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2009年4月

間接的な関係が個人的な関係よりも深くて、より能動的に作用する場合もある

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 人間存在の最も重要な印である人間性の精神的な特質は人間の労働による物質的生産物からでなくて人間の隣人との、自分自身との、そして世界における究極の精神的な実在との精神的な遭遇を通して知られる。人間の隣人との遭遇には二つの種類があって、個人的な関係を持つようになった同時代人との遭遇があり、また目で見、耳で聞き、書かれた知識によって間接的に知ることになる現存の、あるいは故人との遭遇がある。なぜ、私達が個人的に会ったことのない人々について知識を持つかと言うと、彼らがなんらかの衝撃を私達の生命に与え、あるいは私たちがそう信じるからなのである。そして間接的な関係が個人的な関係よりも深くて、より能動的に作用する場合もある。故ケネディ大統領は彼が一度も会ったことがない何百万人もの同時代人にきわめて強い印象を与え、その死は広く人類にとっての個人的な死別であるかのように世界中でひしひしと感じられたのである。しかしケネディ大統領の同時代人への影響はその強さ、および結果の大きさの展で釈迦、老子、孔子、キリスト、マホメット、マルクス、ガンジーが後世に及ぼした影響とは比較にならない。これら高度の宗教、および哲学の諸派の創始者たちは彼らの生存中には生まれていなかった無数の人々に影響を与えている。また数え切れないほど多くの場合、彼らに一度も会ったことがことがない人間に現に会ったことがある人よりも深い影響を与えて来たのである。
    --A.J.トインビー(吉田健一訳)『現代が受けている挑戦』新潮文庫、平成十三年。

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久し振りに……でもないかナ……、10時間程度寝てしまい、起きると正午の峠ははるか後方におきざりにしたような時間で、家人も外出でだれもおらず、チト酒のこっているな~などと顔を洗い、本業に向かい会う宇治家参去です。

さふいえばむかし、近所のおじいさんに「長く床につくことができるのは若い証拠だ! 赤ちゃんはなんぼでも眠っているだろう」などと教えていただいたことがありますが、その意味では、宇治家参去はまだまだ若いということでしょう。

で……
ゴールデンウィークは市井の仕事で例の如く連勤になってしまいますが、水曜は運良く、嵐の前の静けさのような休日を迎え、がっつりと寝かせても頂いたのでございます。

起きてから、サア、仕事にとりかかるか……と思った次第ですが、連休明けが〆切のレポート添削を終えると、博論とか紀要論文に手を入れる気力が萎えてしまい、ちと気分転換に……とぶらぶらしてしまいました……ってをゐっ!。

たまにはぶらぶらと称されるリフレッシュも必要ということにしておきましょう。

大学にレポートを返却するためにヤマト運輸の営業所まで歩いて向かい、その足で近所をぶらぶら……といっても1時間ぐらいのまさに無目的の散歩ですが、なにか風や草の匂いに季節の変化を感じることができたのはひとつの収穫かもしれません。

五月になると日に日に暑くなってきますし、四月初めだとチト肌寒いのが常ですからこのくらいの日和が一番いいのかもしれません。

さて……
帰宅すると、仕事……この場合の仕事とは学問の仕事のこと……もせずに、せっかくの休日をぶらぶらしちゃって!と細君になじられるわけですが、たまにはそうした「何もしない」休日も必要でしょう。
※といっても、何もしなかったわけではなく、レポートは添削したわけで……言い訳?

で……。
通信教育部で担当しているのが『倫理学』というシャイでナイーヴな学問になります。
今月はたくさんのレポートが送られてきたようで、勘定してみると夕方返却した17通を含め返却記録を確認したところ、なんと今月は85通と計上され、昨年比倍です。

課題内容の更新があったりもしましたのでそうなったのでしょうが、ひとつひとつのレポートを読んでいると面白いもので、手書きの文字に書き手の風貌を感じたり、書かれている内容や思索の跡にその人柄を偲んでみたりと、朱をいれつつこちらのほうが、様々な人生体験をさせていただいているように感じて他なりませんでした。

詳しくは措きますが、例えば中部の御婦人のレポート。

「母は一家の太陽であったほうがいいので、そうするよう心がけておりますが、太陽にこだわりすぎると、主人からは“太陽が照りすぎると日照りの水不足になるように、こちらが火傷してしまう”などといわれてしまいます。たしかに太陽であったほうがいいのですが、意識しないで輝くように心がけたいです」(趣意)。

レポートの地の文ではありませんが、余白にコメントのようかかれておりました。

まさになるほど!

……というわけで、太陽でありつづけると大地に滋養をもたらす雨をさえぎってしまいますから、自然に輝き続けた方がベターだよな……などと思った次第です。
※読者諸兄、なんでこれが「倫理学」?ってつっこみは控えるべし!それが不思議なことに「倫理学」なわけですヨ。受けてみると目から鱗というヤツです。

世紀の歴史家トインビー(Arnold Joseph Toynbee,1889-1975)のいう「人間の隣人との遭遇には二つの種類があって、個人的な関係を持つようになった同時代人との遭遇があり、また目で見、耳で聞き、書かれた知識によって間接的に知ることになる現存の、あるいは故人との遭遇がある。なぜ、私達が個人的に会ったことのない人々について知識を持つかと言うと、彼らがなんらかの衝撃を私達の生命に与え、あるいは私たちがそう信じるからなのである」というのはまさに真実なのでしょう。

人間とは不思議な生き物で、その媒介が文字であれ、音声であれ、ネット環境であれ、時間と空間を飛び越え、様々に影響し合えることができる存在なのだなということが実感されて他なりません。

全く脱線しますが、自分が学部の学生の頃は、トインビーの作品、例えば主著『歴史の研究』(「歴史の研究」刊行会、1966年)なんか比較的良く読まれたものです。じわじわと、大きな見取り図として歴史とか文明を論じるスタイルは退潮傾向にあったのも事実ですし、そうした「類型化」が現実の生を引き裂いてしまうことも承知ですが、人間には、やはりある程度の水先案内人は必要なのでしょう……トインビーの文明論を思うとそう思うところしばしばです。

隣人から学びながら、自己を省察し、世界とかかわっていく……そこに生きる意味とか学ぶ意味とかありそうです。

……ということで、夕刻、財布をわすれて散歩したものですから、煙草を買ってしまうと200円しか燃料がなく、その他のリキュールでお茶を濁す宇治家参去です。

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「アラビヤ語の文典をもつてゐるなら貸してくれ」

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 内村鑑三の性格は自由かつ独立でありました。その自由は矛盾を怖れざる自由であり、その独立は人との妥協を許しませんでした。先生の文筆生活四十年、その間における先生の言説の矛盾を拾ひ上げることは容易であります。ある時は教会を否定し、ある時は教会を応援し、ある時は九州は日本の頭にして東北は尻尾なりといひ、ある時は九州人の狡滑を貶して、東北人の純朴を賞揚し、その他この種の矛盾撞着は少くありません。多くの人がそれに躓いたことも事実です。しかしこのことについては二つの点を考へねばなりません。
 第一は、先生の神学的思想には発展があつたといふことであります。進化論のなかで育てられ、批評神学の波に洗はれて来た先生は、その時代思潮の影響の下に苦闘しながら、先生のいはゆる「古い古い十字架教」の信仰を守り抜いて来られたのです。
 第二は、先生は一つの時には真理のある一面に百パーセントの絶対的重要性をおき、他の時には他の一面に同じく百パーセントの絶対的価値を認める非とでありました。すなはち先生は全体の釣合を考へて価値の相対的な関係を按排するところの体系的な人ではなく、一つの時に一つの真理に全力を傾ける預言者型の人物であつたのです。真理の把握において、この先生の往き方は決して誤謬であるとはいへません。
 先生は真に学問を愛した人であり、晩年まで知識欲の旺盛な人でありました。先生の学問的興味の範囲は頗る広く、宗教と聖書のほかに、生物学、天文学、地質学、地理学、哲学、文学、歴史学、政治学、言語学その他大英百科事典に掲げられてゐるほどの項目に対しては、すべて興味をもつたといつてよいでせう。事実、先生の晩年の読書の快楽は『英百』のなかに好きな項目の論文を拾い出して読むことでありました。体系の人でなかつた先生は、その該博な知識を体系化することをしませんでしたし、また聖書以外の問題に深入りすることもありませんでした。しかしいかなる問題についてその要点を理解し、神髄を把握する能力は素晴らしいものでありました。例へば先生はダンテ学者ではなかつたけれどもダンテの精神を、カント学者ではなかつたけれどもカントの神髄を、世間のダンテ専門家やカント学者以上に鋭くかつ性格に把握して紹介しました。先生は文学者ではなかつたが、ダンテやゲーテやイプセンや、カーライルやホイットマンなどの外国文学を、初めて日本に紹介した功労者でありました。先生の学問的関心が最も薄かつたのは経済学でありませう。それでも大正十二年私が欧洲留学より帰りました時、先生は私に佐藤信淵の研究をすすめられたことがあります。先生の晩年、もう七十歳に手の届くころ、先生は塚本虎二氏にむかひ、「アラビヤ語の文典をもつてゐるなら貸してくれ」といつて、塚本氏を驚かせたことがあります。これは聖書の研究をするのに、どうしてもアラビヤ語が必要であることを感ぜられたからでありました。聖書の研究は先生の終生の事業でありましたが、預言者であつて神学者でなかつた先生は、この専門的領域においても体系的な大著述を遺しませんでした。この点でも先生はカルビンよりもルッターに近い型の人物でありました。
    --矢内原忠雄「内村鑑三」、『続 余の尊敬する人物』岩波書店、1949年。

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たしかに矛盾があるより、理路整然としていたほうが、スッキリしますし、仕事柄……この場合は“本業”としての学問の見地から……、思想史なんかあつかっておりますと、まさに些末な矛盾、思想的変遷、そうしたもの重箱の底をつつくような「作業」をしますので、矛盾に敏感になってしまいます。

しかし、自己自身が矛盾に満ちた存在であることを理解しており、そのことをたゆみなく細君をはじめとする他者からも指弾されつつ矛盾の解消につとめているある日の宇治家参去です。

冒頭でぼやいたとおり、たしかに矛盾があるより、矛盾がないほうが、人間の存在に対する認識論としては実にすっきりします。そしてそのように励行できる存在もたくさん存在します。が、それは稀有な存在なのでしょう。

しかしながら、不思議なもので、自己自身の矛盾には自覚がない場合でも……それは程度の差ももちろんありますが……、他者の矛盾ほどよく見えるものでございます。

そして、その場合、一番多いのが、「それチト、まずくねえ?」って話しかけるというあり方よりも、それに対して回路を欠如したまま、おめえよお!って“拗ねて”しまうことのほうが現実には多いかもしれもしれません。

その場合、なにか生産的な契機が見出されず、どちらかといえば、不毛な荒野がのこるばかりといいますか、疲れているのにさらに疲れてしまうという負の自転車操業が加速されてしまうのがその実なのかも知れません。

とっとと寝なきゃいけないのですが、やはり、教員であるよりも一学徒としての自覚が強い自分ですので、一日一殺……もとい、一日一冊を心がけておりますので、無教会主義で有名な内村鑑三(1861-1930)の愛弟子・矢内原忠雄(1893-1961)の人物論をさやさやと繙いております。

内村鑑三の無教会主義の門弟には、比較的東京帝大を中心とする学者に成長していく人物が多いのですが、南原繁(1889-1974)に代表されるように、どちらかといえば法学に傾く嫌いが顕著なのですが、内村無教会主義の東京帝大ストリームのなかで、経済学を淡々と追求した矢内原忠雄の歩みはむしろ異色であり、ときおりその著作を紐解く中で「あっ」とさせられることがございます。

法学的見地から信念論・真義論が展開された場合、まさに南原繁の代表される……例えば『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)……のような、「地上の国」としての“容れ物”批判の言説がわかりやすいという側面がありますが、経済学の立場から「地上の国」としての“制度・政策”批判というのも、これまた……いい方は恐縮ですが……“乙”なものでして、ときおり、まさに「あっ」とさせられることがございます。

内村門下の矢内原は、1937年の盧溝橋事件の直後に『中央公論』に寄せた「国家の理想」という代表的な評論があります。このなかで、矢内原は、国家の目的とは正義の追求であり、正義とは何かといった場合、弱者の権利を強者の侵害から守ることにほかならない……との弁舌を揮っております。これが発火点となり、のちに軍部政策を批判する一連の著作が原因で、東京帝大のポストを追われてしまいます。

自家薬籠的で恐縮ですが、このあたりには吉野作造(1877-1933)の影響も散見され、生真面目なキリスト者の戦時下抵抗を垣間見るようですが、どちらの論評においても別段「特別」なことが提示されているわけでもなく、今日では常識化した民主主義の理念が先取りして述べられいるだけにすぎず、その意味では理念論としては、今の人間から見てみますと、「たいした内容はない」と切り捨てることは不可能ではありません。

しかし、そうした「たいした内容はない」と現今で評価できるかもしれない内容であるにもかかわらず、その言論すら封殺された時世において、それを言い切った事実は覆せようもなく、「警世の預言者」と称された内村鑑三のやはり、弟子だよなと思う次第です。

……って、例の如くですが、本当に述べたかった部分がすっぽりと抜け落ちたようでございます。

すなわち、人間における矛盾ということです。

変な話ですが、おおきな見取り図的な枠組みで、社会学的なアプローチでその状況を評するならば、日本においては過去も現在もキリスト者はグループとしてはマイノリティです。だからこそからかもしれませんが、流派間の細かい対立はあるにせよ(現実にあります)、比較的、対他的な問題に関しては、足を引っ張り合うような相互批判を遠慮する傾向が現実にはあります。

しかし、対他的な問題に関する組織防衛論が先にたち、本来目指すべき方向性がゆがめられるようなシチュエーションというのも出てくるのが現実です。

これはキリスト教に限定される問題ではなく、あらゆる集団に散見される・予測される出来事です。

そうしたなかでも、さすが「警世の預言者」内村鑑三です。

「間違っている」

……ということに関しては臆面もなく「間違っている」と喧嘩をうるようで、そこに内村の内村らしさが存在する……などと思うわけですが、そうした積み重ねの「論理的断絶」を好事家は、「ウチムラサン、アナタノ議論ハ前ト後デ論理的矛盾ヲカカエテイルヨウダ」などと批判するのがその歴史であったように思えます。

たしかに緻密な議論としては、内村の言説を経緯的にたどると議論の破綻は歴然として存在します。

しかしそこに還元されない、なにか“ぶれない”信念を内村の歩みには見るようで、“師”のあゆみを堂々と「内村鑑三の性格は自由かつ独立でありました。その自由は矛盾を怖れざる自由であり、その独立は人との妥その間における先生の言説の矛盾を拾ひ上げることは容易であります。(中略)先生は一つの時には真理のある一面に百パーセントの絶対的重要性をおき、他の時には他の一面に同じく百パーセントの絶対的価値を認める非とでありました。すなはち先生は全体の釣合を考へて価値の相対的な関係を按排するところの体系的な人ではなく、一つの時に一つの真理に全力を傾ける預言者型の人物であつたのです。真理の把握において、この先生の往き方は決して誤謬であるとはいへません」と言い切る“弟子”の矢内原の師弟観には刮目されてしまうわけでございまして……。

ひとの矛盾をとやかく“いいつらう”のは簡単です。

そして、くだらない矛盾を指摘して、善処を促すのは同時に大切です。

それを混同してしまうと不毛になってしまうのが現実なのでしょう。

先づは、自己自身の矛盾を把握しながら、ひとさまに向かい合っていく他なりません。

ひさしぶりですが、「でっかくなりたいな」などと思った次第です。

宇治家参去自身が矛盾の当体であることは至極存じのことでございます。
しかし、その矛盾たるや……内村鑑三大先生の矛盾レベルから眼下に遙かにもそもそとする自己撞着のようにて、比べること自体がオコガマシイというのがその筋でゴザンスが、西田幾多郎(1870-1945)のいうような「絶対矛盾的自己同一」に至りたいな……それは俗の言葉でいえば、神聖なる、真正なる「でっかくなりたいな」と思うところで、吹けば飛ぶような自己自身でありまするけれども、そう思わざるを得ない……宇治家参去でした。

自己自身の存在に辟易としない毎日でありつつ、自己自身の存在が大好きな宇治家参去ですから、そのへんをレコンキスタしていこうかと思います。

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ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している

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 過去と現在とを見回して、われわれと同じキリスト教の伝統には属さない諸民族の文化と伝統を知るようになればなるほど、そこに見てとれるのはますます、たとえ繰り返し異なった厳護で語られるとしても、しかし、常に人間的で拾得可能な厳護において語られる語らいなのである。フェルディナント・エブナーが述べたように、人間は言葉を「もつ」、そしてまさにそのことこそが人間を他のあらゆる自然的存在から際立たせるものなのである。人間が言語を「もつ」ということは、哲学というギリシア人に最も固有な創造物--そこから「学問」が始まったのだが--において、そして最初はアリストテレスの『政治学』において見出される命題なのである。そこでは<人間はロゴスをもつ生物である>、と言われている。われわれはここで一挙に事柄の中心に置かれることになる。すなわち、文化の根源語、つまり言葉のまったき近みに置かれるのである。
 たしかに、ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している。それゆえ、人間を<<理性的動物(animal rationale)>>、理性をもつ存在であるとする定義は、数百年を経過して存続し、ずっと後の理性を誇る態度を確証するものなのである。しかし、ロゴスとは「理性」のことではなく、むしろ「話」、すなわち人々がお互いに向けて語り合っている他ならぬその言葉なのである。その言葉は、語句の断片のように断片化されて分類可能となり、そしていわゆる辞書を形成するような個々の単語の堆積のことではない。むしろすでにロゴスとは語句を意味への統一(アインハイト)へ、語の意味の統一へと組み上げることなのである。われわれはそのことを文の統一性[単位]と呼んでいる。しかし、それはまた言語の断片化でもある。たとえそれがまったく技巧的な単位(アインハイト)[統一性]ではないとしても、しかし、結局のところ恣意的な単位だからである。語られるべき言葉は、いったいいつ完全に語られるのか。どこで意味は終わるのか。文という単位においてであるのか。いやむしろすでに、沈黙のうちで終わる話という統一においてである。しかし、言われたことの意味はそれ自身が沈黙において初めて立ち現れてくるのであって、言われていることの静止のなかで初めて広がり始めるのではないか。結局のところ、言語は応答のうちで初めて現存するのではないのか。言葉は、ある人に向け語られ、人がそれに応答しなければならないときに初めて、言葉なのではないか。あるいは、こうした言い方もまたなおひとつの抽象、すなわち[ヘーゲル流に]この言葉といわれるものなのか。結局、すべての言葉は応答なのか。われわれが敢えてある言葉を口にするとき、われわれは常に応答しているのではないのか、すなわち、われわれは他の人に、機会に、事柄に、<<原因(causa)>>に対応しようとしているのではないのか。「ロゴス」というギリシア語の表現はいずれにしてもそのような対応の領域を指示しており、上述の定義が『政治学』のなかに記載されているのは理由のないことではない。というのも『政治学』は人間の政治的根本構成と形態形式において彼の天才的な観察の対象としていたからである。
    --ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二訳)「文化と言葉」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年。

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そもそも学問は、言葉……言語といってもよいかもしれませんが……を大切にします。なぜなら、それが学問自身であるからです。

とくに“諸学の王”と称される哲学……って書きますとポスト・モダニズムの批評家からは手厳しい批判が出てくるのは承知ですが、歴史的経緯をふり返ると、アリストテレス(Aristotle,BC.384-322)の時代においてそうであったように、現状としてはたとえそうでない、否むしろその玉座から退場すべきだという評価は百も承知ですが、それはひとまず措きます……何の話をしていたんでしたっけ?

