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このような困難な探究の入口で私は立ちどまる

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 私の結論は次の二つである。
 まず認識論的平面では、説明的方法と了解的方法という二つの方法はない、と私は言おう。厳密にいえば、説明のみが方法的である。了解はむしろ、非方法的な契機であって、それは解釈の諸科学においては、説明の方法的契機と一緒に組合わさっているのである。この非方法的契機は、説明に先行し、それと同行し、それを閉じこめ、そうして説明を包含してしまうのである。そのかわり説明は分析的に了解を展開させる。説明と了解の間のこの弁証法的な絆は、結果的に、人間科学と自然科学の間のきわめて複雑で逆説的な関係をもたらす。それは二元論でも、一元論でもない、と私は言おう。たしかに、人間科学の説明的手続きが自然科学のそれと同質である限りは、両科学の連続性は保証されている。だが、了解が独自の構成要素をもたらす限り--テキスト理論における記号了解という形であれ、行動理論における意図と動機の理解という形であれ、歴史理論における物語を追っていく能力という形であれ--科学における二つの知の領域の間には越えがたい不連続性が存するのである。しかし科学の間の連続性と不連続性とは、科学における了解と説明のようなものをつくりあげているのである。
 第二の結論はこうである。認識論的反省は、本論の導入部ですでに示唆したように、議論のおもむくところ、説明と了解の弁証法の存在論的条件について、もっと根本的な反省をするように導くのである。哲学が何よりも「了解する」ことに努めるのは、了解の認識論のただ中で、われわれの存在が、いかなる対象化、主体と対象のいかなる対立にも先行する存在に帰属していることを証言するからである。了解というこうとばがこのような密度をもっているのは、このことばが解釈的諸科学の中で説明の極と弁証法的に対立している非方法的な極を示していると同時に、われわれの存在が、諸々の存在に、そして存在に帰属しているという存在論的な関係の、もはや方法論的ではなく、それこそ真実の指標をなしているからである。了解ということばが、方法論において、われわれが非方法的な極と呼んだ、一契機を意味していると同時に、科学的レヴェルとは別のレヴェルで、われわれが損愛するものの全体に帰属していることを自得することをも意味するというのが、このことばのゆたかな両義性なのである。とはいえ、もし哲学が方法論的分裂をひき起こしたり、維持したりするのを断念した後で、この根源性の新しいレヴェルで了解の純粋領域を再建しようとするなら、われわれはふたたび破滅的な二分法に陥ることになろう。哲学の課題はただ、科学的言述とは別の言述で、われわれの存在と、ある科学が適切な方法的手続きによって対象化するような存在領域との間に存する、根源的帰属関係を説明するだけではないと思われる。哲学はまた、それによってこの帰属関係が科学の対象化を、科学の客観的で客体化する取扱いを要求するような疎隔(distanciation)の動きを、したがって、それによって説明と了解とが本来認識論的な平面で互いに求めあうような動きを説明づけることができなくてはならないのである。このような困難な探究の入口で私は立ちどまる。
    --P.リクール(久米博訳)「説明と了解」、久米博他訳『解釈の革新』白水社、1985年。

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物事の意味を、どのように理解したり、説明したりするすればよいのでしょうか。
この難問と取り組む学が「解釈学(Hermeneutik)」という学問になろうかと思います。

人間はあらゆる対象に関わっていくことが可能です。

しかし往々にして恣意的な解釈(印象批判)の域で留まりがちなのが実情で、そうした領界を突破し、客観的とはいわないまでも、自分と異なる全き他者と「共通」了解を立ち上げるのは非常に難儀です。

特に生活のなかでは、自己自身の実は恣意的な解釈こそ共通了解であると憶見し、それを他者にあてはめていこうとするあり方が非常に優勢で、そこに辟易とするわけですけれども、辟易とするからこそ、お互いが納得できるような共通了解を立ち上げていく説明と了解の方法が必要になってくるのだろうと思われます。

まさにその最前線に位置するのが「解釈学」の目的であり、そこで提示される方法になってくるのだろうと思います。

西洋社会においてはこうした議論・手法を丹念に追求していく伝統が色濃くありますが、それはまさに自分自身と異なる対象を、どのように理解していけばよいのかという挑戦に対する応答がその歴史であったのだろうと思われます。

「解釈学」とはもとギリシア語のερμηνευτική に由来する言葉です。

語源としては、ギリシア神話のなかでの神々の意志なるものを人間に伝える伝令役であったヘルメスの名に端を発するもので、そこから解釈、翻訳、説明、釈義の術という意味で用いられるようになりました。そこから転じて「テクストを理解するための技法の理論」として洗練されていき、旧約聖書、新約聖書といった聖書解釈(学)、法律、古典文献を対象とする法律解釈(学)、古典解釈(学)というものが種々統合され、一般解釈学(allgemeine Hermeneutik)へと統合されていくのがその歩みです。

