわれているが、やはり強靱なものだ。身体の方が先んじたのだ。そこからすぐに、たまたま出会った、たまたま符合した、まったく共通の強靱な思想に驚く。だから詩人は一から十まで状況によっている。
運命は求めたり変えようとしなくても、うかがうことができる。この世はメタファーを投げかけている。ツバメの飛翔は、いかなる神のお告げなのか。電線に止まったその身体つきはまるで変な音楽〔四分音符〕だ! メタファーを読み解く前に、すべてが解体されている。神々は何の予告もなく現われてすぐに消えて行く。神々はみな、季節の変わり目に現われる。しかし神々はもうそこにはいない、すなわち、そこにはもう「想い」はない。機会は一瞬である。逆風に巻く波がたてがみを上げる。そのたてがみの下には曲がった音。それは海神ポセイドンであり、その車駕であり、その行列なのだ。翌日、主神ゼウスが黄金の雨を降らす。大地のように開いているものは幸いである。秋の靄(もや)が雲の上にさまざまな想いを描くだろう。また薪が火床の中にさまざまな想いを--。ふと見られる人間のしるしの何と多いことか。ペンの走りは風のよう、火の粉のようでなければならない。そこには一つの観念からそのすぐ隣の観念を導出する従来の秩序はなく、もう一つの秩序が生まれている。そこでは肉体が「思想」とともに駆けめぐり、ついには思想に先立ち、思想を看破している。このもう一つの秩序とは「健康」である。なぜなら、哲学には「石」のような哲学もあれば、「幸福」な哲学もあるからだ。これこそ幸福な哲学である。
一九三五年十月十六日。
--アラン(神谷幹夫訳)「序に代えて」、『四季をめぐる51のプロポ』岩波文庫、2002年。
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ちょうどヒルティ(Carl Hilty,1833-1909)を昨日読んでいたついでと、アラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)も読んでおかないとな……ということで名著『幸福論』ではなく、四季と人間の美しさを歌い上げた詩人が書いたと見まがうようなエッセー『四季をめぐる51のプロポ』を繙く宇治家参去です。
この著作は季節の変わり目に、基本的には春なら春と、その季節分をまとめてひもとく一冊ですが、今回は、あまり気にしていなかった「序に代えて」に釘付けです。
だいたい、本を比較的読む人間というのは、序とあとがきをさらっと流して、目次からかいつまんで読む人種が多く、自分自身もそうした一人なのですが、何を想ったのかというわけでもありませんが、やはり冒頭の「春」から始めますと、「マア、序文ももう一度読んでおくかな」などと思い読み直すと発見が多く唸らされる昼前の朝でございます。
昨日痛飲したわりには寝付きがわるく、結局……自分としてはですが……比較的早めに起きましたので、マア、アランの著作でもひもとくかということで目をとおしていたわけです。
実際には、「どんな観念も見落とさないように気遣いながら観念から観念へと駆けめぐる」毎日なのですが、実はそれは大切なのは大切なのですが、それだけでもないんだよ……と諭される感がありまして。
「人間は考える、それには季節などない」
たしかにそうですが、アランがこの序文以降で鮮やかに浮かび上がらせてくれるその美しい文章のとおり、「それでもなお」四季の移ろいと人間は相即的な関係にあるんだよな……ということで、二日酔いをさましながら、「春を感じてやるぜ」(感じてやるぜ……という発想自体が既に人為的なのは承知の助ですが)ということで、早々に昼食をすませ、仕事へ行く前に、「春さがしだ!」ということで、近所の小金井公園へレッツゴーという一日です。
情けない話ですが、私が起床する以前に、細君と息子殿は先に公園を訪問したようにて、決意していくぞといった暁に帰宅され、「梅が満開だよ」ということで早速ひとりですが自転車をこいで探訪です。
休日ですから人出が多く、チト辟易とする部分もなきにしもあらずでございますが、梅の美しさに“癒される”というよりもむしろその春を生きらんとするその生命力の溌剌さに“励まされる”という状況です。
隣のベンチで寝ている猫さんも上機嫌のようにて、そのまま上機嫌で仕事へ行き、マアこれまたアリエナイ状況でしたが、それでも上機嫌で仕事ができるので不思議です。
※ただしそのアリエナイ状況に関しては精緻な分析を加えた上で次善案を提出することは必要不可欠であり、宇治家参去自体が上機嫌であったからスルーしてよいというのとは論点が違うというのは言うを待たないし、それに乗っかかるシステムには問題があるし、そういう人情論はビジネスには不必要です(ガス抜きの赤提灯では本質的な解決にはならないというの論)。
で……。
アランは最後に次の言葉で締めくくっております。
すなわち……
「哲学には「石」のような哲学もあれば、「幸福」な哲学もあるからだ。これこそ幸福な哲学である」
たしかに、対象に対する精緻な議論も確かに必要です。
しかしそれだけでもありません。
その両者の不和ではなく、その両者を一者がたずさえたとき、なにかが動き始めるのかなと、梅を見ながら想う次第で……池波正太郎先生(1923-1990)の次の言葉を思い起こす次第です。
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人間は、生まれた瞬間から死に向かって生きはじめる。
そして、生きるために食べなくてはならない。
なんという矛盾だろう。
それでいて人間の躰は、たとえ、一椀の味噌汁を味わっただけで生き甲斐をおぼえるようにできている。
何と、ありがたいことだろう。
--池波正太郎『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和五十九年。
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仕事が済んで、25時過ぎに自宅へ戻ると、本日のメニューは「ほうとう」のようで、そのウマミが染みわたる深夜で御座います。
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