そうそう、言葉の問題から、哲学が“諸学の王”ということへすっとんでいったわけですが……という感じで授業もかなりすっとびます。

ですので、わたしの授業を受ける場合、そのすっとびに耐えうる集中力と引き出しの多彩さが必要かも知れません。

……ってまたすっとびました。

で言語と学問(諸学の王としての哲学)ですが、学問は一般的に言葉の運用に対して慎重になる(精緻を期す)ことにその特徴があるわけですが、そうした万学の王たる哲学は、その他の学問以上に言葉の問題を丁寧に扱わざるを得ません。

なにしろ、実験を行うこともできませんし、調査を行い報告をおこることもできません。そして、現状のデータから明日の動向を予測することもできません。しかし、言葉を丁寧に扱うことによって、対象と向かい合い、自己自身を吟味していく、そして、過去から学び、現在を認知し、明日を展望する……そこに哲学の首尾一貫性と、その営みの醍醐味があるところだろうと思います。

哲学とは何か。
私家版ですが、つぎのように「暫定的」に定義して運用しております。
※「暫定的」というのは宇治家参去の学知の伸展によりその後、発展的解消?が見込まれるということを想定しての「暫定的」という意味であります。書く必要もありませんが、「うぉゐ、これが決定版だ」などと啖呵を切れないチキン野郎に由来するのがその実ですが……。

すなわち……

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哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない。    --宇治家参去『哲学入門』私家版、2009年。

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言葉と向かい合いながら徹底的に自己自身で考え抜き、問題を吟味していくのが哲学です。しかしその際、自分の思索を“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとする営みに終始してしまうと、そこに暴力性が発揮されるわけで、批判の焦点としての独我論に陥ってしまいます。たしかに哲学史をふり返ってみますと、そうした独我論先行という嫌いがなくもありませんので、そこをどのように乗り越えていくのか課題になるのでしょう。だからこそ車輪の両軸のもうひとつの和としての相互批判・自己吟味・他者吟味という労作業が必要になるのだろうと思います。

それこそが、古代ギリシアで始まった哲学という営みの原点に存在する「対話」という営みに内在するのでしょう。ソクラテス(Sokrates,BC.469?-399)は他者とのすりあわせをによってのみ、自己自身とは何か(「汝自身を知れ」)の探究は可能になる……それによって他者とは何かも同時に浮かび上がる……として、対話にあけくれたわけですが、まさにその歴史の原点が物語っているように、徹底的な自己自身による探究と、そのコンテンツの摺り合わせとしての対話という実践理性は、ひとつもののうらおもてなのが実情だろうと思います。

徹底的な内省は独我論に傾いてしまうし、対話のための対話には生産的な議論が全くありません。

しかし、言葉を扱う自己自身が謙虚に自己内省をしつつ、そこにおいて「対話」という契機で説明と了解という吟味の場を持つことできれば、それ以上に豊かで幸福なことはないのかもしれません。

ともすれば、そのどちらかに傾きなのがその実です。

「おれは考え抜いたんだゼ」とコンテンツだけを示されても辟易としますし、
「おれは相手を吟味しまくったゼ」とためにする批判だけを提示されても辟易としてしまいます。

言葉はひとをいかすこともできれば、ころすこともできます。
その両極端をさけながら、説明と了解を心がけることが大切なのでしょう。

まさに「ロゴス」を他者と使いこなしていくことが人間の課題なのだと思います。

アリストテレスは、『政治学』において「人間はロゴス的動物である」と人間を定義しましたが、その消息をふり返ってみると、そのロゴスとは、通常「理性」と約されますが、その「理性」とは、孤立した個人の内省的理性ではなく、他者と関わる中で共通了解を目指す人間の性質ととらえたほうがよいのかもしれません。

理性と聴くと、何か、徹底的な個人の内省、ないしはその逆の、自己から超脱した規範としての命題との印象が強いですが、決してそうではないのでしょう。

その意味では、まさに「ロゴスとは「理性」のことではなく、むしろ「話」、すなわち人々がお互いに向けて語り合っている他ならぬその言葉なのである。その言葉は、語句の断片のように断片化されて分類可能となり、そしていわゆる辞書を形成するような個々の単語の堆積のことではない。むしろすでにロゴスとは語句を意味への統一(アインハイト)へ、語の意味の統一へと組み上げること」なのでしょうね。

できあがった普遍的エトヴァスではなく、他者と説明と了解という対話の契機によって「紡ぎ上げていく」のがユニヴァーサルなものであり、それによって内省的理性が、普遍的理性へと階段をのぼっていくのでしょう。

そうとらえるならば、理性もなかなかすてたものではありません。

……ということを勤務している短大の「哲学入門」のなかで、実践的にやってみたいな~と目論んでいてこれまでその契機を欠いてやっていなかった取り組みがあったのですが、今回それを見事にやってみせることができました。

何も特別なことではございません。

特別なことに哲学は存在しませんし、哲学そのものが特別でもありませんから。

実はこのネタ、ここ数年あたためていたのですが、まさに契機をかいて提案できず、繰り越しになっていたのですが、今年度の講義ではうまく注ぎ込むことできた自分に乾杯です。

すなわち……それがまた飛躍だぜなんて突っ込むことあるまじ!と捨て置き……、

つまり、自分自身の実感として顧みることすらない「アタリマエ」の状況を、他者の面前で言葉を使って説明しなさい……というディスカッションという作業です。

今回のお題は「リンゴとは何か。他者が理解できるようにあなた自身の言葉で説明してみてください。リミット1分で」

……授業終了後、学生さんがたが感想を記入したリアクション・ペーパー(出席カード)を読んでみると、こちらが驚きましたが……いい刺激になったみたいです。

「リンゴとは何か」

求めているのは、wikiにあるような「リンゴ(林檎、苹果、学名:Malus pumila)は、バラ科リンゴ属の落葉高木樹。また、その果実のこと。植物学ではセイヨウリンゴと呼ぶ。原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地だといわれている。現在、日本で栽培されているものは、明治時代以降に導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。」ではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4

あなたのリンゴ像を他者に精確に、自分のことばで説明し、了解を得ることができるのかが焦点です。

皆、どぎもをぬかれたようで、

難しかった!……ひとこといって終了です。
難しかった!……けど、自分の思いを伝えるのではなく理解してもらえる訓練になりました!
マジで、面白かった!

……様々なしげきになったようです。

「リンゴとは何か」

別にリンゴでなくても結構です。
自分が顧みることもなかった対象を自分の言葉で説明し了解を得る練習をしてみると面白いものですヨ!

「じゃあ先生は、どう答えるのですか」

……って野暮な質問がなかったのが幸いです。

で……言葉の運用!

4月初頭より、毎週大学で講義する月曜日の宇治家参去の餌は、武蔵野うどんと相場が決まっていたのですが、ほぼほぼメニューを制覇したことにより、今週より「蕎麦」編へ移行するぞ!とアナウンスしたにもかかわらず、また「うどん」でした。

単なる天ぷら蕎麦系では面白くないだろう!

……ということで、券売機にて「肉ねぎ蕎麦」のボタンを押し、オーダーしたわけですが、出されたのが「武蔵野うどん にくねぎうどん」のようで……。

「オイラが注文したのはそれじゃねえゼ」などと事を荒げることを潔しとしない……潔しとしないといえば響きは善いですが……(しらふ拳では)要はナイーヴでシャイなチキンボーイですから、「ありがとさん」とさも何もなかったかのように受けとってしまいました。

オイラ、蕎麦を注文したのですが……。

それはそれでよしとしましょうか。

このような場合には、説明と了解という対話は不必要の方が「大人の男」なのでしょう。

……って日本的?

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人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし

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 願望を見つけ出し、そして次に、それを充たすための道を求めるというのが、人間の創造的能力である。しかし、このことは、願望が意欲でも実践でもないという点に、何ら変更を加えるものではない。実践には選択するということが、つまり、或るものに賛成または反対の決意をするということが含まれており、そうであるからこそ、<それ自身においてこの上なく弁証法的なものである実践的な反省>は、実効的なのである。私が或るものを意欲するとき、或る反省が起こるが、この反省を介して、私は分析的な過程のなかで達成可能なことをはっきりと意識するようになる。つまり、私がこれこれのことをもとうと意欲するとき、私はこれこれのことをもたなければならない……。このようにして、私は結局、<私の手のうちにあるもの、つまり私自身が着手することのできる地点>にまで遡ることになる。アリストテレスの言葉を使って言えば、実践的な三段論法の帰結Schluß、つまり実践的な熟慮の帰結は、決意Entschlußなのである。ところが、この決意と、そして意欲されたものから<実行sareurukoto>へと至る反省の道筋全体とは、同時に、意欲されたものそのもののひとつの具体化である。というのも、実践理性は、ある人が、自分が善いとみなしている或る目的を自分の達成可能性に照らして反省したり、実行可能なことを行ったりするという点に成り立つだけではないからである。アリストテレスは、立てられた目的のために超感性的な手際を見せて適切な手段を見出す機知、すなわち、至るところで嘘をついて逃れたり、至るところで自分を欺いたり、至るところで言い繕ったりする単なる機転を、非常にはっきりと識別している。このような詐欺師的な目敏さは、決して現実的な「実践理性」ではない。実践理性において重要なのは、例えば、あらゆる技術的な合理性に対して一線を画するもの--すなわち「普遍的なもの」という目標それ自身が、個別的なものを通してその規定性を獲得するということ--である。このことは、われわれの社会駅な経験の多くの領域において知られている。われわれはそれを、例えば、すべての時代の法律学から知っている。法律が定めているもの、つまり、法律のひとつの事例が何であるのかは、致命的な形式主義者の観点においてのみ一義的に規定されるのである。法発見とは、真実正しいこと--もしくは法--が具体化されるよう、事例と法律を一緒にして考えるということを意味する。それゆえに、往々にして、裁判、すなわち、すでになされた諸々の判決が、法の体系においては、裁判を行なう際の基盤となる普遍的な法律よりも重要なものとみなされるのである。このことは、たしかに、普遍的なものである規範の意味が具体物においてしか、また具体物を通してしか実際に正当化され規定されないというかぎりでは、正当である。そのようにしてしか、ユートピアの実践的な意味も充たされない。ユートピアも、決して行為を指し示すものではなく、反省を指し示すものなのである。
 以上のことが、実践に特徴的な諸形式である。人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし、自分の行為を通して、共通の要件を共同で決定するのである。
 したがって、実践はたしかに、抽象的な規範意識にだけ基づいているのではない。実践は、常にすでに具体的に動機づけられており、たしかに先入見に囚われてはいるが、しかし、先入見に囚われているさまを批判するためにも呼び出されるのである。われわれはいつも、諸々の因習によってすでに支配されている。あらゆる文化において、その文化独自の意識を完全に逃れた自明性の系列が通用しており、伝来の諸形式や習俗や習慣が最大限解体された場合でさえも、共通性がなおも万人を規定しているのであって、それがどの程度のものであるかが隠されているだけなのである。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二・座小間豊訳)「実践とは何か--社会的理性の諸条件」、『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。

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市井の職場へ行くまで自室にてずんやりと、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)を読みながら、思索を深めておりますと、十姉妹のピーちゃんが来訪されました。

ワタクシの部屋、すなわち、仕事場ということですが、基本的には、物置状態の一室に、間借りをしているような部屋ですが、仕事の資料がこれまた最近、溢れ出し始めましたので、ぼちぼち片づけないとマズイわな~などと自覚はしていたのですが、この十姉妹のピーちゃんは、至極ワタクシの部屋がお気に入りのようです。

なにゆえなら、物(本)を積み重ねている状況ですから、比較的とまるところが多いようですので、部屋の中で解放するとよく、おじゃまに来ます。

ただしかし、この御仁、昔飼っていた方きくと「こんなにさえずる十姉妹ははじめてだ」と評されたごとく、かなり一日中さえずっておりますので、真剣に何かをやろうとするときには、チト遠慮してほしい……ということで、退出していただきました。

手にのせて、隣の部屋へ運び申しあげましたが、またご来場のようで、ちと休憩しつつ、戯れさせていただきました。

しかし、チト片づけないとまずいです。

いつも使っている『倫理学』の教材が、どこかの本の山の中に「お隠れ」遊ばされているようで、予備の教材はあるのですが、自分用にネタを書き込んだ使い慣れたヤツのほうが、やっぱり使いやすいものですから、今度の休みに、捜索隊と聖僧・設営部隊を派遣しようかなと思う次第です。

さて……。
ピーちゃん、退出後に、細君が入場。

先ほどまでピーちゃんと「遊んでいた」ものですから、朝からずんやりと「遊んでいた」ように思われ、それに対してコチラとしては当惑せざるを得ないのですが、

1万2千円を「何故か?」渡してくれました。
稼ぎが少ないところに由来するわけですが、必要経費以外お小遣いというヤツがない宇治家参去です。必要経費とは煙草代、交通費、(どうしても必要不可欠な理由を報告書に書いて申請してその認可がとれた)書籍代以上!ということになりますので、余裕をもって何かをするとか遊ぶ場合、自分の持っている「オタカラ」を売却し、それに充填しているのが現状で、こうした出所不明の?お金を渡してもらえるのはかなりレアなことにて……、

「お金でも貸したっけ?」

……という具合で、伺うと、

「定額給付金」のようでございました。

政策立案者と事務的手続きに携わる皆様ありがとうございました。

この話がきまったとき、

「それぐらいは、自分に自由に使わせてくださいまし」と懇願しておりましたので、その申請が認可されたようで、今月はアンティーク腕時計を売却せずに済ませそうでなによりです。

「酒とかに使うのなら、そのアレで、どこか旨いもので食べさせに連れて行ってよ」

……人生とは難しいものです。

まさにガダマーのいうとおり「実践に特徴的な諸形式である。人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし、自分の行為を通して、共通の要件を共同で決定するのである」ものなのでしょう。

とりあえず、「越の柏露純米酒」(柏露酒造株式会社・新潟県)でも飲んで寝ます。
今日は授業なので……酒臭いというわけにはいきませんので。

しかし、この「柏露」!
思った以上にバランスのとれた味わいです。

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Book 科学の時代における理性 (叢書・ウニベルシタス)

著者:ハンス・ゲオルク ガダマー
販売元:法政大学出版局
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ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。

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かあさんチル  そうそう、娘さんいかがですか?
隣のおばあさん  まあまあというところですよ。まだ起きられませんでねえ。医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。クリスマスのプレゼントにってね。あの子のたった一つの望みらしいんですが……。
かあさんチル  ええ、わかりますわ。チルチルの持っているあの鳥でしょう? ねえチルチル、お前あのお気の毒な娘さんにどうしてあれをあげようとしないの?
チルチル  なんのこと、かあさん?
かあさんチル  お前の鳥ですよ。あの鳥いらないんでしょう。もう見むきもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ。
チルチル  ああ、そうだ。ぼくの鳥どこにある? あ、あそこにかごがある。ミチル、あのかごをごらん。あれは「パン」が持ってたかごだよ。そうだ、そうだ、たしかに同じかごだ。だけど鳥が一羽しかはいってないよ。「パン」のやつ、あとの鳥食べちゃったのかな?やあ、ほら、あの鳥青いよ。だけどぼくのキジバトだ。でも、でかける前よりずっと青くなってるよ。なんだ、これがぼくたちさんざんさがし回ってた青い鳥なんだ。ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。ああ、すばらしいなあ。ミチル、この鳥見たかい? 「光」はなんていうからしら? ぼくかごを降ろそう。 (いすに上ってかごを降ろし、隣のおばあさんのところへ持って行く) さあ、これ、ベルランゴーのおばさん。まだ本当に青くはないけれど、いまにきっと青くなりますよ。さあ、早くこれを娘さんに持って行ってあげてください。
隣のおばあさん  まあ、本当ですか? こんな風にただで、すうぐにいただいてしまっていいんですかねえ。まあまあ、あの子がさぞ喜ぶことでしょう。 (チルチルにキスしながら)キスさせてくださいよ。では早速ですが失礼しますよ、さようなら。
    --メーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』新潮文庫、昭和三十五年。

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5月中旬に北海道・札幌市にて通信教育部のスクーリング講義にて、「倫理学」を担当する予定なのですが、ようやくその予定受講者人数の通知が届き、不開講にならなかったことに安堵する宇治家参去です。

今回は12名とのことで、懇談的(ゼミ的)にすすめるにはちょうどよい人数かなと思うところです。

これが5名だと真剣での立ち会いという状況ですし、その逆に100名を超えると、なかなかひとりひとりの受講具合に手が入りにくくなるのが現状ですから、まさにちょうどよいというわけで、今から楽しみにしております。

で……
どの教材でもそうですが、教材では様々な文献や言葉、エピソードを紹介しておりますが、そのひとつがメーテルリンク(Count Maurice Polydore Marie Bernard Maeterlinck,1862-1949、※Countが付いているので“伯爵”!)の『青い鳥』(L'Oiseau bleu)です。

倫理学とは、何かできあがった体系や公式を暗記し展開させる科目でもありませんし、語学のように作業を積み重ねる科目でもありません。しかし、哲学と同じようにメタ・フィジィークな批判精神にて現状と丹念に向かい合いながら、それはどうなのよっ?と問うわけですので、そうしたものの見方、すなわち倫理学の観点そのものをどうしても丁寧にお話しなければなりません。

これでほぼ1日の大半が終わってしまいますが、それぐらい大切なところなところで、基礎の基礎、竹刀を握る前の平常心のひとときとでもいえばいいのでしょうか……その部分です。

たとえ倫理学史を学んでも(それが無用ということでは決してありませんが)、その人間が倫理学を学んだかどうかは別の次元のような気がするところもありますので、この観点の講義は大切にならざるを得ません。

で……
倫理学の醍醐味は「関係(性)」、「~のあり方」を問う局面に存在します。例えばそれが「人間とは何か(私とは何か、他者とは何か、そしてその関係性は?)」を問いますし、対象との関係という点では、それは人間だけに限定されるわけでもなく、すべてがその対象になってくると行っても過言ではありません。

そのなかで、一番大切になってくるのが、スタート地点としての「身近なものごとに注目」するという観点でしょう。ともすれば、人は、「どこかに」「なにか」を置きがちです。たしかにそれはそれでOKよってこともありますが、そうではない部分の方が多いのが実情でしょう。

今の生活から超越したと思っても超越(先)を思い浮かべる、夢想するだけは超越は不可能であるように、超越しようとしても今の生活の状況に注目し、診断し、判断しない限り超越はあり得ません。まさに「生活」とは「生命の活動」の現場であるように、そこに眼を向ける必要があるのですが、それが観念とか感覚としては分かっていてもなかなかできるものでもありません。

だからこそ、それを最初に詳細にやるわけですが、そうした生活感覚のひとつのパラドクスを表しているのが、まさにメーテルリンクの『青い鳥』というわけです。

今は飲兵衛のナイス・ミドルと化した宇治家参去も昔、うら若き児童だったわけですが、その頃は原典ではなく絵本で読んだり、聞かせてもらったりしている話ですから、筋書きだけはわかっております。

しかし、実際に手にとって原本を読んでおかないことにはいくまい……などということで、詩人にして名訳者として知られる堀口大學(1892-1981)の手による邦訳ですが、ちょいと読んでみました。

クリスマスの前夜、貧しい木こりの兄妹、チルチルとミチルは、妖女に頼まれ、幸福の象徴である青い鳥を探しに行きます。

二人は、様々な舞台で青い鳥を見つけるわけですが、カゴに入らなかったり、捕まえると死んでしまったり……。

一年の旅の末、ふたりは結局青い鳥を捕まえることが出来ませんでしたが、二人は貧しい家へと帰ります。

帰宅すると……、そこで夢が覚めるという筋立てで、そこへ隣のおばあさんが来て、自分の病気の娘がチルチルの飼っている鳥を欲しがっているという。すっかり忘れていた自分たちの鳥を見てみると、驚いたことに「青い鳥」になっている。

驚きとともに、これを隣の娘にあげると、病気がよくなり、娘がお礼に現れる。そして二人が餌をあたようとすると、青い鳥は逃げてしまう……

そういうお話です。

しかし、再び読み直して驚くのは、チルチルとミチルの冒険が1年余りにも及んでいたということです。これは実際に活字と向かい合ってみないと気が付かないところです。

筋は知っていたのですが、ディテールを確認すると、それはマア、発見、発見の連続というやつで、まさに「灯台もと暗し」「青い鳥を求めてどこか違うところを探していた」というやつです。

これと同じ様な状況にあるのが、まさに「顧みる」に「値しない」と却下されてしまう日々の生活かも知れません。しかし、そこでフト立ち止まって確認してみると……それが丁寧に生きるということですが……驚きと発見があるのかもしれません。

で……。
例の如く、毎月一度は、細君が地酒専門店へ行かざるをえない要件があるのですが、昨日の朝出向いたようで、今回は『純米酒 越乃景虎』(諸橋酒造株式会社・新潟県)でございました。