そのなかで、やはりひときわ丹念に議論されたのが方法としての「説明」と「了解」です。対象に対する「説明」の方法、そしてそれをうけて「了解」する方法、この二者が17世紀以降、技法として洗練されていくわけですけども、じつはこのふたつおなじものの裏と表であり、相互に別々の方法として整理できる概念でもありません。

その両者が有機的に相関的に関係しあったときに、まさに「妥当な」解釈が成立するのだろうかと思います。

そのあたりを突いてくるのが現代フランスの解釈学者P.リクール(Paul Ricoeur,1913-2005)の議論です。ちょうど誕生日が宇治家参去と同じものでして、そのよしみと先輩のすすめで詠むようになりましたが、解釈学の方法論的議論としてはドイツ系の哲学者がこれまで圧倒的優位でその議論を牽引していくフシがあったのですが、そうした優勢な議論に対する冷や水をあびせたのが、リクールの知的営みではなかったのか……などと思う昨今です。

リクールの書物は確かに読みにくいところがあります。
現代哲学の議論というものが往々にして批判のための批判に陥りがちな傾向がつよいのに対して、リクールの議論を丹念に読んでいくとおどろくことに、地に足のついた議論であるんだよな~などとなどと頗る実感する次第であります。

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 まず認識論的平面では、説明的方法と了解的方法という二つの方法はない、と私は言おう。厳密にいえば、説明のみが方法的である。了解はむしろ、非方法的な契機であって、それは解釈の諸科学においては、説明の方法的契機と一緒に組合わさっているのである。

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ということで……。

帰宅すると、自室の机の上に、なにやら贈答物が1つありました。

なかを伺うと、DELFONICSのRollbahn Memo(ポケット付メモ帳)が入っているようですが、もらう所以がなく、だれから贈られたのかもわからず……開けてしまうとマズイよな~などと思うわけで、何か、メモでつけてくれよ~と思うわけですが……。

説明と了解というものは、ひとりの人間のなかで処理しきれない射程をもっているのかもしれません。

マア解釈という作業に関しては最終的にはワタシ一人の作業になってくるわけですけれども、他者のかかわりがないと遂行できない事実に改めて驚くわけで、この場合、対象に関しては対人間との説明と了解がなければ、正しい解釈には至れないというわけですけども、これは対人間だけの問題ではないのかもしれません。

ですから余談になりますが「察しろよ」って言われると当惑する宇治家参去です。

その意味では、解釈するということは、たった一人の人間の作業に還元されてしまう営みではなく、たえず歴史と社会、そして全体のなかでのかかわりのなかで探究される営みでは無かろうか……などと思うので、開封はせず。

とりあえず、「開けたい」気持ちを我慢しながら、KIRIN一番搾りのバッケージが新しくなっておりましたので、それを祝いつつ……泥酔しましょうか。

「このような困難な探究の入口で私は立ちどまる」しかできませんので。

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コメント

いつでもヒマな高学歴ニートうへのです。
そして高学歴ワーキングプアも経験するであろううへのです。

さて、「解釈」の話。これって最高に困難な問題ですよね。野家啓一あたりの歴史の物語り論を紐解くまでもなく、ってか、学問って要は終わりなき解釈を続けることじゃん!とも思う次第です。自然科学だって人文科学だって、結局は対象があってそれに対して観察と考察を続ける営みなんですからね。
こうやって考えると、特に人文の分野では学問を続けることにどれだけの意味があるのであろうかとも思ったりもします。
例えば、ベルリンの壁の崩壊。それ自体が意味するのは東西ドイツの自由な往来が可能になったという事ですが、それが「解釈」によって、社会主義の崩壊につながった、などと「格上げ」されたことで一体何が変わったと言えるのでしょうか。
とはいえ、語るという事、他者と了解しあうという事が、今日の割合穏健な社会を作り出してきたことは確かなんですけどね。

そして、贈答物の話。最近思うんですが、解釈とか了解とかを人間は超えられるような気もします。語りだす前に行為してしまうということ。つまり、勝手に開けて自分のものにしてしまう。どうせ解釈なんて後からついてくるんですから。
実存は本質に先立つ、のみならず、行為は解釈に先立つ、です。

投稿: うへの | 2009年3月 9日 (月) 11時03分

うへのさんゑ

解釈はたしかに無限に続いていくまさに難事ですが、「語るという事、他者と了解しあうという事が、今日の割合穏健な社会を作り出してきたことは確かな」ことですから、そのいみではやはりあながち無下に「意味ないじゃん」と切り捨てることも出来ず、まさに説明と了解の地平融合をめざして、「適当に!」おちついていくことが必要なのかも知れませんね(苦笑)。


いまのご時勢、どちらかといえば極端に傾くきらいがどうしてもありますが、そうしたあり方をさけつつ「テキトー」に生きていくうえでは、解釈は必要不可欠なのかな?などと思うわけですが、「実存は本質に先立つ、のみならず、行為は解釈に先立つ」……うけました!

投稿: 宇治家 参去@モバイル | 2009年3月 9日 (月) 17時05分

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