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「他人たちのために〔他人たちの代わりに〕われここに」として

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 本書は主体を人質と解し、主体の主体性を、存在の存在することと絶縁した身代わりと解する。この主張をユートピア的理想と断じる非難に対して大胆にも自己をさらす。私たちの主張をユートピア的理想と断じる非難は、現代の人間を諸存在の一つとみなす見解によって唱えられる。しかるに、現代の人間の現代性がわが家にとどまることの不可能性であるのは明白である。ユートピア的理想という表現が非難の言葉であり、ユートピア的理想を免れる思想があるとしての話だが、本書は、人間的に生起したものがその場所に閉じ込められたままであることは決してありえないという点を想起させることによって、非難されるべきものとしてのユートピア的理想に陥ることを免れている。いま述べた点をおこ起こすためには、場所と化すことで、非場所が例外的に歴史の空間に組み込まれるような出来事を引き合いに出すには及ばない。現代世界、それは何よりもまず、選ばれた者たちが民衆を、その慣習、その不幸、その錯覚、更にはその贖いの方式にさえももはや委ねてはおけないような秩序ないし無秩序である。民衆が有する贖いの方式は、それ固有の論理に委ねられると、容赦ない仕方でその反対物に転じてしまう。ここに言う選ばれた者とは、しばしば「知識人」と呼ばれているものたちのことである。民衆は、マナもなき大地の砂漠に寄り集まり、あるいはまた散らばっている。けれども、一人一人の個人は実質的には選民であり、自分の番がくると、あるいは自分の番がくるに先だって、<自我>という概念から、民衆のうちでこの概念が有する外延から脱出し、責任をもって応えることをその使命としている。一人一人の個人は、この私として、言い換えるなら「他人たちのために〔他人たちの代わりに〕われここに」として、みずからの場を、存在の内なるその隠れ家を徹底的に失い、非場所でもあるような遍在性のうちに足を踏みいれるよう呼び求められているのだ。
    --E・レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。

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「主体的に!」という言葉に嫌悪をいだくようになったのは何時の頃からなのでしょうか……定かに思い出すことが出来ません。

別に「主体的に生きる」というテーゼを採択することに異論はありません。
しかし「主体的に生きる」というものが考える余地のない圧倒的な外発的なものとして与えられてしまうと「なんだよ、お前ェ」とぼやいてしまう宇治家参去です。

たとえは悪いですが、義務教育課程におけるホームルーム(まだあるのかしら)なんかで、議題に対して意見が出てこないどよ~んとした雰囲気の折り、その曇り空を強制的に排除するような人為的間欠泉として、学級委員長が「みんな! 真面目に考えてください!自発的に意見を出してください」と恫喝されて、さらに凹んでいくような居心地のわるさをどこか「主体的」という言葉に感じてしまう部分があります。

自分がそのなにがしかの対象に関して、その暴力性を承知の上「おれは引き受けるぜ、おれの運命を」ということで「主体的」に生きていくことを決断@サルトルすることはやぶさかではありません。

しかし「自発的に意見を出せ」と悩んでいるところにハンマーを下されてしまうと、「ヨクワカラナインデス、ジツワ……」と漫画のようにぽりぽりとアタマを掻いてしまいます。

そしてその逆にポストモダニズムの思想家たちが、「それ見たことか!」と主体性を糾弾するのも辟易とするものでして……、おそらくこうした主体性の構築という部分は、マアなんだかんだ言いながらも契機としてハードパワーが介在してしまっても、孟子(BC.372-BC.289)のいうとおり、いずれにてましても、我知らず……はっと動き出さないと誠実には機能しないのだろうということを説に実感しております。

もちろん戦略的に組み立てていくことは可能ですし、合理的なのでしょう。

しかしながらまさに「今、人乍(にわか)に孺子(こじゅうし・幼児)の将に井(いど)に入(お・墜)ちんとするを見れば、皆怵惕測隠(じゅうてきそくいん)の心有り」(たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする)という心には適いません。

こんな美しい行動なんてできなよな……などと思うこと勿れ。

実はひとはしらないうちにやってしまうことが多々あるのではないかと思います。
例えば仕事一つにしてそうなのでしょう。

どうしようもない窮地なんて仕事をしていると、これが実によくあります。その徹底的にのっぴきならぬ状況で、そこに挑んでいくあり方なんか御「まさに思わず知らずハッとして」事をなそうとすることなんだろうと思います。

「他人たちのために」と意識すればするほど「他人たち」から遠ざかってしまう。
そして仕事でも「うまくやってやろう」と計算すればするほど「うまくできない」ことなんて日常茶飯事です。

その現場で悩み立ちすくみながも「負けない」歩みを貫くところに、人間の美しさが煌めくのかも知れません。

私事で恐縮ですが、例の如くアリエナイことが連発する職場ですが、4月支給分より、給与が月額1マンウンゼン円ほどアップすることになりました。本来はとっとと辞めてやるぜと啖呵をきっていたわけで(つなぎの転職という意味ですけども)、雇用契約からすると、いまの職場での昇給はアリエナイとおもっていたわけですけども、目前の難問をストレートに受け続ける中で……実はパンチドランカー状態ですけど……昨日出勤すると、雇用契約の変更申請書を渡され、些少ですがチトアップすることに素直に嬉しい宇治家参去です。

本来的には、もちろん学問一筋がベストですが、博論提出もまだで、社会問題のひとつとなっている高学歴ワーキングプアなのも承知ですが、その状況に安堵することなく、「負けない」人生を歩みたいものです。

「主体的に!」と号令をかけてしまうと、現実的からどんどんかけ離れていってしまう「醜態的に!」になってしまうのかなと感じる日々で、「主体的に!」という言葉、小さな声で自分自身にたいしてすこし呟くぐらいがちょうどいいのでしょう。

テレビから流れてくる「選ばれた者たち」の精緻な議論をきくたびに学級委員長のつるしあげの恫喝を何故か思い出してしまいます。

そのなかで、ちょいと意識的に「「他人たちのために〔他人たちの代わりに〕われここに」として、みずからの場を、存在の内なるその隠れ家を徹底的に失い、非場所でもあるような遍在性のうちに足を踏みいれるよう呼び求められている」声に耳をかたむけるぐらいがちょうどいいのでしょう。

嬉しいことがもうひとつ。
市井の職場のアルバイト君で、正月休みを取らせることが出来なかったT君に遅い正月休みを先週1週間分プレゼントしましたが、お土産に地元(岩手県)の地酒を買ってきてくれました。

はじめてみる酒ですけれども、『純米吟醸 夢灯り』(株式会社あさ開/岩手県)。
日本酒度-1という「やや甘口」ですが、岩手県産のひとめぼれのなせる業でしょうか……おもった以上に染みこむ「甘さ」です。

……と、調子にのってしまうと、足下を掬われてしまうので、意識的に意識せず、意識しないで意識的に人間と世界と向き合っていきたいナと思う宇治家参去でした。

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存在の彼方へ (講談社学術文庫) Book 存在の彼方へ (講談社学術文庫)

著者:E. レヴィナス
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