『越乃景虎』……嫌いな酒ではありませんが、これまで真剣に飲んだことがなく、いちも2-3合飲んでから、途中でやるというセレクトで利用していことが多く、今回はじっくりと味わわせていただきました。

水の如くさわりなく飲みごごちとでもいえばいいのでしょうか。
純米酒がもつ米の旨味を感じることができました。

「青い鳥」はどこにいるのでしょうか?
自分自身の足下に内在しているのがその実情なのでしょう。

……ということで、来月、札幌へ参ります。
どこか旨いところをご存じの方、いらっしゃいましたら、ご教授宜しくお願い致します。

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青い鳥 (新潮文庫 (メ-3-1)) Book 青い鳥 (新潮文庫 (メ-3-1))

著者:メーテルリンク,Maurice Maeterlinck
販売元:新潮社
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『絵のない絵本』に絵を描く

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……月は言いました。
 「今夜わたしは、どうしてもこのことを話さずにはいられません。今夜わたしは、一つの窓をのぞきこみました。向かい側に家がないので、その窓にはカーテンがおろしてありませんでした。そこには子供たちが、姉妹や兄弟たちがみんな集まっているのが見えました。その中にひとりの小さい女の子がいました。この子はやっと四つになったばかりでしたが、それでもほかの子供たちと同じように、『主の祈り』をとなえることができました。そのため母親は、毎晩その子の寝床のそばにすわって、その子が『主の祈り』をとなえるのを聞いてやるのでした。そのあとで、その子はキスをしてもらうのです。そして母親はその子が眠りにつくまで、そばにいてやります。でも小さい眼は閉じたかとおもうと、すぐに眠ってしまいます。
 今夜は、上のふたりの子すこしあばれていました。ひとりは長い白い寝巻を来て、片足でピョンピョン跳ねまわりました。もうひとりは、ほかの子供たちの着物をみんな自分のからだに巻きつけて、椅子の上に立ちあがり、ぼくは活人画だぞ、みんなであててみろ、と言っていました。三番目と四番目の子は、おもちゃをきちんと引出しの中へ入れました。もっともこれは、そうしなくてはいけないことですけども。母親はいちばん小さい子の寝床のそばにすわって、いまこの小さい子が『主の祈り』をとなえるから、みんな静かになさい、と言いました。
 わたしはランプごしにのぞきんこでいました」と、月が言いました。「四つになる女の子は寝床の中で、白いきれいなシーツの中に寝ていました。そして小さい両手を合せて、たいそうまじめくさった顔をしていました。いましも『主の祈り』を声高にとなえているところだったのです。
 『あら、それは何なの?』母親はこう言って、お祈りの途中でさえぎりました。『おまえはきょうもわれらに日々のパンを与えたまえと言ってから、ほかにも何か言ったのね。お母さんにはよく聞こえなかったけど、それは何? お母さんに言ってごらんなさい!』--すると、女の子は黙ったまま、困りきった顔をして母親を見ていました。
 『きょうもわれらに日々のパンを与えたまえと言ったあとで、おまえはなんて言ったの?』
 『お母さん、怒らないでね』と、小さな女の子は言いました。『あたし、お祈りしたのよ。パンにバターもたくさんつけてくださいまし、ってね!』」
    --アンデルセン(矢崎源九郎訳)『絵のない絵本』新潮文庫、昭和六十二年。

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先日、息子殿が寝る前に、「おやすみなさいおつきさま」と窓に向かって言っておりましたので、これは大好きな絵本のひとつ、マーガレット・ワイズ・ブラウン (著)、クレメント・ハード (イラスト)、 せたていじ 訳『おやすみなさいおつきさま』(評論社)に由来しているんだろうなと思いつつ、今朝から童話のたぐいを読み直している宇治家参去です。

近代の童話といえば、どうしてもグリム兄弟(Brüder Grimm)がつとに有名ですが、宇治家参去としては、グリムの作品よりも、どちらかといえばアンデルセン(Hans Christian Andersen,1805-1875)の方が好みです。

グリムの作品は実証的文献学的本文批評の成果を承知で通俗的なくくりでいえば、いわゆる民間伝承の収集にそのネタ元があるわけで、そうした口承伝承がひとつの活字となったとものと特徴づけることが可能です。

それに対してアンデルセンの場合、民俗的伝承からの影響は少なく、そのほとんどが創作童話です。

『マッチ売りの少女』しかり。
『人魚姫』しかり。

その作品には、主人公の悲劇が悲劇を迎える結末もすくなくはないのですが、それは若き日のアンデルセンが苦労に苦労を重ねたことの影響なのでしょう。そうした悲劇や愛憎に対してともすれば現実の社会は無関心を装い続け、評論家風に「茶化して」終わりというのが通例ですが、そうしたあり方について、アンデルセン自身は、実は、自己自身の創作作品を通して、そのことを「いかがなものか」と問い続けていたのではなかろうか……そう思われて他なりません。

こうした傾向が特に前期・中期の作品では著しい特徴として見て取ることができます。しかし、晩年を迎えるにつれ、悲劇・愛憎の結末としての「死」による解決という傾向は後退し、その他の道を模索し続けたのがその最後の歩みかも知れません。

近代の創作作家のほとんどが高等教育を受けていたのに対して、アンデルセン自身はそうした高等教育を受けていません。しかし、「自分は大学を出ていないけれども、旅が学校だ」といい、自然や人間との出会いのなかで、学び、そして思念を形にかえていったわけですが、ともすれば「創作」というものが独りよがりな独白に陥りがちな常なのですけれども、アンデルセンは出会いを学校とすることで、より開かれた次元へと、その作品が突破していったのかもしれません。

さて、童話やおとぎ話といえば、絵があるのが通常です。
だから、「絵本」というわけですが、そうしたあり方に対する挑発的な作品がアンデルセンの『絵のない絵本』です。

『絵のない絵本』ですから、想像するしかありません。
お月さまをストーリーテラーにしたこの作品の絵を描くのは自分自身しかありません。

しかし、その「お話」を繙くと、そこに見出すのは、繰り返される人間の日常生活です。何もそこにはドラマティックなものは存在しません。

しかしながら、そこには、普段の自分自身の生活を、作品として絵に仕上げる楽しみが存在しております。

自分の生活を作品に仕上げることなど不可能だ!

……などといわれますが、作品はそこにしか存在しないのも世の常でしょう。

アンデルセンの挑発は実に愉快で、読後感は至極心地よいものでございます。

幸福は平凡さのなかに実在するのでしょう。

そして、それを光り輝かせるのがユーモアかもしれません。

ユーモアの感覚と聴けば、とかく日本人は対象を「茶化す」ことをユーモアと勘違いしているフシがありますが、そうではなく、ユーモアとは余裕かも知れません。

なぜなら……

 『きょうもわれらに日々のパンを与えたまえと言ったあとで、おまえはなんて言ったの?』

 『お母さん、怒らないでね』と、小さな女の子は言いました。

『あたし、お祈りしたのよ。パンにバターもたくさんつけてくださいまし、ってね!』

……って訳ですから。

ということで?
4月も下旬なのに、非常に寒い東京です。
うちでも暖房をいれてしまいました。
しかし、暖房のお陰でサントリーモルツの限定醸造ビール『モルツ<グリーンアロマ>』の青いホップくささが、この季節にはぴったりです。

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Book 絵のない絵本 (新潮文庫)

著者:アンデルセン
販売元:新潮社
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「息子の詫び状」

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 私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の目、私の心、私のからだ、すべて私という名のつくものを五分(ぶ)のすきまもないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらい無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれをながめることができたも同じでした。
 Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。そうしてすぐ彼の虚につけ込んだのです。私は彼に向かって急に厳粛な改まった態度を示しだしました。むろん策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず『精神的に向上心のないものはばかだ』と言い放ちました。これは二人で房州を旅行しているさい、Kが私に向かって使った言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかしけっして復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味をもっていたということを自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行手をふさごうとしたのです。
 Kは真宗寺に生まれた男でした。しかし彼の傾向は中学時代からけっして生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女(なんにょ)に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかしあとで実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲はむろん、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害(さまたげ)になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたものでした。そのころからお嬢さんを思っていた私は、いきおいどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑のほうがよけいに現れていました。
 こういう過去を二人のあいだに通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものはばかだという言葉は、Kにとって痛いに違いなかったのです。しかもまえに言ったとおり、私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去をけ散らしたつもりではありません。かえってそれを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私はかまいません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は利己心の発現でした。
 『精神的に向上心のないものは、ばかだ』
 私は二度同じ言葉をくり返しました。そうして、その言葉がKのうえにどう影響するかを見つめていました。
 『ばかだ』とやがて、Kが答えました。『ぼくはばかだ』
 Kはぴたりとそこへ立ち留まったまま動きません。彼は地面の上を見つめています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気がつきました。私は彼の目づかいを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、そろそろとまた歩きだしました。
    --夏目漱石『こころ』岩波文庫、1989年。
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先日、学問の先輩と飲んでいたとき……この御仁もかなりの飲み介で、自分もタイガイやるほうですが、ひょとするとそのうえを行くのではないかという無茶ぶりを発揮してくれる稀有な先輩ですが……、「自分も最近“弱くなった”んですよ」などと話していると、「やっぱ、記憶は欠如しても昔は“寝なかった”。しかし、今は記憶が途絶えると“寝ている”んだよね、だから、その手前で我慢する」とおっしゃっておりました。

自分自身も実感するところがあり、「その手前で我慢する」ようにしております。

マア、家で飲んでいるときは、心配がないので(翌日に結果がもたらされるという心配はあるにしても)、結構飲んでいるようなのですが、昨日も快飲苦眠のようにて、「眠ぃ」って起きると、細君が騒いでおり、なにかときくと、SMAPのメンバーの怪事の報道のようにて……

「同じ様なことをしないように!」

……と苦言を呈されました。

ただ、自分としては、そのような興味深い演出は一度たりともしたことがなく、人道に対する罪@戦犯法廷を犯した経験もないハズなので、「無論、オムロン」という親父ギャグにて受け答えましたが、

……ひとこと。

春とはいえ、夜中は寒いはず。
よく「風邪をひかなかったナ」

……というのが最初の実感です。

さて、

今日は、何か忘れているナ~、何か奥歯に挟まっているような~、という居心地の悪さを起床時より抱いていたのですが、その原因が出勤前になってようやく判明です。

思い起こせば、今から10年前、親父が亡くなったんだよな……と。

ちょうど修士の3年目だったかと思います(2年で修了しろよという苦言はご寛恕を)。
10年来入退院を繰り返していた親父が霊山へと旅立っていったわけですが、それから10年も経ったんだよな、などと思い起こしました。

はっきり言うと、(生きているとき)親父の存在は、大嫌いでした。

それは小さな頃からそう思っていたわけではなく、自分が長ずるにつれ、そう思うようになった次第です。

仕事はおつりが来るほど3人前以上にこなした御仁でした。
しかし、酒を呑む量がハンパ無い。

飲んではよくひっくり返って……、んで、振る舞い酒(要はオゴリ)もハンパ無く……。
よく母がブラックジョークで「おまえには家がたつほど授業料を払ってきた。父さんにはこれも家がたつほど酒代を払ってきた」などと言われたものです。
※その分、親父の言い分としては、それだけ稼いでいるんだから文句言うなよ!ってやつですが。

当時、ワタクシは酒飲みだったわけではなく、比較的クソ真面目な学生でしたから、そうした姿に辟易とし、漱石ばりに、

『精神的に向上心のないものは、ばかだ』

などと嫌悪したものです。

本でも読めよ!とか、なんか趣味でしろよ! とおもったものです。

思えば、自分も偏った堅物だったのだと思います。

いうまでもなく、そうした姿は見せないにこしたことがないし、心地よい程度ですませればすますでそれがベストです。

しかし、一を見て十を論ずるとでも言えばいいのでしょうか……まさに自分の偏った堅物性に起因するものの見方から、親父の存在全体を弾劾していたのではないだろうか……などと今になっては思います。

その偏った堅物性とは、19世紀的な進歩史観の俗流のひとつです。

要は、知識を吸収し現実の中でその知識を試していく中で、人間は自分自身の理性の導きによって、かならずや高次の段階へ達することが出来るというお笑いぐさのような暴力的楽観主義による判断です。

いうまでもなく、そうした進歩主義信仰は、第1次世界大戦、そして金融恐慌、そして第2次世界大戦によって、「現実」には完膚無きまでに破綻したわけですが、血肉としてはそれが理解できていたわけではなかったようです。

結論をさきどりすれば、人間には無限向上はありませんが、無限向上も可能である。
そして無限下降もありませんが、無限下降も可能である、というところでしょうか。

自己自身に内在する負性をどこか自分の外にできあがった対象として対峙しながら、漱石のいう「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉に心酔していたのがその実なのでしょう。

いまから思い起こせば、そうした親父の姿に葛藤し、対象化することで対峙し、嫌悪したことは反省すべき一コマかもしれません。しかし、今思えば、米が発酵していくように、詳細は割愛しますが、なんとなくそうすべからざるをえなかった経緯も理解できなくもないし、かといって肯定することもできないし、否定することも出来ないし、……ある意味で実に現実世界で思想とか哲学を学ばせていただいたのかな?などと思うところです。

母親からはよく言われました。

「親父のことを嫌っているようだけど、嫌いは嫌いでいいんだよ。だけど、“お父さん元気?”とか“最近どうよ?”とか、本気でなくてもいいから声かけてあげたほうがいいよ。それだけで親は嬉しいものだし、小遣いも奮発してくれるよ」

たしかにそうなんです。
なかなか、そのひとことが地の言葉として発言することができなかったことはくやまれます。しかし、とがったいい方の応酬であったときも、やはり親は親なのでしょう、何か気遣っていてくれているようなフシはひしひしと観ずるところがあり、それがありがたく、また痛々しかったものです。

たしかに仕事はよくしましたし、酒もよくのんだ親父です。
今から思えば……今自分自身があれほど嫌悪した「酒飲み」になっているわけで……、まあ、あそこまで飲めるよなっていうところには、「酒飲み」の後輩として脱帽です。

親父の親父もよく飲んだ人物のようでしたが、仕事よりも趣味に生きた人物のようでした。戦前はいわゆる満州国の嘱託でまさに3人前の仕事をし、新京の邸宅でロシア人の家政婦まで雇う家柄だったようですが、シベリア抑留を経て帰国後は、失意のうちに、趣味に力をいれたようです。

その反動があったのかもしれませんが、そのことを責めることも出来ませんし、親父の親父の問題に「還元」するのにも抵抗があります。

思えば、仕事が趣味のようなひとでしたが、酒も趣味だったのでしょう。そこに他者から容喙されるとたまったものではない!それが実感だったのかもしれません、たとえ、それが迷惑をかける場合であったとしても、そしてそれがトリガーとなり命を短くさせたわけですけれども。それ一方的に「悪」と断じるのは簡単です。しかし、じゃあ何が善なんだというわけで、そうした対決構造を超えた「寄り添う」「理解しあう」構造というのもあったのかもしれません。

ただ、お恥ずかしい話ですが、そうしたところに気づき始め、親父の酒に付き合うようになった頃には、めっきり弱くなり、親父の老いを感じたものです。後の祭りですが、もっとうち解けて「飲みたかった」ものです。

しかし、それも今となってみれば、そうした思い出を肴に飲み合える兄弟もいえれば、母も健在ですから幸せといえば幸せであり、逆に親父に感謝すべきなのでしょう。

そして問題なのは、その親父のごとく、ハンパ無く飲んでいる今の自分自身であって、このままのペースでいくと(多分親父のペースよりは低い筈!)、55でなくなった親父より短命になるのは間違いなく、そうすると、「パパ、大人になったら一緒に飲もうよね!」とフラグを立ててくれた一人息子殿の期待を裏切ることになるので、すこし考えないとまずいわな……というところでしょうか。

で……

要は、ワイドショー的な「根拠」の探究こそ無意味で生産性の低いものはないわけで、そうした必然の現場を論評するのではなく、と向かい合っていくことが大切だというところが真相でしょう。

そうした意味で、批判でもなく肯定でもなく、ようやくそうした問題と向き合えるようになったのかな……などと思うのがこの5-6年です。

ちょうど、大学で教え始めるようになってからそう思いだしたのかもしれません。

たまに教室で過去の自分を見ることがあります。
自分の親父を嫌悪し、自分は「精神的に向上一本道だ」的なあり方なのでしょうが、それも批判することも肯定することも出来ません。

しかし、そうした経験を経て、本当に批判すべきもの、肯定すべきもの、がみえてくるのだろうと思います。

それが「精神的に向上心」というやつでしょうか。

こんなところがワタクシの哲学とか倫理学を講ずる根っこにあるのだと思います。

さて、

年に一度か二度、親父の夢を見ます。

シチュエーションとしては、ある日、家に帰ると、親父が居間で、昼酒やりながら、TV見ながら、新聞なんか読んでいるわけです。

そりゃあ、こっちは、びっくらこくわけですヨ。

死んだはずの親父に「親父、死んだんじゃなかったっけ?」

夢の世界ですから、そんな真抜けた言葉をかけている自分もアレですが、

そうすると、親父が、

「いや、生きているんだよね」

……などと返してきます。

まさに、親父は生きているのでしょう。

こうした、存在と記憶との対話のなかで、何かを対象化して論ずるというあり方が矯正されているというのであれば、アリガタイものです。

で……

宇治家参去は指輪を2本はめています。
1本が左手の結婚指輪。
もう1本が右手の親父の指輪です。

写真のリングが親父の形見です。

つけていると、親父を思い出します。

なくなる1年前でしょうか。
大病の中、親父は、フィリピンの造船所に、技術指導で赴任しました。
出発・帰国ともに成田を利用しているはずですが、東京に住んでいる自分の所には寄りませんでした。

なにやら「迷惑かけるとマズイ」だからそうだったようです。

親子なのにこの「水臭さ」がなかなかよろしいです。

マア、今から思えば(今回このフレーズ多いですが)、お互いが融通がきない人物だったようですが、このところ融通の利きすぎる存在に自分自身がなっているようで、そこが細君からすると「形がない」とどやされます。

すいません、飲みながら書いているので支離滅裂で。

……っていつもじゃん!

