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人は仲介者(仲買人、執事、デパート)なしで済ませば済ますほど、正義を為すいっそう多くの手段を持つのである

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正義 JUSTICE
正義とは理性的部分が貪欲な部分、強欲な、貪婪な、そして暴利をむさぼる部分を封じる力である。それは君のものであり、ぼくのものである諸問題を、仲裁者のように、あるいは仲裁者によって解決するよう導く。
貪欲な部分はきわめて狡猾で、最初、判断を誤らせるものだから、反対の術策あるいは慎重な対応策を取ることによってはじめて正義が保たれる。主要な術策は契約である。それは貪婪さがまだ明確な対象をもっていない時、作成された契約である。ある人が二人の相続人の間に次のような分割契約を考え出した。「君を分割をして、ぼくが選ぶか、あるいはぼくが分割して君が選ぶか」。このことは他の術策でもあり得ることを示唆している。あらゆる契約を外にして、正義の原則は平等ということである。すなわちあらゆる交換、分割、あるいは支払いにおいて、ぼくは自分の知っているすべての知識を用いて相手の立場に立たねばならないこと、そしてその取り決めが、はたして相手の気に入るはずのものであるかどうか決めなければならない。
正義の基盤であるこの他者に対する大いなる配慮は、同胞はつねに目的として考えられるべきであって、決して手段として考えられてはならない(カント)、ということに帰着する。たとえば、給与。それでもって人間らしく暮らしていけるかどうか吟味しなければならない。信心深い女中。はたして彼女に、礼拝に出席する時間、福音書を読む時間、などがあるかどうか考えなければならない。家政婦の子どもたちのこと、などを考えなければならない。これらの例からわかるように、人は仲介者(仲買人、執事、デパート)なしで済ませば済ますほど、正義を為すいっそう多くの手段を持つのである。
    --アラン(神谷幹夫訳)『アラン 定義集』岩波文庫、2004年。

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金曜日に息子殿が細君の実家より東京にもどるとのことで、細君が東京駅へ迎えにいったのですが、なかなか帰ってきません。

細君の御母堂が息子殿を引率して東京駅にて受け渡しという手順になるのですが、帰宅予定時間をまわっても帰ってこないので、このまま待っていても仕事に遅れてしまいますので、そそくさと職場へ向かいましたが、痛恨なのは、帰ってこないことによって=今晩の夕食を買い求める金子をもらっていなかったことであります。じりじりと待っていたので、銀行によることもできず、「水か!!」と思い重い足取りで、職場へ向かい、出勤するとレジへ投入され、「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ!」(ハナ肇とクレージーキャッツ『どんと節』)というのは高度経済成長の時代にあってはありうるもんですが、このご時世にはありえないもんだよなとしばしオシゴト、オシゴト……。

レジを打っていると自分の携帯電話がなっていたのですが、「ハイ、もしもし」とやるわけにもいかず、チト落ちついてからバックヤードで見ようと思っていたのですが、落ちついてから見ることも忘れていると、再度入電、電話に出ると細君で、

「家の鍵を持って出るのを忘れたので、貸して欲しい」

……とのことで、

「どこにいるの?」

……と訊くと、

「もう、店にきている」

……とのことだそうです。

現在の市井の職場、業種としてはいわゆるGMSということになりますが、「通勤時間がモッタイナイ!」との判断で、自宅からもよりの店舗で仕事をしておりますが、この判断が良かったのか悪かったのかとなると忸怩たる部分はあるものですが、通勤に1時間もかけて、(研究するための)時間が喪失するよりも近い方がベストだろうという意味では正しい選択だったわけですが、自宅から近いということは、自己自身に縁するひとびとのいやおうのない交流が想定されるわけで、家族の容赦の無い〝いやがらせ〟?には悩むばかりです。

それで……、

それとなく、店内で細君及び息子殿を発見し、家の鍵を渡し、サア、意趣返しだぞと、「今晩の餌代をくださりまし」とのことで、当座の金子を調達し、ラッキー!と思ったのも束の間、さっそくレジが混雑したようで、「応援要請」の緊急連絡が入電で、そのままレジへ。

で……。

5分ぐらい打っていると、細君及び息子殿が自分のレジに並んでいるではありませんか!

「おまえらなあ!」

などと思いつつ、営業応対にて対応しますが、息子殿にはその意味が理解できず、「パパ、どうして今日オシゴトなの?」と訊いてきますが、返答もできず、「ママに訊いてくれ」と促し、次のお客様と応対です。

息子殿にしてみれば、(ワタクシとしては見せたくない現場なのですが)オシゴトしている厳父が新鮮だったのでしょう。それ以上、突っ込まず満足の様子で帰宅してくれました。

本当に「お前らなア、弄くってくれるなよ」と思うわけですが、アラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)のいうような「仲介者」もどこにもいませんので、自分でその事実を処理しながら、次の歩みを踏みだすほかありません。

まさに「たとえば、給与。それでもって人間らしく暮らしていけるかどうか吟味しなければならない。信心深い女中。はたして彼女に、礼拝に出席する時間、福音書を読む時間、などがあるかどうか考えなければならない」分けなのですが、そういう気の利く〝執事〟は我が家にはどこを探しても存在しませんので、結局自分が気の利く〝執事〟になりおおせることで、正義とは何かを考えるしかないのでしょう。

生活という教科書は、本当に〝アリガタイ〟ものでございます。

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