手前味噌ですが、若い頃の親父は、石原裕次郎似だったようです。
本人も裕次郎が大好きでした。

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息絶えた……

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 神が考えたような人間、諸国民の文学や知恵が幾千年にわたって理解してきたような人間は、事物が役に立たない場合でも、美を解する器官をもってそれを楽しむ能力を付与されて作られている。美に対する人間の喜びには、いつも精神と感覚が等しい度合いで関与している。人間が生活の苦難や危険のただ中にあってもそういうものを楽しむきおとができるかぎり、つまり、自然や絵画の中の色彩の戯れや、あらしや海の声の中の呼びかけや、人間の作った音楽などを楽しむことができるかぎり、また、利害や困難などの表面の奥で、世界を全体として見たり感じたりすることができるかぎり、つまり、たわむれる若いねこの頭が描く曲線から、奏鳴曲の変奏演奏にいたるまで、犬の感動的なまなざしから、詩人の悲劇にいたるまで、連関があり、無数に豊富なつながり、相応、類似、反映が存在していて、絶えず流れるそのことばから、聞くものに喜びと知恵、冗談と感動の与えられる、そういう全体として世界を見たり感じたりすることができるかぎり、--それができるかぎり、人間は、自分というものにまつわる疑問を繰返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。
 「意味」こそ、多様なものの統一であるから。そうでないとしても、世界の混乱を統一と調和としてのほかに感ずる精神の力であるから。--ほんとの人間、献膳な、不具でない人間にとっては、世界と神は絶えず次のようなさまざまの奇跡によって実証される。すなわち、夕方になると冷えてくることや、仕事の時間が終ることなどのほかに、夕方の大気が赤くなり、さらにばらいろからすみれいろに魅惑的になめらかに移って行くという現象があること、夕べの空のように無数に変る人間の顔が微妙な微笑を浮べる場合の変化のようなものがあること、大寺院の内部や窓のようなものがあること、花のうてなの中のおしべの秩序のようなもの、小さい板で作られたヴァイオリンのようなもの、音階のようなもの、ことばのように、実に不可解で微妙で、自然と精神とから生れたもの、理性的で同時に超理性的で子どもらしいものがあること。世界の美しさ、新奇さ、なぞ、またおよそ人間的ないっさいのものがまぬがれないもろさや病気や危険などを遠ざけ防止しはしないにしても、永遠不変と見えるものがあること。--そのことが世界を、その召使であり弟子である私たちにとって、地上の最も神秘的な尊敬に値する現象の一つにするのである。
    --ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)「幸福論」、『幸福論』新潮文庫、平成十六年。

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自分自身が悪いのか、それとも中断させてしまったワインが悪いのか。

入力まで終わり、コメンタリーの組み立てまで済んだのですが、もはや息切れ。

コメンタリーは後日と言うことで。

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)は染み込んできます。

その昔、ドイツ文学を専攻していた学徒としてはお恥ずかしい限りですが、こんなに染みこんでくるとは思いもよりませんでした。

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理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ

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……人間にあっては、すべてが矛盾だと、人はよく知っている。ある一人に、彼が思うまま創作に力をそそぎうるようにと、食う心配をなくしてやると、彼は眠ってしまう。勝利の征服者はやがて軟弱化する、気前のよい男に金を持たせると守銭奴になってしまう。人間を幸福にしてやると称する政治上の主義も、ぼくらにとって、はたしてなんの価値があるのだろうか、もしあらかじめぼくらが、その主義がどんな種類の人間を幸福にしようとするのかを知らなかったら。だれが生まれるのか? ぼくらは、食糧さえあれば満足する家畜ではない、またぼくらにとっては一人の貧しいパスカルの出現が、らちもない富豪の出現などよりずっと価値がある。
 何がはたして本質的だか、ぼくらは予知できない。ぼくらは、いずれも味わってきた、まるで思いがけなかったところで、世にあるかぎりの暖かい喜びを。それは、ぼくらに、はげしいノスタルジアを残していった。ために、その喜びを与えた原因が、ぼくらの苦難であった場合、ぼくらは、その苦難までなつかしいものに思うようになる。僚友たちとの再会で、ぼくらは、みな味わってきている、つらい思い出の喜びを。
 ぼくらを、豊富にしてくれる未知の条件があるということ以外、何が、ぼくらにわかっているだろう? 人間の本然は、はたしてどこに宿っているのだろうか?
 本然というものは、立証されるものではない。もしオレンジの木が、この土地で、そして他の土地ではなしに、丈夫な根を張り、多くの実を結ぶとしたら、この土地が、オレンジの本然なのだ。もしこの宗教が、この修練が、この価値の標準が、この活動形態が、そしてそれのみが、人間に、あの充実感を与え、彼の心の中に知られずにた王者を解放するに役立つとしたら、それはこの価値の標準が、この修練が、この活動形態が、人間の本然だからだ。では理論は? 理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ。
    --サン=テグジュペリ(堀口大學訳)『人間の大地』新潮文庫、平成十年。

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マア、一寸変な話かも知れませんが、何かをやるべき時間がとれないときほど、すなわち、ある対象に対して時間がさけないようなとき……たとえばそれが趣味の問題であったり、学問の問題であったり、人間には向かうべき様々な対象が存在するわけですが……それに向かいたいのに、仕事が山積みでなかなか時間がとれないとか、ひとと合うアポイントメントが多くありすぎて、じっくりと読書に時間をついやす時間がとれないとか、……状況はひとによってさまざまあります。

しかし、何かをやりたいのに時間がない!という局面は誰しも日常生活の経験で遭遇しているところなのだろうとおもうところです。
そしてそのなかで、ない時間のなかから無理矢理時間を造りだし、その向かうべき対象と「短時間」であったとしても「強引」に向き合っているのが現実なのでしょう。

ホンマ、時間を誰か下さいまし!

……祈るような思いで、自分自身の時間を創ることの不得手さをなげくと同時に、それを「妨げる」日常のタスクと向かい合っているのが日々の現実なのでしょう。

しかしながら不思議なものです。

サア、物理的に干渉をうけない時間が現実に確保された場合はどうでしょうか。

「ある一人に、彼が思うまま創作に力をそそぎうるようにと、食う心配をなくしてやると、彼は眠ってしまう。勝利の征服者はやがて軟弱化する、気前のよい男に金を持たせると守銭奴になってしまう」ということが往々なのでしょう。

つまるところ、条件ではないのでしょう。
何かを成就すべき条件が問題なのではなく、その対象に向かい合う意志の力が問題にされているのかもしれません。

ちょうど、ひさしぶりの市井の職場の錬金術にならぬ「連勤」中でございます。6日出て1日休み6日出るという久し振りにハードな期間のまっただ中なので、物理的な時間が確保されているわけではありません。にもかかわらず、無理矢理こじ開けた時間とか、市井の職場での休憩中とかに振っている本業?の仕込みがはかどるのが不思議です。

つまるところ人間は条件が満たされても動くわけではないし、条件が揃っていなくても動ける生き物かもしれません。

往々にして、人間という生き物は「条件」にこだわります。
それはそれで至極大切なことです。
しかし、それだけではないんだよ……ということを「こだわる」中で忘れているのかも知れません。

現実には「条件」が揃わなく、対象にアプローチできないという事例も多々存在しますし、そんなことは承知です。しかし、「条件」が揃わなくても、対象に果敢に挑戦していく事例も同じように多々存在します。

その意味では「条件」還元主義とは科学のアプローチを装った憶見なのでは……などと思うばかりで……。

「ぼくらは、食糧さえあれば満足する家畜ではない」わけですから。
「何がはたして本質的だか、ぼくらは予知できない」わけですから。

その意味では、まさに「もしオレンジの木が、この土地で、そして他の土地ではなしに、丈夫な根を張り、多くの実を結ぶとしたら、この土地が、オレンジの本然なのだ」というのが真相なのかもしれません。

しかし不思議なもので、苦闘する中で味わうのが「まるで思いがけなかったところで、世にあるかぎりの暖かい喜び」というわけです。

そのどうしようもない苦闘こそ、意志あるかぎり「その苦難までなつかしいものに思うようになる。僚友たちとの再会で、ぼくらは、みな味わってきている、つらい思い出の喜びを」というわけです。

ようやく今週末〆切のレポートをなんとか返信できました。
3-4月は大学の通信教育部のレポート課題の内容更新により、例年より事案が多いのですが、うれしいのが、自分自身の授業をうけてくれた方からのレポートです。思い出深い昨年の夏期スクーリング(対面授業)での学生さん、秋期スクーリングの学生さんからのレポートも結構あって、まさに「嬉しい悲鳴」です。

地方都市でのスクーリングの場合、「倫理学」というナイーヴで不人気?(でもなかろう!)な科目ですから、受講者数も少人数ですから、スクーリング後、比較的早くレポートが提出されます。しかし、会場が大学での集中講義となると受講者数も多く、提出されるレポート案件がすくなく、心配するのが実情ですが、課題内容の更新、ある意味では刺激になったのでしょう……今月は、授業を受けてくれた方のレポートがおおく、まさに「嬉しい悲鳴」です。

昨夏は、オーストラリアとドイツの御婦人がはるばる海を越え、ワタクシの拙い授業を受講してくださったのですが、オーストラリアの御婦人のレポートは年末に読ませていただき、無事終了し、ドイツの御婦人のレポートはいつか!などと案じていたところです。その矢先、ミュンヘンから届けられた2通を無事うけとり、安堵した次第です。

ドイツの御婦人はこれまた最前列でナイーヴな講義を熱心に聞いてくださったわけですが(思い出すとその後ろのグループが和気藹々とにぎやかでしたネ)、ちょうどワタクシの母親と同世代ぐらいの方のようにて、休憩時間に談笑したり、意見を交換する中で、是非がんばってもらいたいと思った思い出がありましたので、本当に安堵した次第で、卒業目指して頑張って欲しいものです。

ん~……、例の如く、話がすっとんでしまい恐縮です。

結局の所「ぼくらを、豊富にしてくれる未知の条件があるということ以外、何が、ぼくらにわかっているだろう? 人間の本然は、はたしてどこに宿っているのだろうか?
 本然というものは、立証されるものではない」わけです。

だからこそ、今日一日を「充全」に歩むことこそ人間の本然なのだろうと思います。

そこには理論も見本も解説書もマニュアルもありません。

じゃどうすっぺ?

……と訊かれると困るのですが、それはそうですねエ~「理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ」というところが落ち着きどころのいいところではございませんでしょうか?

……ということで、今日は久し振りにドイツワインで乾杯したくなりましたので、ワインで乾杯です。

グスタフ・アドルフ・シュミット社の「Zeller Schwarze Katz MOSEL Pri Katz」でございます。

やや甘口なのですが、味わいは「豊穣」で、テーブルワインにありがちな「(イヤに)残る甘さ」がなく、「すっきりとした」飲み口が最高です。

……って、多分全部飲んでしまうんだよな~。

生産性が低すぎだ!

……しかし、路傍の草花には「味」があるもんです。

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お前のすじの悪いのはわかっている……っていう辺りにギクッ!

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 坪井道場はかまえもささやかな、あまり目立たぬ存在だが、知る人ぞ知る、であった。
 当主の坪井主水は、当年五十三歳。剣術もすぐれているが金にも名誉にも縁がなく、江戸の剣術界で「売り出そう」などというところは全く見られず、下男一人をいたきりで、早朝には先生みずから道場の床をふき清めるという……そのことを剣友・岸井左馬之助からきいた長谷川平蔵が、
 「そういう人物でなくてはならぬ」
 と、あまり乗気でない息子を入門させたのである。
 入門の折には、少年の辰蔵をつれて長谷川平蔵みずから、桐の箱に白扇五本を入れ、束脩(そくしゅう)をととのえ、羽織・袴に身を正して、
 「よろしく、御願いつかまる」
 と、あいさつに出たものだ。
 のちのちまで、このときの平蔵の礼儀正しい態(さま)に坪井主水が感心をして、
 「あのような御立派な父上をもたれたからには、もそっと上達をせねばなるまい」
 と、口ぐぜのように辰蔵をいましめるのだが、どうもこの弟子、すじがよくない。
 「お前のすじの悪いのはわかっている。なれど、坪井先生に日々接することのみにても、お前のためになることだ」
 と、平蔵もつねづね息子にいいきかせている。
    --池波正太郎「霧の七郎」、『鬼平犯科帳 (四)』文春文庫、2000年。

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朝起きると、まず顔をあらい口をすすぎ、それから「サントリー天然水<南アルプス>」を頂き、それから濃いめのコーヒーを頂きながら一服することで、しらふの人間にもどる宇治家参去です。

一昨日も何時に寝たのか記憶が定かではないのですが、それなりにしこたま飲んで寝たのですが、月曜は昼から授業がありますので、それなりにはやく起きて、起床時の恒例行事をこなしていると電話が一本。

マア、細君関係だよな……と思って換気扇の下で煙草を吸っていると、

なにやら応対がすさまじく丁寧のようで、

これも、マア、細君関係で「偉い人からだよな」……って思っていると。

ワタクシ宛のようにて……

「鈴木先生からだよっ!」

一気にOSが立ち上がるとでもいえばいいのでしょうか。
※ワタクシはmacユーザーではありませんので、windowsで例えるならば、OS起動中の画面が、めちゃくちゃはやく終了し、どのアプリケーションを使用してもOKになる段階にまで一気に到着した!という状況です。

目の前にいるわけではないのですが、襟が正されてしまうとでもいえばいいのでしょうか。

……学問の師匠からの電話でした!

師匠とは実にありがたいものです!

ちなみに蛇足ながら付け加えるならば、学問の師匠・鈴木範久先生は……、

「あまり目立たぬ存在だが、知る人ぞ知る、であった」というわけでは全くなく、「すべてのその専門分野の人間が知る」存在であり、かつ、「売り出そう」というひとでもなく、本当に熱心に探究に止まない大先生にて、いまや世界中から(これホンマです!)求めてこられる大先生です。

よくそこに師事できたよなっていう自負?とともに責任もかんずるわけですが……。

ちょうど研究・取材調査の旅から帰宅されたばかりのようでしたが、ナイーヴでシャイなチキン野郎であるワタクシ自身、いわば『鬼平犯科帳』の主人公の・長谷川平蔵の愚息・長谷川辰蔵のようなものですから、そのご連絡に驚くばかりか感涙の至りです。

その旅で得た知見とヒントの最速のご連絡で御座いました。

ちょうど、ワタクシの博士論文と交差する部分での研究・調査であったようで、自分自身としても、ひとつ解消し切れていない問題を抱えていたところにダイレクト・ヒットになってしまうヒントでしたので、最敬礼で電話を受けとりながら、メモをした次第です。

ともあれ、詳しくは措きますが……って書きはじめましたが、

研究対象である吉野作造(1878-1933)の場合、その超国家主義的視点がどこから出てきたのか、ひとつの謎になっております。

吉野に一番大きな影響を与えたのが海老名弾正(1856-1937)のキリスト教信仰になるわけなのですが、吉野が人生観・信仰観に大なる影響をもろもろ受けているにも拘わらず、両者には大きな開きが存在します。

すなわち、吉野は制度の問題よりも内実を問うなかで国民国家を超脱する視点を保持し続けます。それに対して吉野に影響を与えた海老名は、どこまでも制度としての、そしてその制度に「神話」を加味・補強した「国民国家(民族共同体)」にこだわります。

影響をうけたのにどうして~?

……ってのがひとつのなぞでございます(先行研究含め)。

そこで出てくるのが通俗的なパターンなのですが、近代日本におけるキリスト教受容における世代の感覚間格差っていう収まりどころをえた答えです。

信仰第一世代が強烈なナショナリストであった点と、それ以降の世代の感覚の乖離ですませようという視点です。

たしかに間違いではございません。

禁教が解かれる前後から、携わった第一世代として「キリスト教」=「邪宗門」という偏見の打破を志すなかで、明治維新を単なる「政治維新」とみてとり、その本物の精神の維新としてみる「第二革命」をそれぞれの模索探究したのがその事例です。

そのなかで、国家主義的宗教観も出てくれば、強烈なアンチもでてきます。

そしてその次の世代とは大いなる断絶がでてきます。

それを評して、第一世代を「志士的」キリスト教として、それ以降の世代として区別(というよりも整理かな)することが通例です。

しかし、吉野なんかをよんでいるとそれに収まりきらない射程を秘めているのも実感するばかりで、先行研究の通例で「流す」とマズイよ~な……だけど、どこにその翠点はあるのだろうか……などと悩んでおりましたところでしたので……、

ホンマ、鈴木先生ありがとう御座います。

そのヒントは細かいネタになるので措きますが……一ヶ月くらいはそれに格闘せざるを得ない案件にて……これから国会図書館とか、古巣の立教、聖三木図書館とかに通いそうでございます。

本当に、ありがとうございました。

……そんな、学問ネタを綴りたいわけではないんですが、筆が先走りました。

要は、いろんなパターンとか出会いとか、きっかけにおける外発性とか内発性とか多種多様な存在が存在するのは重々承知なのですが、ウンコのようなちっぽけな自分自身を導いてくれる師匠の存在が、ほんとうにありがたい!ということです。

ともすれば、このご時世、「師」という存在に随従することが、自己自身を滅却する否定的概念と捉えがちな風潮がリアルに存在するわけですが、それに対して「いかがなものよ」ということです。

「師匠」によって、まさに「自己自身」が開花するはずなのに、批判するおめえらーよっ!っていう浪花節的なモラルがふつふつと再現してくるわけですが……。

本当に、ありがとうございました。

そのヒントをもとに……、まずもってして、大切なのは、そのヒントを紡ぎ出すための燃料が、形状予算よりも必要になって来るという生活者の視点です。

何処に出るにも、コピーするにも金がかかるというわけで、ちとわが家の財務大臣との折衝が予想されそうです。

……ということで?

月曜日(短大での講義日)を終えると……こうこれは恒例の報告になるわけですが……JR八王子駅「いちょう庵」での「武蔵野うどん」のレポート!

メニューとしては、

武蔵野ざるうどん(ざる・480円)
肉ねぎうどん(つけ・580円)
きのこうどん(つけ・580円)
肉きのこうどん(つけ・680円)

……ということになりますので、〆として「肉きのこうどん」をセレクトです。キノコだけでは物足りたいな!というのもあって、今回は、葱と肉とキノコの絶妙なハーモニーに悶絶させていただきました。

濃い~味付けの汁ですが、全部飲んでしまった!

ホンマ、いい値段をとっておりますが(立ち食いとしては)、反則技がむしろここちよい宇治家参去です。

……ということで、来週からは「蕎麦」編へ移行しそうです。

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鬼平犯科帳〈4〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈4〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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手なれたこと以上にましなことなど、まったくない

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 七五(845-46)
 有能な職人や学者が、おのれの技術に誇りをもち、満ちたりたまなざしで生をながめるときには、立派にみえる。これに反して、靴屋とか教師が、じつは自分はもっとましなことをするように生まれついているのだと、悩ましげな顔つきをしてわからせようとするのを眼にするときにもまして、傷ましいことは何ひとつない。手なれたこと以上にましなことなど、まったくない。そして手なれたことは、なんらかの有能さを身につけ、それから創造すること、ルネサンスのイタリア語の意味での徳virtuのことである。
 国家が馬鹿げてふくれあがった今日の時代には、すべての分野や専門において、本来の働き手のほかに、なお「代表者」がいる。たとえば、学者のほかになお文筆家が、苦しんでいる民衆層のほかになお、その苦しみを「代表する」饒舌なほら吹きの無能者がいる、--おのれは裕福な暮らしをしながら、厚かましくも議会では困窮状態を「代表する」職業政治家は言わずもがな。私たちの現代生活は、一群の仲介者たちによってこのうえなく高価につく。これい反して古代都市では、またその名残をとどめているスペインやイタリアの多くの都市でも、自分みずから打ってでて、現代のようにそうした代表者や仲介者をなんら重んじなかった--足蹴にすることはあったとしても!
    --ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 上 ニーチェ全集 12』筑摩書房、1993年。

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その筋の緻密な専門家とかオーソリティーから表現するならば、「それは誤読にほかならない」と弾呵されてしまうのは承知ですが、不思議なもので、ワタクシの場合、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)を読むと、盛り上がってしまいます……といいますか、元気になってしまいます。

譬えは変ですが、マアこれは太宰治(1909-1948)を読んで「生命力充填!」という読後感の状況に近いものかもしれませんが、両者がニヒルなものを超越した地平を目指していたものであるとすれば、あながち間違ってもいないよな!……などと思うこと屢々です。
これはニーチアンでもアンチ・ニーチアンでもないからなのかもしれませんが、ニーチェのニヒリズムへの超克への志向を「ぼそっ」とその華麗で苦渋に満ちたアフォリズムから聞きとると、そう思えて他なりません。

よくある話ですが、現状も大切にしながらも、目指すべき範型をも大切にする人間の顔とは美しいものだよなと実感します。

しかし、現状をそれなりには「こなしながらも」、「本当のおれは違うんだゼ」と範型も理念もなにもなく、うだうだやってしまう顔は、単なる恨み節にほかならず、そこには現実を陶冶する生命力もなければ、気力もないのでしょう。

その心根がニーチェのいうルサンチマンにほかならないと思います。

勝他に走ると恨み節に流れがちです。
勝自をもくもくと積み上げていくしかありません。

しかし、それが支配-被支配の構造(的暴力)の所与の価値観に組み込まれているそれであればその成就は難しいのかも知れません。

手なれたこと以上にましなことなど、まったくない。
手なれたことをけなす・引いてしまう・恥ずかしがるところには、「展望」は存在しないのでしょう。

人間よ!
胸を張れ!

……仕事をしているなかでつくづく実感します。
それが今、性(しょう)に会わないことのほうがほとんどです。
であるとしてもそこにしかその足下を突破する翠点は存在しません。
「悩ましげな顔つきをしてわからせようとする」ことなんか必要ありません。
一瞬一瞬の実存の中にこそ、自己自身の過去・現在・未来が内在するのでしょう。
そのへんを「丁寧」に生きていくしかありません。

よく宇治家参去は他者から云われます。

「宇治家参去さんは、“丁寧”ということば大好きですよネ」

「ハイ、その通りです」

……なぜなら、その一挙手一刀足のなかにしか自分自身は存在しませんから。

感情として恨むことは人間ですから払拭できません。
だからこそ、恨みの念はあったとしても、その地平に輝く自己自身を雄々しく見つめながら、現実を薫陶していくほかにありません。

だからこそ「丁寧」に生きていくしかないのです。

なぜなら「手抜き」の仕事よりも「丁寧」な仕事の方が気持ちいいでしょ!

そこに生命力は宿るのかも知れません。

今の生活がいやだ!

そんなことはどこにでもある話です。

しかしその舞台(部隊でもイイデスヨ)から降りることは不可能です。

であるならば、「丁寧」に生きていきましょうヨ!
そして、自己自身の理念とか想念を他者に「代表」して、ルサンチマンする必要なんかないんですヨ。

「代表」されるということは「代表」という存在者はあったとしても、それこそが「自己自身」ですから、そこに愚痴とか恨みを挟む方が、反価値なのではないでしょうか……。

そんなことを、ニーチェの言葉からよく考えさせられます。

……などとやっていると、いい時間です。
明日……もとい……今日ですネ!……は、また朝一番で大学です。
大学の講義が終えるとそのまま市井の仕事というハードな一日なので、早く寝ないとまずく、そして運悪く、最近、結構寝ないと体力・精神力が回復しないというジレンマに陥っていますので……なおさら早く寝ないといけないのですが、卒業生より頂いた「箱根のしずく」(本醸造生貯蔵酒・石井醸造株式会社・神奈川県)を飲んでいると、ひさしぶりの「甘口・濃厚」のようにて……いい感じ!で目が冴え、もうひとふんばりできそうです。

箱根系の初しぼりとか冷やおろしは何度か頂いたことがあるので、イメージ的には「鮮烈・淡麗」というイメージでしたが、そうした想念を破壊する一酒のようにて、ひとつの対象を多角的にアプローチできる契機として実にアリガタイものでございます。

……ともあれ、箱根といえば伊豆半島と一体化した温泉地との印象が強く、「場合によっては、静岡県?」などと夢想しがちな部分が強烈にあるのですが、よくよく銘柄をみると「神奈川県」のようにて、「神奈川県」の「温泉」に、チト足を伸ばしたくなった次第です。

そのうち、暇ができればだれか逝きます?

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Book ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

著者:フリードリッヒ ニーチェ
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最後のコーヒーハウス

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 一七
 よい自然と悪い自然。--最初人間は自然の中に自らをもちこんで考案した。人間はいたるところに自らと自らの同類を見た。すなわち、彼らの悪いそして気まぐれな意向が、雲や、嵐や、猛獣や、木や、草の間にいわば隠れているのを見た。当時彼らは「悪い自然」を案出した。それから或る時人間が自然から自らを再びとり出して考案する時代、ルソーの時代が来た。人々はお互いにひどくあきあきしたので、人間がその苦悩を伴ってやって来ることのない世界の片隅をぜひとも持ちたいものと思った。「よい自然」が案出されたのである。
    --F.ニーチェ(茅野良男訳)『ニーチェ全集7 曙光』筑摩書房、1993年。
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自然は自然であって、「よい自然」と「悪い自然」なんてハナから存在しないのでしょう。しかし、ひとは対象と向かい合う中で勝手に自己自身の想念でそれを固定化し、それ以外の側面をみないようにしてしまう傾向がつよいのかもしれません。ルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712-1778)も現状を批判するうえで、かつての時代によき「人間和楽」の世界を「自然」状態として見て取ったわけですが、現状を批判することは、確かに必要ですけれども、思想的構築物ばかりにひっぱられてしまうと、それはそれで、写真だけを眺めながら対象を論じ、対象のぬくもりや息づかいから何かを学ぶという視点を失ってしまうのかも知れません。

……というわけで、

対象から「何かを学ぶ」という視点は極めて重要であるにもかかわらず、なかなか、人間として「経験」から「学ぶ」ことのできない宇治家参去です。

金曜日飲みに行く前、ちょうど、本年度より修士に復学した後輩と近況を交歓すべく、昔、よく通った「ビア&カフェ BERG」にて邂逅してきました。

むか~し、たとえば、JR荻窪駅の北口には、焼き鳥の立ち飲み屋なんかあったわけで、子供だった自分は、会社帰りのサラリーマンのおっちゃんとかおにいちゃんが「粋」に煙草なんか吸いながら、冷やで一杯やっている様子をみながら、「かっこええ」などと思ったわけですが、こうした「立ち飲み屋」……次々と消滅しているようで、すこし残念な実感があります。

立ち飲み屋とは「長居」のできない、まさに「サラッ」と「サクッ」って飲んで、さあまたがんばるぞ!というモチベーションを安く・短時間に与えてくれる、これはこれでマア、大人の社交場だよな……などと思うわけですが、そうした立ち飲み屋のロンドンパブ風なお店が、「ビア&カフェ BERG」でございます。

実にこのお店にはよく通いました。
何しろ、ビールが旨く、つまみも絶品、しかも、短時間で、いろいろと意見交換をしたり、ちょいと気の利いた待ち合わせには至極便利なものでしたから、よく通ったものです。ちょうど、当時住んでいたのが中野坂上でしたから、JRでも地下鉄でもすぐに帰ることができる!というわけでしたから、紀伊國屋書店なんかで大量にものを買い込んでさあ、帰る前に一服と一献にちょうどいいというわけで……、ひとりでも行きましたし、友と連れだってもいったものです。

で……。
そのあと、飲みの約束があるにもかかわらず、やはり時間的にも短時間の都合しかお互いになく、それじゃア!ということで久し振りに利用させていただきました。

パン×2種、ハム×2種、付合わせの冷野菜ののったプレートの「ジャーマンブランチ」をセレクトし、エーデルピルスでまず乾杯!
この自家製パンと、自家製ハム、なんともいえないのですヨ!
本当に!
ちなみに、「ビア&カフェ」ですから、珈琲の類もうまいし、カレーもなかなか絶品です。

ビールの類、速攻で飲んでしまいますので、エビスの黒をもう1杯注文し、近況交歓に。
たしかに、ロンドンのパブやコーヒーハウスは、発祥としては、飲んでおわりという場所よりも、そこで投資から娯楽、学芸からスポーツまで論じられた「社交場」だったかと聞いたことがありましたが、たった20分の邂逅でしたが、濃ゆい語らいができたのは何よりです。

「長居」するのではなく、「サクッ」と気分転換と知の語らい……忙しい現代人にとってはまさに都会のオアシスではなかろうか……などと思うのは宇治家参去ひとりではあるまいと思う部分です。

http://www.berg.jp/

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丈夫な歯と丈夫な胃―― 私が君にのぞむのはこれだ!

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 五四
 私の読者に

 丈夫な歯と丈夫な胃――
 私が君にのぞむのはこれだ!
 そうして君が私の本を消化してこそ、 私と昵懇になれるは必定!
    --ニーチェ(信太正三訳)「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」、『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』筑摩書房、1993年。

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昨夜、18時すぎから24時近くまで飲んでいたようで--最後の記憶をお店に紛失したようですが--、『十四代』を浴びるように飲ませて頂きましたが、味わえたのはどうやら最初の数杯のようにて、崇拝の念はわすれがたく敬意をもって日本酒様に相対させていただきましたが、例の如く--鯨飲のようにて、大変申し訳なく、思う宇治家参去です。

とりあえず、最後は、武蔵小金井止まりの中央線最終便にて帰宅できたのが、これ不幸中の幸いというやつで、美酒と鮮烈な肴を堪能したにもかかわらず、下車してから小腹が減っていることに気づき、そこで頂いた吉野家の牛丼が旨かったのが不思議なものです。

あれほどさんざんに飲んだあとでもラーメンとかそのへんを欲するのが人間の摩訶不思議なるところのようで--。

いずれにしましても「無事これ名馬」との故事を実感するばかりにて、電車で帰宅できたのはなによりです。

ただかなり飲んでいた割には、ウコンを二本飲んでいたせいか、翌日まではあまりひびいていないのがありがたいところです。

しかしながら、こんなシャイでナイーヴなチキン野郎と愉快に飲んでくださる「友」とはありがたいものです。財といえば、金銭・財産を連想しがちですが、人間こそおおいなる「財」であり、「莫逆の友」ほど得難いものはありません。

ありがとうございました。

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Book ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

著者:フリードリッヒ ニーチェ
販売元:筑摩書房
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言葉は指示し命名するものでもなければ、存在を指す精神のシンボルでもない

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 言語の起源と本質についての哲学的な問いは、実のところ、存在の本質と起源についての問いと同じくらいに古い。というのも、世界全体についての最初の意識的反省の特徴は、まさしくこの反省にとっては言語と存在、語と意味とがまだ分離されておらず、両者が不可分の統一体をなしてあらわれてくるというところにこそあるからである。言語そのものが反省の前提であり条件なのだから、また哲学的「自覚」は言語において、言語を通してはじめて目覚めるものなのだから、精神がおこなう最初の省察もまた、つねに言語をある与えられた実在(レアリート)として、自然的「現実」に比せられる対等の「現実」として見いだすのである。言語の世界は、人間がそれにはじめて目を向けたその瞬間から、人間に対して物の世界が対峙する際に示すのと同じ規定性と必然性、つまり同じ「客観性」でもって人間を包みこんでしまうのだ。物の世界も言語の世界も、それ自身に独自の本質と、あらゆる個人的恣意を絶した独自の拘束力をそなえた一つの全体として人間の前に立ちあらわれる。考察のこの最初の段階でにおいては、物の在り様やその感性的印象の直接的な在り様と同じく、言葉の存在や意味も、精神の自由な活動に結びつけられることはない。言葉は指示し命名するものでもなければ、存在を指す精神のシンボルでもない。それ自体、実在する存在の一部なのである。
    --E・カッシーラー(生松敬三・木田元訳)『シンボル形式の哲学』岩波文庫、1989年。

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しまった!

本日、チト、飲み会があるので、ぐるなびなんかで調べていたわけですが、その詳細条項を印刷して自室にぱあっとほったらかして……データはすでに携帯のスマートフォンに転送はしているのですが、やはり昭和の人なのかも知れません、その内容を「神」もとい、「紙」に印刷しておりましたので……いたものですから、嗅覚の鋭い細君が「嗅ぎつけ」、「また飲みにいくんかい!」との恫喝にて……ですが、そこに「ワタシ自身ガ“実存”スルワケダ」……と切り返したのがよくないようにて……、ずっぽりと“絞られた”宇治家参去です。

たしかに「世界全体についての最初の意識的反省の特徴は、まさしくこの反省にとっては言語と存在、語と意味とがまだ分離されておらず、両者が不可分の統一体をなしてあらわれてくるというところにこそあるからである」わけですから、語と意味は世界において不思議に麗しい出会いを享受するわけです。

おなじように、宇治家参去と銘酒はお互いにまだ分離されておらず、両者が不可分の統一体をなしてあらわれているですので、その両者(飲み手と飲まれる酒)のどちらか一方を欠如することは不可欠なのですが……この部分は下戸の人(=細君)には理解しがたい領分のようで……、しかし「わたしと全くことなる他者」(=宇治家参去)の理解を拒否するのも「難」でしょう……などとさらに切り返してしまうと、宇治家参去自身が、「わたくし」(=細君)の“実存”を十全に理解していないのだろう「テメぇ」とやられてしまうので、その言葉をぐっとのみこみ、「今日はお日柄も佳く~」と流しながら、新しい家族である「ピーちゃん」(※これは息子殿の命名であって、ワタシ自身の実存としては「ピー太郎」と読んでいるわけですが)と「玉の光」で戯れているわけですが、この人間に親しくなれた十姉妹(ジュウシマツ)のお兄さん(だと思う)、激しく伴侶を求めているようですので、飲みに行く前にでも、伴侶をさがしに、チト、ショップ巡りでもしてきます。

んで……

『十四代』とか『磯自慢』あたりで、格闘してこようかと。

添削すべきレポートの返信も終了しました!
来週の授業の準備も全て完了です!
そして……
再提出?用の博論の序論部分の推敲も終わったゾ!

……ということで、翌日から市井の職場の怒濤の連勤(これが練金ならイイノデスガ)になるのですが、ウコンをたっぷり仕込んで楽しんで来ようかと思います。

おもえば、うちのとなりにある公園のぼたん桜が満開だった。

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シンボル形式の哲学〈1〉 (岩波文庫) Book シンボル形式の哲学〈1〉 (岩波文庫)

著者:E. カッシーラー
販売元:岩波書店
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【覚え書】「週刊新潮誤報『捏造したわけではない』 編集長『被害者』強調」、『毎日新聞』2009年04月16日(木)付。

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『週刊新潮』が朝日襲撃事件の実行犯と名乗る男性の手記を掲載していた問題で、本日(4月16日)発売号で手記が「誤報」だったことを認め、謝罪しました。

しかしながら、その中身は証言者に騙されたというトーンに終始し、自分たちは「被害者」であるとのこと。

新聞ジャーナリズムと異なり、火のないところに煙を焚く「週刊誌ジャーナリズム」ですから「企画」ありきの「ストーリー」ということは重々承知しておりますが、そのネタまでをネタにするところに商魂のたくましさを感じるというよりも、もはや虚脱状態の絶句というか……。

メディアの自殺行為がはげしくつみかさなっていくような気がします。

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週刊新潮誤報 「捏造したわけではない」
編集長「被害者」強調

 朝日新聞阪神支局襲撃事件の「実行犯」の手記を掲載した週刊新潮の早川清編集長は15日、毎日新聞の取材に裏付け取材の不足を認めたが、「結果的に誤報だったが、捏造したわけではない」と、島村征憲氏のうそに翻弄された被害者との立場を強調した。インタビューは各社個別とし、記者1人で30分に限定した。

早川編集長との一問一答は次の通り。
 --警察に裏付け取材しなかったのは。
 ◆時効になった事件について警察に取材しても、本物か偽物かを答えることはできない。最初から除外した。
 --朝日新聞から手記掲載前に「(手記内容は)事実と異なる」と回答されながら、なぜ掲載したのか。
 ◆朝日の見解が正しいかどこで証明するのか。島村氏が虚偽のことを言っているのか、本当の犯人が秘密の暴露をしているのか、その検証手段を持っていなかった。
 --取材の不十分はどこか。
 ◆手記を掲載した大きい理由は実名告白だった。欠落していたのは周辺取材。そこを徹底して取材していけば彼の経歴からほろこびが掲載前に出ていたのではないかと思う。
 --元米国大使館職員と和解した理由は。
 ◆和解の内容は第三者条項で言えない。そのとき、疑念が生じ始めたが、すべて虚偽だとは思わなかった。
 --小尻記者の遺族に謝罪はしないのか。
 ◆私たちが一番しなければならないことは読者への説明だ。小尻さんのご遺族にはある意味でお騒がせしたというか、不要な摩擦を起こしてしまったことは申し訳ないと思う。
 --休刊、廃刊、人事処分は検討しないか。
 ◆捏造とは全く次元の違う問題だ。誤報の責任は編集長として感じていて、大変重く受け止めている。新聞でも雑誌でも誤報したら休刊、廃刊しなければならないのかとなる。人事処分は会社や役員会が考えること。

説明責任を果たしていない
朝日新聞社広報部の話
 週刊新潮は、初報掲載後2カ月余りがたち、ようやく誤報を認めました。しかし、弊社に対してはいまだに正式な謝罪はありません。同誌編集部から事前に問い合わせを受け、島村証言には事件の客観的事実と明らかに異なる点が多数あることを回答したにもかかわらず、「告白手記」を連載し、今になって「週刊新潮はこうして騙された」と被害者であるかのようなおわび記事を掲載する姿勢は疑問です。取材上の問題点の客観的な検証や再発防止策への言及もなく、説明責任を果たしているとは言い難いと考えます。

検証の経緯不十分
大石泰彦・青山学院大学教授(メディア倫理法制)
 週刊新潮が取材経緯を検証した記事は、島村氏にだまされたとし、被害者の立場を強調するのみで、誤報の経緯を十分検証しているとは言えない。そもそもこれだけ重大な事柄を数人の取材班で、有力な物証も見つからないまま、今年1月初めの直接取材から掲載まで1カ月足らずの短い取材で報じたのは余りに拙速すぎたのではないか。
 検証記事からは最初は島村氏に疑問の目を向けながらも徐々にマイナス材料は無視していく様子がわかり、ジャーナリズムの基本である事実確認を忘れてしまったかのようで、手記を掲載するという企画ありきの意識がうかがえる。その姿勢は、朝日新聞が島村氏の証言を否定したことを無視したり、捜査当局への取材をしなかった理由を言及していないことからも分かる。
 島村氏に宿泊施設を提供するなどとして囲い込むとともに、他メディアへの取材を受けないよう助言したことは、島村氏が週刊新潮が期待する情報を出すなどの誘導に応じたり、他のメディアによる事実のチェックを鈍らせるなどの危険性に対する認識が低い。
 ただ、積極的なジャーナリズムには、誤報はあり得る。重要なのはその後にどう生かしていくかで、社会で共有するためにできる限り情報開示が求められる。今回も早川編集長は報道各社の個別取材に応じたものの、記者を一人に制限したり写真取材を拒んだと言うが、閉鎖的で組織防衛的な態度は誠実さを欠いていると批判されてもやむを得ない(談)。

    --「週刊新潮誤報『捏造したわけではない』 編集長『被害者』強調」、『毎日新聞』2009年04月16日(木)付。

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根本はしっかりとありながらも、様々な表現を使えた方が美しくありませんか?

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 最後に、一つ全く別種の手段--それは、われわれの西洋文明がほとんど気づかずにいたもので、人間精神に無限の発見分野を提供するようなものである--が存在する。それは、精神的手段が現世の領域に組織的に適用されるものであつて、そのめざましい一例は、ガンジーの「非暴力非協力運動」(Satyagraha)である。わたくしは、これを「精神的戦闘の手段」と呼びたい。
 周知のように、Satyagrahaは「真理の力」という意味である。ガンジーは、政治的および社会的行動の道具ないし手段としての「愛の力」とか「霊の力」とか「真理の力」の価値を絶えず主張した。かれは言った、「忍耐と自発的受難、苦難を敵の肩に負わすのでなく自分の肩に引受けることによってなす真理の擁護」それこそは「強者のうちでも最強者の武器」である、と。
 私見によれば、ガンジーの理論と実践的方法は、次のようなトーマス哲学の観念と関連させ、それによって解明されるべきものである。すなわち、トーマス哲学によれば、剛毅の徳の主要な働きは、攻撃という働きではなく、確固不抜な態度で忍耐し苦難をしのぶという働きである。したがって、戦闘(最も広義での戦闘)の手段の序列としては、二つのちがった序列があることを認めるべきである。すなわち、剛毅と勇気に二つの種類、攻撃する勇気と忍耐する勇気、があるように、戦闘の手段にも、強制とか攻撃の力と忍耐の力、或るいは、苦難を他人に負わせる力と、自分に負わされた苦難を堪える力、という二つの序列がある。われわれは、人間の本性の両側面にそって別々にのびている二とおりの鍵盤を有する、--二つの鍵盤の出す音が絶えず入り混じってはいるが。すなわち、攻撃や強制によって悪に反対すること--これは、最後の場合には、相手の血を流すことになってもやむをえないとする道であると--と、受難や忍耐によって悪に反対すること--これは、最後の場合には、自分の生命を犠牲にすることになる道である--精神的戦闘の手段は、この第二の鍵盤に属するものである。
 精神的戦闘の手段とは、このようなものである。この手段、すなわち忍耐することにおける勇気に特有の手段は、剛毅の徳の主要な働きに相応するもので、かくして、ガンジーの言うように「強者のうちでも最強者」の特権である。わたくしは、かなり以前の著作の中で、この手段は、最も実行困難ではあるが、本来最も強力な手段でもある理由を説明しようと試みた。
 ガンジー自身、この手段は、東洋で用いられたように、西洋でも用いられると確信していた。ガンジーの天才的偉業は、政治活動の特殊な方法もしくは技術として忍耐と自発的受難を組織化した点にある。精神的価値に重要性を認める人々は、ガンジーの方法に従うにしても、または、なにか今後発見されるべき新しい方法によるにしても、いやおうなしに、このような線に沿った解決に導かれることであろう。このような精神的戦闘の手段は次の三種類の闘争に特に適切であろうと、わたくしは考える。第一に、他民族に支配されている民族が自己の自由を獲得しようとする闘争(ガンジー自身の場合がこれであった)。第二に、人民が国家に対するコントロールを保持または獲得しようとする闘争(これは、われわれがここで検討している問題に関係している)。第三に、キリスト教徒が、文明を実際にキリスト教的なもの、すなわち、実際に福音によって導かれているものにすることによって、それを変容させようとする闘争。 (わたくしは、ここに次のような考えを述べておきたい。すなわち、第二次世界大戦後に政界に現われたキリスト教的精神を持った諸政党が、人々からかれらに期待されたことがらについて、もっと深い自覚を有していたならば、かれらは、手段の問題のかの側面、すなわちなにかガンジーのものに類似する新しい技術の発見という問題に最初から専心したことであろう。)
    --ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、昭和37年。

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例えば、なにがしかの理念を実現させるための具体的実践が議論になると、「これしかない」という革命家的言説が登場するのが現実の世界には多いことをつくづく実感します。

ここでいう「これしかない」というのは、あらゆる選択肢を批判・吟味した上で「これしかない」という「これしかない」ではありません。

ヨリ精確に言うならば、あらゆる文化的背景や精神風土を完全に無視した上で、これを実現するには、「これより最上の策なんてないから、文化とか個人的出自的背景とかそうしたクダラナイものを踏まえずに、これでいけばイインダヨ」っていうやつです。

そうした一方的弾呵がうまく機能する場合もこれまた現実には存在しますが、割合としてみるならば、そうではないという方が実際のところ多かろう……と思うことしばしばです。

例えばキリスト教の歴史をふり返ってみるならば、ユダヤ=キリスト教文化圏以外の土壌にその信念体系が流布される場合、これまでは、まさにヨーロッパでの「流儀」をそのまま「完全に」「輸出」することに専心されたのがその歩みであります。

たしかに「かわらない」核は現実には存在しますし、それを変える必要は全くありませんし、それを当該の文化とか風習に変容させてしまうことは、そのユニークネスを失う愚挙にほかなりませんし、生みだされるのは浅薄なシンクレティズムとか、日本人の大好きなスピリチュアルに他なりません。そんなものは唾棄すべきでしょう

しかし、「かわらない」核と同時に「かわってもよい」部分も存在します。

そうした「かわってもよい」部分を、セットメニューのごとく、変化させてはならぬオリジナルと同一視してしまうところに、暴力とか不幸が発生してしまうのかもしれません。

マア現実には、被造物たる有限存在者としての人間には、その線引きの任務は至極困難なのは承知ではありますが、「これしか形はないんだよ!」と全てに対して言われてしまうと、引いてしまうのも事実です。

そうした反省をふまえ、出てきたのがキリスト教で言う「文化内開花(Inculturation)」という概念です。変わらないユニークネスとしての福音は確かに変わらない。しかし多様な地域や文化に内在化し、開花していく方向性はあるはずで、安易な混淆をさけつつ、異文化によってこそ「かわらない核」がかえって光だしていく方向があるはずだ……そうした模索が前世紀よりつづけられております。

それこそが調和の普遍性(カトリシズム)なのかもしれません。

ちょうど、講義の組み立ての関係上、ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)の著作をひもとくことが多いのですが、ガンジーそのものの著作だけでなく、様々なガンジー評を読むと同じように、「かわらないもの」を多様に理解するアプローチの手法に、唸らされることが時々ございます……これもガンジーだけに限定される話題でもございませんが。

うえに引用したのは、ネオ・トミズム(neo-thomism)を代表するフランスのカトリック思想家ジャック・マリタン(Jacques Maritain,1882-1973)の政治論からですが、なかなか味わい深く興味深い一節です。

ガンジーの偉業は偉業です。
しかしそのリアルな形態論は、様々な変奏曲があるはずです。
ガンジーの運動そのものを公民権運動にそのまま適用してもこれは成功しなかったのだろうとおもところです。おなじようにその逆も想像できます。

しかし両者の核は同じであるとすれば、この有限存在である人間の社会においては、その表現には幅があるはずで、実践事例として「このやり方しかない」ということはないはずなのでしょう。

まさに……それこそが「文化内開花」というやつです。

根本はしっかりとありながらも、様々な表現を使えた方が美しくありませんか?

……などと考えながら、夕食の残りの天ぷらで、「鳴門鯛」((株)本家松浦酒造販売・徳島県)でやっております。

四国の酒は、高知県をのぞき、比較的甘口一辺倒なのですが、この徳島の地酒、辛いくらいに辛いです。そして、味わい深い一品です。

それが、実家から送って下さったタラの目とか、ふきとか、そのあたりの春の旬彩の天ぷらなんかでやっておりますと……進むわけですが……。

箸でとりつつやっていると、莫逆の後輩から電話が一本。

公私共にいろいろとトラブルがあり、修士2年目を休学していたようなのですが、この4月より復学とのお知らせ……。

電話ですが1時間弱にわたり近況交換です。

金曜日の昼過ぎにアポイントのきまりのようにて、相互激励になりそうです。

議題が電話にて中断し、再開しましたものですので、かなり認識論的飛躍が存在しますが……それはいつものことでしょ!……ご容赦下さいまし。

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誰かを責めることが出来ません、責めるのは世界のただ中の自己自身でOKです

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このところナイーヴなヘッセ(Hermann Hesse, 1877-1962)をずんやりと読んでいる、ナイーヴでナーヴァスでチキン野郎である宇治家参去です。

ヘッセの醍醐味は、その特殊な個的なナイーヴさを、全体に関わる普遍の次元へ作品として見事に示して見せたところにあるんだよな!……そのことを“内面の書”と呼ばれる『シッダールタ』を再読しながら実感です。

これで3度目です。

3回読みましたが……原典で一度、その折りは演習の教材だったので必然で辛かったデス……、今回はこれまでくすぶっていた疑惑が今回解消したようで、チト綴っておきます。

周知の通り、いわゆる文庫本の帯書き(紹介文)なんかをひもとくと、つぎのような作品です。

すなわち……

「シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。……成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに到るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品はヘッセ芸術のひとつの頂点である」(新潮文庫版、裏表紙紹介文)。

たしかに、シッダールタという名前は、仏陀になる以前の釈尊の俗名です。
作品では、釈尊の成道前の釈尊を辿るといよりも、シッダルータという名を持つ探究者の魂の遍歴を探究するというストーリーです。

シッダルータと聞けば、成仏前の釈尊の俗名ですから、成仏前の釈尊譚にひっぱられてそれを実存として読んでしまうと極めて違和感を感じてしまいます。なにしろ登場人物のひとりとして、歴史的存在者としての仏陀が登場しますから。

そのイメージに引っ張られたママ、この作品を読んでしまいますと、すなわち仏陀の成仏するまでの遍歴におけるヘッセの真読などと読んでしまうと……喉に刺さったトラウト・サーモンの小骨のような後味を残してしまいます。

しかし、ヘッセの独白の試みは、そんなところにあったのではないのかもしれません。
今回、読んでみますとまたまた違う読後感を味わい、「ひとつこいつァ~残して置かなければならねエべ」……というわけでこだわってみました。

ちょうど……
著名なバラモンの息子としてシッダールタは将来を約束され、その任務に対しておつりが出るほど、聡明かつ他者の声にならぬ声に耳を傾けることのできる素晴らしい青年として成長したにもかかわらず、本物の真理なるものを求め遍歴し、苦行を経験する……ホォォ!と読みながら、市井の職場での休憩を楽しんでいたわけですが……いきなり苦情……ではない……けれども苦情?のような電話にて、宇治家参去の読書も中断、というわけで、現実の泥臭い・どぶ臭い・そしてそれそのものが人間の真実である現場に引き戻された次第です。

ちなみに宇治家参去はバラモンではなく在家です。

で……

取り次ぎの方から受話を代わり内容を伺うと……、
※それはかなり端折った要約になりますが……応対そのものは……ひさしぶりの30分オーヴァーというやつで……、

要は……、

「子供が親にだまって、PSPを買って帰ってきた!」

「しかも、親の財布から黙ってお金を失敬して買って帰ってきた」ようなのですが、そうした小さな子供(小学生)が高額商品を購入する際に関して、「そうした不具合を防ぐような販売上の内規は貴社にはないのか!」

……そういうところです。

購入者の子供さんが、ご両親のお財布からチト福澤諭吉大先生を失敬して、親に黙って商品を購入したわけですが、販売側はなどうして何も確認しなかったのか!……ということのようにて、

マア御社はどうなっているの?
……というわけです。

……結局しらべると、

「お父さん、お母さんからもお祝いで貰って、イイヨっていわれているからダイジョブ」などと販売履歴のようにて(現実に対面販売をした担当者の確認およびPCのログ的記述からももそうなのですが)。

現実にはこの季節にはこうした事例以外にも「リアルに許容された」事例として購入される方が多いわけですが、小中学生が、新年度のお祝い!というかたちで、ひとりで購入しにくることも結構あります。

「会社の内規」的にも「面前コミュニケーション」における最低限の確認はしているわけですが……。

こうした場合、へんな話で、若い正義感のある革命家からはそれは「ゴマカシ!」だろと釣り仕上げられ、文化大革命のごとく「自己批判」を強要されるのも承知ですが……、

そうした「どちらかが正義」というレースを、こうした場合、追求しても無益なことは承知ですし、親としても「返品できれば、OK」というのがひしひしとつたわってきておりましたので、……

「大変、もうしわけございませんが、当方も確認はしたようなのですが、お祝いでご購入とご本人様より伺いましたので、二次確認(この場合だと、親権者への購入の意の確認)を行き違いがあったようで、申し訳御座いません。御返金にはこれから参りますので……」

……ということで案件、クローズ。

ただし、宇治家参去自身としては、そのお子様も、親御様も責めたい!とか、販売した担当者……しかし担当者も内規のギリギリまで手順は踏んでいるわけで……それを責めて、ののしろうとか決して思うことが出来ませんでした。

その親御様も、マア販売者の責任は享受しようとも、家庭側の不手際?もあったりて、どっちかをせめて「鬼の首」をとるというスタンツもなく、最終的にはちょうどよいディメンションにてクローズしたのがなによりです。

たしかに、財布から大枚を盗んで購入しようとした当事者にも問題はあるわけですが、最終局面で購買判断を下したこちら側にも問題はあるわけですけれども、その応対をするなかで、なにか……どちらも批判することは「わっしにはできねえでござんす」、というのが小房の粂八@鬼平犯科帳の独白のような実況です。

これは宇治家参去の性根に由来するのかもしれません。

なにか対象を「完全なる悪」として対置できない性根とでも謂えばいいのでしょうか。
相手を相対(あいたい)して自己自身を安全圏におきたくないとでもいえばいいのでしょうか。

数時間後、当事者を連れ去り、ご両親が来店、返品処理をさせていただきました。

子の教育・躾のことを外野のざわめきとして「とやかく」「いいつらう」ことは簡単です。しかし、それをふまえたうえでの「おまえそのものは何者よ」っていう自覚と許容性がないと、共同体はギスギスしてしまうものかもしれません。

……って例の如く、支離滅裂デスヨネ。

このあたりで寝ようかと思うのですが、

ヘッセの『シッダルータ』を読む中での実況をひとつ。

実は、この“シッダルータ”は釈尊そのものではなく、自家仏乗した舎利弗とか目蓮尊者ではなかろうか……苦行も経験した、遊楽も経験した、そうしたところをふまえたうえでの「人間とは何か!」を探究した先達たち……と、思う次第です。

しかしながら、仏教思想史をふまえると、舎利弗と、目蓮尊者は、リアルな仏陀との出会いがなければ成仏はなかったわけで……おまけのようにいえば、こうした二乗は大乗仏教的な発想における。成道の師に相対しなければ二乗成仏は可能でなかったわけですが……かなり……飲んでいます。

合掌!

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 傷はなお長い間うずいた。むすこやむすめを連れた旅びとを、シッダルータはいくたりも対岸に渡してやらねばならなかった。こういう人を見るごとに、彼はうらやましくなって、「このようにたくさんの人が、幾千という人が、この上なく恵まれた幸福を持っている。--どうして自分は持たないのか。悪人でも、泥棒でも、子どもを持ち、愛し愛されている。自分だけはそうでない」と考えた。いま彼はそんな単純に、知性を持たずに考えた。それほふぉ小児人に似てしまった。
 いま彼は前とはちがった目で人間を見るようになった。前ほど賢明に、見くだすようにでなく、もっとあたたかく、もっと強い関心と同情をもって見るようになった。普通の種類の旅びと、小児人、商人、軍人、女たちを舟で渡すときも、これらの人々が昔のように無縁には思われなかった。彼は彼等を理解した。理解して、思想や見識によってではなく、ひたらすら本能や希望によって導かれている彼らの生活を共にした。そして自分を彼らと同様な人間と感じた。彼は完成に近づいており、最後の傷を忍ぶ身であったが、これらの小児人は自分の兄弟であり、彼らの虚栄や欲望やこっけいな所業も彼にとってはこっけいでなくなり、理解できるもの、愛するに値するもの、それどころか尊敬すべきものとなった。子どもに対する母の盲目的な愛、ひとりむすこに対するうぬぼれた父の愚かな盲目的な自慢、装飾や賛嘆する男の目を求める若い虚栄的な女の盲目的な激しい努力、これらすべての本能や、子どもじみた所業、単純でばかげているが度はずれて強い、強く生き、強く自己を貫徹しようとする本能や矢久保魚は、シッダールタにとって今はもはや子どもじみた所業ではなかった。そういうもののために人間が生きているのを、彼は見た。そういうもののため、はてしもないことをなし、旅に出、戦争をし、はてしもないことを悩み、はてしもないことを忍ぶのを見た。そのゆえに彼は彼らを愛することができた。彼らの煩悩のすべての中に、彼らの行為のすべての中に、彼は生命を、生きているものを、破壊しがたいものを、梵(ぼん)を見た。盲目的な誠実さ、盲目的な強さと粘りにかけて、それらの人々は愛するに値し、賛嘆するに値した。彼らには何ひとつ欠けていなかった。知者や思索家が彼らにまさっているのは、ただ一つのこと、ただ一つのごくささいな小事、すなわち、いっさいの生命の統一の意識、意識された思想にすぎなかった。そしてシッダルータはおりおり、この知識や思想がはたしてそんなにはなはだしく高く評価するに値するかどうか、それも思索人の、思索小児人の児戯ではないかどうか、疑いさえした。ほかのすべての点では、世俗の人間は賢者と同等であり、往々賢者よりはるかにすぐれていた。動物だってのっぴきならぬことを迷わず粘り強くすることにかけて、しばしば人間に立ち勝っているように見えることがあるように。
 シッダールタの心の中で、いったい知恵は何であるか、自分の長い探究の目標は何であるか、ということについての認識と知識が、徐々に花を開き、熟していった。それは、あらゆる瞬間に、生活のさなかにおいて、統一の思想を考え、統一を感じ呼吸することができるという魂の用意、能力、秘術にほかならなかった。徐々にそれが心の中で花を開き、ヴァズデーヴァの老いた童顔から反射した。すなわち、調和が、世界の永遠な完全さの認識が、微笑が、統一が。
    --ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『シッダールタ』新潮文庫、平成四年。

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哲学者というものは、第一には自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している

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 哲学者というものは、第一には自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである。それ故に、彼が哲学者であるならば、彼は、この関係の中においても、哲学者であらねばならぬであろう。私の考えるところでは、彼が、隠者として、峻厳に、他の人間から離れ去って行った場合でも、そのことによって、彼は、一つの教えを、一つの模範を、垂れているのであって、したがって、他者に対しても哲学者なのである。彼が、己れの欲するがままに、どんな振舞をしようと、そんなことはかまわない。ともかく、彼の哲学者という存在には、人間に向けられた一面があるのである。
 哲学者が製作するものは、(彼の著作に先立って、何よりもまず)彼の生活である。それこそが、彼の芸術作品である。すべて芸術作品というものは、第一には芸術家が、第二には他の人間に、向けられたものなのである。--
 哲学者が、哲学者でない人々や他の哲学者たちに対して及ぼす効果とは、どのようなものであろうか?
 国家、社会、諸々の宗教等々は、皆、問うことができる。一体哲学は、これまで、われわれに対して、何を貢献してくれたであろうか? と。哲学は、現在、われわれに対して、何を貢献してくれることができるであろうか? そのようにまた、文化も問い得る。
 哲学一般の文化に及ぼす効果如何の問題。
 文化の解釈--現在一つの旋律を演奏させている、多くの、根源的に敵対的な、諸々の力の、旋律ないし、調子としての、文化の解釈。
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)『哲学者の書 ニーチェ全集3』筑摩書房、1994年。

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短大での哲学の講義、先週はガイダンスとちょいとだけ授業をしましたが、昨日よりいよいよ本格始動で、学生さんたちの反応をみていると、手前味噌ですが、今回は前年度にくらべると反応がよいことに驚きです。

ちと、最初の構成に工夫をいれてみました。
最初に、大学の授業というものは、これまで高等学校で履修してきたような科目や学問とその性質が著しく違うことを紹介です。

旧制大学のエピソードなどで、まったく授業には出なく、ひたすら原典を読み続けたり、もくもくと実験や観察をし続けることで、その筋の大家になった、というものがありますが、そこまで極端ではないものの、受け身として、何かを「もってかえる」ことを前提としては期待してはいけないという部分でしょう(もちろん、そうした作業的科目もありますのでそれは別としますが)。

いみじくもカント(Immanuel Kant,1724-1804)が「哲学を学ぶことはできない、ひとは哲学することを学ぶだけだ」と謂ったとおり、哲学とかそういった「大文字」の学問は、おそらく、発想と思考のきっかけを与えるだけにすぎず、教室の授業は、そろばん教室のように何か学び、それを練習する場所ではないのでしょう。むしろ、そのきっかけの道場としての授業は、思考の剣豪の如き修行としての道場であり、実際は、そこから自分自身が格闘していく……例えば、実際に本を手に取ってみるとか、考えた事柄を他者と対話のなかで摺り合わせていく……ところに、その本場とか醍醐味があるのかと思います。

いうなれば教室での一コマは、きっかけを与えているだけにすぎず、そのきっかけを自分自身で探究する作業こそがひとりひとりの教室であり、そこから本物の智慧とか実践が涌現してくるのではなかろうかと思う次第です。

その意味では、「入門」とは銘打たれておりますが、「知識」としての「哲学用語」とか「概念」を持って帰ってもらうというよりも、知識や概念に耳を傾けながら、自分自身で思索を重ねる、そして重ねた思索を全き他者と向かい合わせてみる……そういうところに重点をおくようにしながら、今回も組み立てていこうかなと思っております。

さて、今回は……
哲学とは日常生活とは全く無関係なシロモノではない意味で「内在」している点、そして「内在」でずんだらべったりではなく、内在しつつ、日常生活を「超越」していく反省の視座を同時に秘めている点を導入として案内し、そのうえで、語源としての哲学の意味(知を愛し求める)、哲学のスタート地点(アリストテレスの謂う「驚きから哲学は始まる」)を紹介し、なんとか終了です。

終了後、学生さんたちに、感想やよく分からなかった点を書いてもらう、出席カードに替えているリアクションペーパーを回収すると……、手前味噌を通り超え、「自画自賛」と唾棄されそうですが……上にも書いたとおり、反応がよく驚きとともに「ひとまずの」安堵です。

バットで頭も打たれたようだった
今日初めて受けた・これから真剣に話を聞いて考えていこうと決意できた
自分の考える力を養えるように積極的に取り組んでいきたいと思う
この時間はどっぷり物事や人の中身に対して掘り下げていく、吟味することができるので本当になかなかすてきな時間だと思います

……そうした期待を裏切らない授業を今後も目指して参りたいものです。

さて、最後に、哲学的探究とは、たしかに探究の主体の問題やスタイルからすると徹底的に排他的な存在者としての自己自身の内省・反省・省察がその主体として浮上せざるを得ません。しかしながら、徹底的に排他的な存在者としての自己自身は自己自身だけではなく、おなじような他者が存在している点を、決してわすれてはならない……どのように向き合うのかには様々なスタイルやアプローチがあるにしても……。だからこそ、徹底的に探究しながらも、決して孤立した「個人」としての「自己自身」だけではないんだよ……というところを忘れないように!というフレーズでしめくくりです。

「 哲学者というものは、第一には自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである」

このことは「哲学者」だけに限られた問題ではありませんが、なにか集中してやっておりますと、どこかそういう感覚をわすれてしまうので、時折自戒・警戒する必要がありそうです。

……などと授業を終えて、そのまま市井の仕事へ突入というのが月曜日なので、一番体力的にはつらい一日です。むかしはそれでも平気でしたが、最近は、24時に仕事を終えて帰宅すると、もう何もやる気がおこらず……、飲んで終わりです。

ちなみに、昨日の収穫は……「例の武蔵野うどん」……、『いちょう庵』の「武蔵野ざるうどん」をセレクトです。日中の八王子は、25度オーヴァーで、「もう夏やん!」という状況で、「ここはチト季節的には早いけれども、“ざる”でいくか!」ということで挑戦です。れいのごとく「噛んで味わう」うどんですが、きちんと冷やしたうどんが、冷たい付け汁にからまれると、汗が一気に引いてしまうというものです。

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鳥と人間という互いに生物界で二本足を誇りあう関係はなかなか不思議な関係です

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 鳥は、人間にはできなかった進化の方向に進んだ動物です。
 鳥は、われわれから一番遠くにいるようで、人間のいわば見果てぬ夢のようなものを生物学的にみごとに実現して見せてくれた兄弟なのです。「空を飛んだトカゲ」と「道具をもったトカゲ」--この鳥と人間という互いに生物界で二本足を誇りあう関係はなかなか不思議な関係です。
    --松岡正剛『花鳥風月の科学』中公文庫、2004年。

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仕事をしていると細君からメールが1件あり、「あたらしい家族が増えました」?という意味不明のタイトルで、息子殿の弟様殿下なり妹妃殿下がr誕生する予定もありませんし未定ですから、「また金魚でも買ったのかな?」……などとナンジャラ・ホイということで、本文を開いていると、「小鳥」様の写真が送信されておりました。

金欠のこの時期にそうしたものをわざわざ飼う必要もなかろう……、とは思いながら、「お店で買ったのか?」と伺うと、「引っ越す幼稚園のオトモダチからもらった」とのことにて安堵です。

金魚を飼うときにも、小鳥様は候補にあがっていたのですが……そしてそのことを宇治家参去にはあるまじきことですがその申し出を強く主張したわけですが、衛生的に難だろう……と細君自身が却下したにも拘わらず、その心変わりようには驚く次第ですが、帰宅してみてみると、やはり小鳥もよいものです。

種類をきくと「ジュウシマツ(十姉妹・学名:Lonchura striata var. domestica)」とのことで、そういえば、昔、わが家でも祖母が「ジュウシマツ」だとか「セキセイインコ」だとか「文鳥」なんかを飼っていたよな~と思い出しましたが、これもマア息子殿が「生命とは何か」……小さな小鳥と交流する中で、学んで頂ければ幸いです。

しかし思えば不思議なもので、うえの引用文中にあるとおり、鳥も人間と同じように「生物界で二本足を誇りあう」存在なんだよな……などと盲点をつかれるわけで、それだけ、人間の先入見的自負には、我ながらあきれかえるばかりです。

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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない (2)」

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 享受〔享楽〕ということによって特徴づけることができる、対象との関係。あらゆる享受は、存在することのその仕方〔様態〕であるが、しかしまた、感覚、すなわち、光と認識でもある。対象の吸収であり、しかも、対象に対する隔たり〔距離〕。享受することには、本質的に、知が、明るさが属している。そのことによって、差し出された糧を前にした主体は、空間〔世界〕の内に、その主体にとって実存するために必要なあらゆる対象から距離をおいて、存在するのである。位相転換〔基体〕の純然たる自己同一性のうちでは、主体はそれ自身のなかで足掻(あが)いているのにひきかえ、世界のうちでは、自己への回帰ではなくして、そこには「存在するために必要なあらゆるものとの関係」があるのだ。主体は、それ自身から切り離されている。光とは、そのような可能性の条件なのである。その意味では、われわれの日常的な生はすでに、主体がそれを通して自己を実現するところの当初の質料性から解放されるそのあり方〔様態〕なのだ。それはすでに、自己の忘却ということを含んでいる。「地の塩」なる道徳(モラル)は、最初の〔最高の〕道徳である。最初の自己犠牲。最後の、ではないにしても、しかし、そこを通過しなければならないのである。
    ――E・レヴィナス(原田佳彦訳)『時間と他者』法政大学出版局、1986年。

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「われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない (2)」ということで……前日に引用したレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)のつづく文章がうえのとおりです。

対象に即して何かに向かい合うことを丁寧な表現で評示するならばそれは「享受〔享楽〕」ということなのでしょう。

すでに飲み始めており、ふかくコメンタリーができない……それはいつものことだろうという声もありますが、ひとまず措き……わけですのが、折角、昨日、享受した対象がありますので、チトupしておきます。

金曜日に大学散策をしたあと、自宅へ戻り小休止。

このまま、「キチンとしたビールを飲まないわけにはいかないだろう……」というわけで、「貴方が銭金を負担するのであれば……」ということで、「隠れ家 旬菜 ダイニング ささ花」@花小金井へ赴きました。

年頭より利用しており、このところ月に一度は利用しておりますから、まさに宇治家参去一家郎党御用達の趣を呈している「隠れ家 旬菜 ダイニング」になるわけですが、これがマア金がかかる、つまり、腹一杯やってしまうと福澤大先生がひらひらと飛んでいってしまうわけですが、その費用対効果は十分あるよな……ということで、細君および息子殿をつれてかる~く逝って参りました。

「いつも同じものを注文することが多いから、チト今回は工夫しましょう!」

……とのことで、頂いたの次の通り。

・湯葉と水菜の煮びたし
・サクッサクッ さくらえび真丈
・竹の子 ふきみそ焼き
・旬の握り盛り合わせ
・米茄子の田楽--月見焼き
・白身魚と長芋の梅しそあえ(揚げもの)

覚えて写真にとったのは以上の通りで--

息子殿は、例の如く--

「ポテト・ポテト・ポテトフライ」

……というポテトの三巻盛り?で、

細君は〆に、杏仁豆腐を、
宇治家参去は、今旬の?武蔵野饂飩(付け汁はもちろん肉葱で)をセレクトし、堪能させて頂きました。

酒は、かる~く、プレミアム生エビスを2杯、
日本酒は以下の通り。

・一の蔵(本醸造超辛口・宮城県)×1
・さ々一(純米吟醸・山梨県)×3

一の蔵は、「とりあえず」の定番としてやらせて頂きました、山梨県の純米吟醸「さ々一」はここでしか近場でやれるところがないので、鯨飲のごとく「やらせて」いただきましたです。

ポスト十四代という“ふれこみ”のフルーティな「しっかり」とした味わいですが、それはもう「ポスト○○」というよりも、対他的表現を近寄らせない自己主張のある対自的存在者なんだよな……などと自覚した次第です。

ちょうどクーポン券を先月もらっていたので2000円分うかせましたが、結局、福澤先生は旅だっていきましたが……皆大満足のようでしたし、自分も大満足でしたので、それでよしとしましょう。

……とか書きながら帰ってからビールを飲んで、また日本酒をやっておりましたが。

しかし、今回はふり返ってみますと、実に大きな発見がありました。
倫理学は身近な生活に注目しながら、その「関係」とか「あり方」というものを議論し、筋道をたてていく学問ですが、これまでの宇治家参去ですと、必ず、鶏にせよ、牛にせよ、豚にせよ、「肉」なるものを所望したハズです。

昭和の人間とはいえ、鯨の肉に対するこだわりはありませんので、あったとしても「自分自身から」注文することはないのですが、それを差し引いても、リアルな「肉」を注文しなかったことに我ながら驚きです。

こうしたひどく疲れたときには、キンキンに冷えたビールに、肉があうわけなのですが、

うえのメニューにみられるように今回は「肉抜き」……のようで、我ながら驚いております。

精神はいや益々意気軒昂に青空を見上げているのですが、食の好みはチト認識論なコペルニクス的転回を迎えているのでは……などと思うばかりです。

湯葉と水菜の煮びたし……なんかが沁みるワケなんですよね、不思議なことに。

で、本日。
四月の頭に、「KO軍団で目黒を元気にしよう!」という集い?が日曜の夕刻から開催との通知を頂いており、一月に集った第二弾ということなのですが、どうしても仕事の都合がつかず、今回は「惜しむべく」スルーです。

集いのあと、事務的なうちあわせのあと、おそらく「宴」なのでしょう……。

「宴」にまで出てしまうと……前回は、「都立大学」で飲んでいたハズなのに、気が付くと「四谷3丁目」で自己自身の存在を自覚しタクシーをひろった覚えがあるのですが……マア、そうしたとおり、前後不覚になってしまうのですが、それでもなお、逝きたいわけですが、今回は遠く武蔵野の大地より、そのご成功を心よりお祈り申しあげたい限りです。

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これが、春の彩りです。

竹の子は、たくさん食することのできぬ一品ですが、一口一口、少量を味わうと、季節の訪れを感じざるを得ません。人間として生きて、そして旬のものを味わうことのほかの醍醐味は何処にも存在しないんだよな!などと思う次第です。

また、この桜エビの真丈(しんじょ)。
駿河湾のやつですが、テーブルにだされた途端、箸をつけてもいないのに、部屋(ささ花はすべて個室)にひろがるのが海老のもつ“磯の香り”……それだけでビールがすすむというやつです。

よく漫画なんかにあるじゃないですか!

匂いだけで飯を何杯でも食える!というヤツが!

それはハッタリではありません。

で……。

息子殿の大好物?の「ポテト・ポテト・ポテトフライ」。
これで550円は安いのでは?などと思います。

しかしどうしてなのでしょうか?

子供はポテトが大好きです。

池波正太郎(1923-1990)氏も子供時代、ポテトが大好きで、「ポテ正」と渾名されたそうですが、そのエピソードを読み、子供のポテト好きには納得といいますか、了解したものです。

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米茄子の田楽は、真ん中の卵の黄身を味噌と混ぜて味わいます。
これは八丁味噌でしょうか……濃い味付が卵に中和されてよい加減です。

そしてさっぱりとした揚げ物。
白身の魚の揚げ物に、生の長芋をあしらったやつですが、揚げ身の魚が、まるで新鮮な地鶏の味わいです。

握りもなかなかすてがたいもので、季節の魚である鯛のにぎりは、ほんのりとフォアグラをのせており、潮の香りと地の香りが美しく調和するというやつです。

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〆は、杏仁豆腐と武蔵野饂飩。

いつもは深大寺蕎麦ですませることがおおいのですが、今回は、あつあつの武蔵野饂飩に、あつあつの葱肉のつけ汁……たまりません。

生きていて良かった……とはこのことなのでしょう!

Book 時間と他者 (叢書・ウニベルシタス)

著者:エマニュエル・レヴィナス
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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない

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 日常的実存のなかで、世界のなかで、主体の物質的構造は、ある程度、乗り越えられている。自我(モワ)と自己(ソワ)とのあいだに、隔たりが生じるのである。自己同一的な主体は、直接的に〔無媒介的に〕自己へと回帰するわけではない。
 ハイデガー以来、われわれは世界を道具の総体とみなすことに慣れている。世界の内に存在するとは、行動すること、それも、要するに行動がわれわれの実存そのものを目的とするようなかたちで、行動することである。諸々の道具は、最終的には実存することへのわれわれの配慮を指示するために、相互に他を指示するのである。浴室の灯りのスイッチを押すことによって、われわれは存在論的な問題を全面的に開示する。ハイデガーの目を逃れているように思われること――もっとも、こうした問題に関して、ハイデガーの目を逃れ得たものが実際に何かあるとすればの話だが――は、世界は道具の体系(システム)である以前に糧(かて)の総体である、ということである。世界の内での人間の生は、世界を満たしている対象〔オブジェ・事物〕の彼方に到ることはない。われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でのわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存――自己の外にあること――ということであり、しかも、それは対象によって限定される。

    ――E・レヴィナス(原田佳彦訳)『時間と他者』法政大学出版局、1986年。

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ハイデガー(Martin Heidegger,1889-1976)は、人間の存在(現存在,Dasein)の特異な性格を浮き彫りにするなかで、人間以外の存在を丁寧に分析しておりますが、そこで出てくるのがキー概念としての道具的存在というあり方だと思います。「~のために」「~として」対象としての事物は確かに存在しております。

アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)を引くまでもなく、すべての事物の存在根拠としての「目的因」は確かにすべての事物に、いわば、内在するのは事実なのでしょう。

だからこそ、人間という生き物は、対象を道具として取扱うことで生活を展開してきたわけで、「世界の内に存在するとは、行動すること、それも、要するに行動がわれわれの実存そのものを目的とするようなかたちで、行動することである。諸々の道具は、最終的には実存することへのわれわれの配慮を指示するために、相互に他を指示する」ように知らず知らずに自覚することなく生きているのがその実情かも知れません。

たしかに「浴室の灯りのスイッチを押すことによって、われわれは存在論的な問題を全面的に開示」していることは理解できます。

しかしながら、事物が存在するとは「道具の体系(システム)」としてだけ存在しているわけでもないのももう一面の自然なのだと思うところで……。

その存在論的な違和感がなにかここちよく、そのずれに人間の存在と事物の存在の奇妙な縁を感じる宇治家参去です。

さて……金曜日。
大学の仕事も、市井の職場も休みでしたので、大学へ行って来ました?

細君はわたしが教鞭をとっている短期大学の卒業生になるわけですが……と書くと時々「先生が生徒に手をだしたのか?」などと誤解を招く訳ですが、ソクラテス(Socrates,469.BC?-399.BC)のように弁明?するならば、勤務する以前に結婚しておりますし、教師-学生の間柄@和辻哲郎というわけではありません……ずれました。

はなしを戻します。
で……、卒業生なのですが、ちょうどゼミの先生が、本年度より学長に就任されましたので、先週、細君がお祝いの電話をしたところ、「大学の桜も綺麗に咲きほこっていますから、一度、遊びにおいでなさいな」

……というわけで、二日酔いのところ、早朝よりおこされ、「ワタクシ、今日休みなのですが……」とぼやきつつ、家族で大学へ。

八王子駅でれいの「いちょう庵」を見出しましたので、「朝食べていないのでチト……」と所望するとすぐさま却下され、そのまま、先ずは短大へ。

ゼミの先生……ちょうど大学へ賓客の訪問があり、それが終わるまでちょいと待ちながら、新装された学生食堂にて昼食をとり、しばしまっていると、ひさしぶりのご対面ということで、少々懇談し、それからキャンパスを散策です。

息子殿も何度も連れてきているのですが、学生ホールでポップコーンを買い求め、そのまま、文学の池へ向かい、鯉に餌をやるという定番コースでスタートです。

そして、山野?をかけめぐりながら、新設された門をめぐってから、本部棟へ向かい、13階のカフェテリアにて、休息。

眼下の遠望は、絶景で、疲れが吹き飛ぶというのはこのことなのでしょう。

息子殿も13階のカフェテリアが気に入ったご様子にて、

「ここで、毎日昼食をとりたい」

……とのことで、そのために、

「この大学で教師をする」

……などと決意しておりました(すこし親バカですが)。

ちなみに、「何を教えるのか?」と誰何したところ、

「あにまる」

……とのことだそうです。

理学部・獣医学部系の「動植物」に関連することか!と思ったわけですが、そうではなく、どうやら……

「アニマル・カイザー」とのことだそうです。

その強いカードの組み合わせとか、キャラクター動物の特徴を講義するとのこと。

「ん~、哲学とか神学ではなかった」のが残念です。

ただ……、散策をふり返ってみますと人間という生き物はたしかに対象としての事物を「道具」としては取り扱うことが現実には多いのですが、それだけではなく、「糧」として向き合っている側面も実はあるんだよな……などと桜の木の下で思うばかりで、理由はどうであれ、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が「花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである」と散歩を評しているような向かい合い方というのは、単なる道具的連関の「外にある」ありかたを絶妙に表現しているばかりだな……と思う次第です。

イヤサカ……ではなく、いやしかし、

疲れました。

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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でのわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存――自己の外にあること――ということであり、しかも、それは対象によって限定される。
    --レヴィナス、前掲書。

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で……、きわめて、蛇足。

以下のフォトもおまけまでに。

本部棟13Fのカフェテリアからの眺望。

バス停でバスをまっていると、陽気にさそわれ、蜥蜴の登場。

家までビールを我慢した偉い子・宇治家参去。
このあと、飲みに出かけたので、出かける前に「お試しに!」ということでノンアルコール・ビールにチャンレジ……すげぇぇ、不味かった。

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著者:エマニュエル・レヴィナス
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「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」

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 友情とは何か。ギリシア人は友情を表わすために<<フィリア>>という言葉を使う。この概念は何と多くの次元にまで広がっていることだろうか。この概念は、人間的な共生の全形態を包摂している。取り引き上の信頼関係も戦場における友情も、そして労働における共同作業も、結婚や社会的な集団形成や政治的党派形成から生ずる様々な生活形態も、要するに人間的な共同生活全体がこの概念に包摂されている。われわれが今日でもなお政治的な友情とか、党派的な友情と読んでいるものは、この古いギリシア的な全体概念の最後の残響なのである。友情の本質には、ピタゴラス学派の古い言葉が述べるように、<<友人たちはすべてを共有する(koina ta ton philon)>>ということが属する。したがって友情は連帯感に根拠を置いている。友情という言葉の語感に惑わされて、消え去って久しい過去の生き生きとした生活状態の美しさがここで呼び覚まされているのだなどと考えないでいただきたい。真相はその反対である。人間の共同生活は、有効な連帯感という基盤以外のいかなる基盤のうえにも打ち建てられえないであろう。だから、あらゆる連帯感の喪失は孤独化の苦しみを意味するし、逆にいえば、連帯感は、ギリシア人が自分自身との友情と名付けたものを常にすでに前提している。このギリシア的友情は、すでに上で明らかにしたように、<孤独の高い評価を生み出し一人でいることができることを可能にしているもの>なのである。たしかに孤独という言葉には、無機的に働く文明のメカニズムを拒絶して、人間的な悪癖をまったく知らない自然に共鳴するという[友情とは]別の響きが込められているのであって、これこそが、ルソーが孤独という言葉に与えた響きであった。けれどもギリシア人たちが友情と呼んだもの--そして彼らはまさしく自分自身との友情という言い方すらするのだが--は、依然としてひとつの深い真理をもち続けているのである。プラトンは、自分のユートピア的国家構想の全体を、国家は[個人の]魂の大規模な模写であるという思想の上に基礎づけた。国家の成員を三つの固定した階層に区分したり、知的洞察によって全体の命運を導く国家管理者層を設定したりすることによってプラトンは、奇妙な国家機構を論述したのだが、それは、人間の魂が何でありまた何でありうるかを解明しようとしたためである。内的な不和を排除し国家の全成員を統一して団結した活動力を生み出すような国家構制というプラトンの理念は、人間の魂も自己分裂を含んでいるにもかかわらず内なるあらゆる葛藤や欲動の緊張を支配することができるし、自らを一なるものへと統一することができるということを、映しだしているのである。人間の内的構成と人間の社会的能力は、根本においてひとつである。したがって自分自身の友である人だけが、共同敵なものに適合できるのである。
 語の狭い精神病理学的意味における非社交的な人の症例がどんなものかわれわれは知っている。この患者の特色をなしているのは紛れもなく、自分自身との親密さや共同生活、つまり自分自身との一致が抜け落ちたり破壊されたりしていることである。したがってこの場合、友情はひとつの人間的根本構成であることになる。私はこの根本構成をヘーゲルとともに「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」と呼びたい。若者たちが老人の<自分への馴れ合い(ジイツヒ・アインハウゼン)>に反旗を翻すことは、今に始まったことではない。われわれが若かった頃も、似たようなものだった。市民生活において余りにも早く自分と馴染む(ジイツヒ・アインハウゼン)ことは、われわれには、自由と理想主義の喪失のように見えた。けれども、自分自身との友情は、安定した生活において自分と馴染む(ジイツヒ・アインハウゼン)そのような外面的な形式とは結びついてはいない。むしろこの友情は、順応主義を拒否するわれわれがその当の順応主義に屈服することなしに今日でも獲得することができる自由の経験の根底に存在するものなのである。人間が労働の中に見出すことができる各人固有の意味に注意していただきたい。われわれが現代文明の強制的性格とますます高まる抑圧とを感じるときでも、労働やそれとともに形成される自分固有の能力の意識は、自由の一種神秘的なあり方を意味する。いやそれどころか、この能力の意識こそがわれわれの世界のあらゆる強制にもかかわらず安全に保持されている自由の唯一の形式なのだと思う。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(須田朗訳)「自己疎外の徴候としての孤独化」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年。

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ちょうど、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)の著作を紐解いていると看過できぬ一文とくだらぬ閃きがほとばしりましたのでひとつ。

アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)は、『ニコマコス倫理学』のなかで、正義(ικαιοσύνη)とは何か、そしてその必要性に言及する中で、最後に一つぽつりと言葉を発しております。

すなわち次の通りです。

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事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』岩波文庫、1973年。

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人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ないとの言葉であります。倫理とは、私自身とは何か、そして私は全体のなかではどのようにしておいたほうがいいのか……そのへんを問うわけです。

だからこそ当然「正義」が問題になってきます。
しかし、その局面において、つまり、その個と公共空間の関係において、正義よりも友愛を選択したアリストテレスには、おどろくばかりで、近代以降の倫理学において「友愛の感覚」がほとんど顧みられなくなった事実はすこし淋しいもんだよなとおもったことがあります。

うえのガダマーの文章では、この友愛としてのフィリア、「友情」と訳されておりますが、ひろくは、同じ意味合いとしての友愛、友情としてとらえてよいでしょう。

ガダマー自身は倫理学者ではありませんし、いうまでもなく道学者でもありません。テクスト解釈の技術と可能性を論じた哲学的解釈学者でありますが、その彼からこうした「フィリア」の感覚に言及があることにおどろくとともに、これも通俗的な表現ですが、ガダマーの「人間の人間らしさ」(=人間くささ)を実感してしまいます。

ちなみにガダマーは久し振りの?百歳オーヴァーの哲学者ですが、若き日のイタリア旅行以来、ネスレ(Nestlé)の製造する「ネスカフェ(Nescafé)」のコーヒーにはまってしまい、生涯愛飲したことで知られておりますが、そのエピソードも大好きです。

話がずれました……。

で……。

注目したいのは、ガダマーがフィリアに言及したことよりも、そのフィリアの扱い方においてです。

アリストテレスは上述したとおり、個と個の関係における相互概念としての「フィリア」について言及しているわけですが実はそれは個と個の関係におけるスフィアに限定される問題ではないというところです。

その神髄をまさにガダマーが「解釈」するところによれば……そしてそれがギリシア的エトスの伝統になるわけですが……それは対他関係だけなく、対自関係においても発動するというところです。

すなわち……キーワードを引っ張るならば次の通りです。

「人間の共同生活は、有効な連帯感という基盤以外のいかなる基盤のうえにも打ち建てられえないであろう。だから、あらゆる連帯感の喪失は孤独化の苦しみを意味するし、逆にいえば、連帯感は、ギリシア人が自分自身との友情と名付けたものを常にすでに前提している。このギリシア的友情は、すでに上で明らかにしたように、<孤独の高い評価を生み出し一人でいることができることを可能にしているもの>なのである。たしかに孤独という言葉には、無機的に働く文明のメカニズムを拒絶して、人間的な悪癖をまったく知らない自然に共鳴するという[友情とは]別の響きが込められているのであって、これこそが、ルソーが孤独という言葉に与えた響きであった。けれどもギリシア人たちが友情と呼んだもの--そして彼らはまさしく自分自身との友情という言い方すらするのだが--は、依然としてひとつの深い真理をもち続けているのである」。

「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」

はあ、なるほど!

……というわけで、フィリアの問題とは対他関係でなく、対自関係をも射程にひめているというわけです。

まさに倫理学が「人間とは何か」と問うわけですが、それは「自分とは何か」という自分と自分自身の関係をフィリアというキーワードで内実を問い、そのあり方をたゆまず吟味せよ……そのことをマア、ウマク表現しているわナ……などと思う次第です。

「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」とは「馴れ合い」とか「妥協」を許さない俊敏な瞬時瞬時の関係性なのかもしれません。

このあたり、チト追求する必要がありそうです。

……が、このママ追求してしまうと、休日の本日が無駄になってしまうので、このあたりで永眠したほうがよさそうです。

今日は家族で花見?……といっても、宇治家参去の勤務する大学の桜が見事ですので、子供も幼稚園が休みなので一緒に行くか!と私がふったのではなく、「一緒に行け」と訓辞の発令がありましたものですので、早起きが要求されているようです。

まったく!……と思わず、フィリアの練習とさせていただきます。

ただ、花見といえば、自分的には「酒」だよなと短絡的想起しかなく、その貧しい発想に辟易とするわけですが、「アルコール0.00%で、飲酒運転のない世界へ」をキャッチコピーにしたノン・アルコール・ビール「KIRIN FREE」が出ましたものですから、チト試してみようかなア……ですが、やはりそんなものを神聖なキャンパスに持ち込むと「ボコボコ」にされてしまうよなア……だけどチャレンジ精神も大切だよなア……悩みで眠れなくなってしまいましたデス。

しかし……くどいのを!

一緒に購入した新製品「The STRAIGHT」(サントリー)は、あまり「ぐっと」こず、これなら無難に「金麦」のようが旨いよな……などと思うわけで。

しかし……くどいのを!!

日中の桜吹雪は「美しかった」です。
写真ではあまりウマク取れませんでしたが……。

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Book 理論を讃えて (叢書・ウニベルシタス)

著者:ハンス・ゲオルク ガダマー
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宗教的人間であるということは、引き裂かれた人間、調和を失った人間、平和を持たない人間であるということである

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 二一-二二節 結果。そこで、善を行おうと望んでいながら、わたしに悪が入り込んでいるというところに、立法がその現実性を持つのをわたしは見る。というのは、わたしは内なる人間としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体の中には別の律法があって、わたしの理性の律法に対して戦いをいどみ、わたしの肢体の中にある罪の律法の下にわたしをとりこにしているからである。

 「そこで、善を行なおうと望んでいながら、わたしに悪が入り込んでいるというところに、律法がその現実性を持つのを私は見る」。宗教的人間であるということは、引き裂かれた人間、調和を失った人間、平和を持たない人間であるということである。自己自身と同一でありうるのは、ただ神と自分が一致しているのかという大問題にまだ目覚めていない者だけであろう。われわれはすべて、われわれが自分自身と同一ではないということを、またそれと共に、われわれがどれほど深く神によって動揺だせられているかを、われわれの行為と態度の全体に、おいて、十分明瞭に明らかにする。必要があれば、単純な心の動きから、そのことを否認できる人たちは幸いである。もっと永く、あの問いに目覚めないように用心することにかれらが成功するように! 宗教の現実は、わたしが望んでいながら実行せず、実行しながら望んでいないことに対して、わたしの自我、これらのすべての述語の主語が、全く疑わしいものになる、生きることも死ぬこともできないXになることにある。わたしは律法によって神を認識するのであるが、その律法によって、わたしは「善を行なおう」と望んでいるのである。そしてわたしは律法によって神に知られているのであるが、その律法によって「わたしに悪が入り込んでいる」のである。わたしにとって最高の可能性が最高の困惑となり、最高の約束が最高の危急となり、最高の賜物が最高の脅威となる。シュライアーマッハーがかれの『宗教論』を書きあげた日に、「生みの親としての喜びに満たされると共に師への恐怖に襲われて」、「わたしが今夜死ぬとすれば、それは残念である」と考えることができたと信じられるだろうか。宗教について--あれほど印象深く、美しく語った後に、あたかも死がないか非常に身近にあるものではないかのよう! 悪意のない、お根本的には心からただ安らぎを求めているだけの人間に、何かただ耐えられるだけのものでなく、歓迎に値するもの、興味あるもの、豊かにしてくれるものとして、宗教を勧めることができると信じられるのだろうか。すべての文化と非文化の固有の内的問題性と誠実にまさに十分に取り組んでいる人たちに、価値ある文化の補完として、あるいはまた文化の代替品として、宗教を押しつけることができると信じられるだろうか。
    --カール・バルト(小川圭治・岩波哲男訳)『ローマ書講解』平凡社、2001年。

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ひさしぶりにゆっくり?できたので、午前中は、「神の言葉の神学」で有名な20世紀を代表するプロテスタント神学者カール・バルト(Karl Barth,1886-1968)の著作をひもとく。

個人的・主観的モチベーションによれば、宇治家参去個人としてカトリシズムに親近感を覚えるわけですが、それでも、やはり、カール・バルトの言説は避けては通れぬ翠点をなしておりますので、修士の頃から読んでおりますが、依然として難解です。

主著である『教会教義学』は半分まで読んで挫折しましたが、それでも論評、説教のたぐいは時々、ひもといており、最近、もう一度読んでおかないと……と決意して読んでいるのがバルトの出発点となる『ローマ書講解』であります。

バルトは、フリードリッヒ・シュライエルマッハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher,1768-1834)に始まる「神学の人間学化」(文化プロテスタント主義)に大きな危惧を抱いた人物です。

キリスト教という歴史的な制度宗教が、学の対象として一般論化されてしまう、そして文化として宗教が論じられてしまうなかで、その特殊個別性である救い・信仰が矮小化されてしまうことに対して猛烈な攻撃を仕掛け、神学の本来のテーマを回復しようと牧会と研究の両者の往復関係のなかから厖大な著作を著し、なによりも「言における神の啓示」を大切にしたことでしられております。

……そう聞くと、なにやら、調和を乱す宗教右翼か!などと一瞥されてしまいそうですがそうではありません。自己自身の信仰を丁寧に集中し、その特殊性を踏まえたうえでなければ、対他的な問題にはあたれないでしょうというのがバルトの主張であり、(一般論的な)宗教の「廃棄」としてのキリスト教として、他の存在を否定したのではなく、もっとも果敢に、現存するキリスト教のあり方に手厳しかったのがその実です。

その意味では、自己自身に対して律儀な神学と評価することも可能でしょう。

そして余談ながら、バルトはスイス生まれですが、ナチズムが、キリスト教を民族宗教に矮小化し、民族精神鼓舞のために利用しようとした際(ドイツ・キリスト者運動)、それにもっとも手厳しく批判したのがとうのバルトです。

政治が宗教を利用することほど宗教の矮小化を招く事例はありません。
その当該宗教のもつ独自性・特殊性(そしてそこから突き抜けていく普遍性を含む)を徹底的に破壊するのがその暴挙であり、それこそがバルトがいう「神学の人間学化」なのでしょう。

コトバとしては「人間学」化ですが、その暴挙は、この世の可変的なものを絶対的なものとして受け入れさせようとしてしまう圧倒的な暴力であり、「人間学」化と謳ってはいるものの、その実は、“エセ”「人間学」化なのかもしれません。

……などとぼんやり考えながら、桜の季節が過ぎ行くのを惜しみつつ合掌というかんじです。

さて話は変わりますが、東洋人の通俗的なキリスト教感覚のひとつに、キリスト教とは善悪を厳粛に峻別する宗教という宗教観があるかと思います。そしてそれに関して踏み込んで言うならば、その善悪の存在を対他的に対峙させるのがキリスト教だろうというものの見方が存在します。

しかし果たしてそうなのでしょうか?

「福音と律法」の問題を徹底的に追求したバルトなんかを読んでいるとそのようではないようです。

善の問題も悪の問題も生きている人間に、“根っから”内在する問題であるとの見解のように覚え、だからこそ、信仰なり、律法なりが必然的に要請されるのだろう……マアこれも通俗的解釈のひとつですが……そう思えて他なりません。

だからこそなのでしょうか……。
面白いことに、第2バチカン公会議を主催した教皇ヨハネ二十三世(Papa Giovanni XXIII,1881-1963)は、バルトを評して「今世紀最大のプロテスタントの神学者」と言ったそうですが、最近ではバルトの人気はめっくり低くなりました。

ただしかし、バルトの言説には流行にとらわれない力強さと誠実さがあるように思えて他なりません。

……ということで、散りゆく桜を肴に、今日は「純米吟醸 上善如水」(白瀧酒造/新潟県)で完敗(乾杯)です。

キャッチコピーには「ミズノ ヨウニ イキルノサ」とありますが、二元論とか通俗的な理解をさけつつ、かく生きていきたいものです。

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「一本うどんが大好きな浪人さん」ではありませんが……

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 (どうも、おかしいな……?)
 〔鶴や〕を出て、小名木川沿いの道を万年橋の南詰から左へ曲がったときに、忠吾は、
 (おれを、だれかが尾(つ)けている……)
 と、おもった。
 そこは忠吾も、盗賊改方の同心であった。いうにいわれぬ勘がはたらき、どうも、すこし前から、うしろを歩いて来る何者かに尾行されているような感じがしたのだ。
 忠吾は、曲がり角の小笠原家・下屋敷の土塀に身を寄せ、いま来た道をうかがって見た。通行の人びとは多いが、それらしい者の姿はなかった。
 (おれの気の所為(せい)かな……?)
 それから忠吾は、そのことをすっぱりと忘れてしまい、深川の諸方を見廻ったのち、蛤町にある名刹・永寿山海福寺の門前へさしかかった。
 日は傾いていたし、かなり歩きもした。腹も空(す)いていたし、こうしたときに海福寺門前へさしかかったので、どうしても忠吾は、素通りはできない。
 というのも、門前の豊島屋という茶店で出している一本饂飩が、忠吾の大好物なのだ。その名のごとく、五寸四方の蒸籠(せいろう)ふうの入れ物へ親指ほどの太さの一本うどんがとぐろを巻いて盛られたやつを、柚子や摺胡麻、葱などの薬味をあしらった濃目の汁(つゆ)で食べるのである。
 すでに顔なじみの木村忠吾が入って行くと、顔見知りの、年増の女中が、
 「いま、空いておりますから……」
 と、海福寺の前庭が垣根ごしに見える奧の小座敷へ入れてくれた。
 豊島屋では忠吾のことを「一本うどんが大好きな浪人さん」と、見ている。
    --池波正太郎「男色一本饂飩」、『鬼平犯科帳 11』文春文庫、2000年。

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短大での講義の前は、たいてい時間が「せっぱ詰まっている」ことが多いので、駅蕎麦なんかでお茶を濁すことが多いのですが、いつも利用するJR八王子駅構内の「小竹林」……、江戸前風のさっぱりとした蕎麦が、この手の蕎麦屋のなかでは群を抜いて「ウマイ」といつも実感しておりましたので、比較的よく利用していたわけですが、大学の入学式に参加する前……

「何も食べていないし……」(※)
(※)朝はほとんど食べることがなく、大体、珈琲2杯で終了がほとんど。

……ということで、覗いてみると、

「工事中!」

しかたなく、駅から出て、京王プラザホテルの1Fに入っている「スターバックス」にて、マフィンとコーヒーで済ませた次第です。

で……。
月曜日。

駅を降りてから、例の如く、

「何も食べていないし……、大学へ到着してから授業をやる前に食べる時間もないし、直前にたべると眠くなるし、……時間の間合いはちょうど良い頃合いだよな!」

……ということで、向かうと、店がかわっておりました。

「いちょう庵」!

「武蔵野うどん」がうりのようで……吸い寄せられるように店内へ。

宇治家参去は、蕎麦、うどんの両刀遣いです。

ただし……
「○○うどん」でなければ「うどん」ではない!
「○○そば」でなければ「そば」ではない!

……という狭い了見は持ち合わせておりません。

それはエスノセントリズム(ethnocentrism)の言説にほかならず、○○うどん、▲▲うどん、××蕎麦、■■蕎麦の個性を破壊してしまう暴挙にほかならないと自覚しております。

ですから、

「水沢うどんでなければ、うどんじゃねエ」とも「真田蕎麦でなければ、蕎麦にあらず」と啖呵をきらず、だいたいにおいて……

「これはこれで旨いんだよな」

……そう思うことが殆どです。

ただし、これは味音痴にはあらず。

言うまでもなく、水沢うどんと銘打たれておっても、そのなかで、旨い・マズイというのがあり、稲庭うどんにおいても同様です。ようは、そのカテゴリーのなかで、どれが丁寧につくられているのかというのが問題であって、「○○蕎麦でなければ蕎麦にあらず」という言説は、カテゴリーの掛け間違えにほかならない……そう思う次第です。

エスノセントリズムの言説競争もおそらく、それはルサンチマンを体よく押し伏せたカテゴリーの掛け間違えに端を欲するのでありましょう。

さて……。

「武蔵野うどん」です。

東京都下で郷土料理として供されるのがそれですが、今から10数年前に始めた口にしたとき、その食感にたまげたものです。

讃岐うどんはコシが強いといわれますが、のどで味わううどんです。
その数倍上のコシの強さを誇るのが武蔵野うどんで、とてもとても「のどですすって」味わうというよりも、口の中で「格闘」して味わうと表現した方がふさわしいうどんですが、その野趣あふれる力強さと圧倒的な味わいには脱帽したものでございます。

粉は地産の小麦で、稲庭とか讃岐にくらべるとまったく「まっしろ」ではない麺、そして、一本一本が田舎蕎麦のごとくぶっとく、まさに「食べる」というのが武蔵野うどんの醍醐味で、かけ麺ではなく、もり蕎麦のような具合のつけ麺で、工夫のされたつけ汁に浸してたべるのがなんともいえません。

自宅の近くにも専門店があるので時々訪れるわけですが、こんなところでお目にかかろうとは……。

さて……。
その日は、「定番」と銘打たれた「肉ねぎ汁うどん」(580円)をセレクト。
いわゆる「駅蕎麦」の類ですから、すぐ出てくるよな……とまっていると甘かったです。1~2分は少なくともまたされてからだされたのが、笊にもられた饂飩様と、昆布と鰹節のほどよく効いた濃い目の汁!

「さあ! 闘うぞ!」

……ということで、人肌の温かさの饂飩をつけ汁につっこみ、口の中へ運びますと、マアそこはパラダイスというわけで。

つけ汁は「肉ねぎ」で、豚肉と葱をほどよく煮込んだ濃い目の汁で、この深みのあるコクのある味わいがなんともいえません。

漆黒ないし漆茶の濃い目の汁の色合いが、豚と葱を刺激し、それと一緒に、この太い武蔵野うどんを一緒に口へ運ぶと、「ので味わう」わけにはいきませんが、絶妙なハーモニーというやつで……。

堪能させていただきました。

どこにでもある「駅蕎麦」よりもちょい値ははります。
しかし、武蔵野うどんを手軽に格闘させてくれるにはちょうどいい値段です。

ことしはひとつ、全レパートリーの制覇をひとつ、目標に、早起きして大学へ行こうかと決意新たにした宇治家参去です。

で……。

武蔵野うどんを食べるたびに思い浮かべるのが海福寺門前の「豊島屋」の名物「一本饂飩」です。

うどんの色彩までは表現されておりませんが、太めの麺といい、濃い目のつけ汁といい、これも武蔵野うどんのひとつなのかもしれません。

火付盗賊改方のひょうきんな同心・木村忠吾は、このあと、男色の盗賊に「拐かされて」しまいますが、そうした懸念・不安を「すっぱりと忘れて」しまわせる醍醐味がその味わいにはあるのかもしれません。

ちなみに「いちょう庵」の饂飩、「親指ほどの太さ」はありませんが、むっちりした「小指ほどの太さ」はあり、充分その雰囲気は堪能できるかと思います。

お近くにお立ち寄りの際は、是非。

いつも、食べ物の話でスイマセン。
ただ、人間は仙人のように「霞を食」っていきていくことはできませんし、このような衣食住の問題は倫理学の問題としては、きわめて重要な問題であるがゆえに、こうして学の対象?になるわけです。

まさに「衣食足りて礼節を知る」とはこのことでございます。

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まだ生きている人間にとっては、生きている人間として行動をなし続ける以外の策はない

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……まだ生きている人間にとっては、生きている人間として行動をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ。死ぬのはひとりだが、生きるのは他人と共にであり、われわれとは他人がわれわれについて作り上げるイメージであり、彼らがいるそのところにわれわれもまたいるのである。
    --M.メルロ=ポンティ(海老坂武訳)「英雄、人間」、滝浦静雄ほか訳『意味と無意味』みすず書房、1983年。

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「哲学」半期15回授業の初日がようやくスタートです。
初回はガイダンスということですので、講義の概要・全体の見通し、成績の評価方法やレポートなど講座のフレームワークの解説で終わらせることができるのですが、やっぱりちょいと授業やっておこう!ということで、20分ばかり序の序を講義してきました。

今年でちょうど7周目に入りましたが--その間、教養関係の講座数が短大でも縮小傾向にあるのですが、その意味ではよく“生き残ったな!”という実感ですが--これだけ積み上げていきますと、どうしても最初の時よりも、内容が積み重ねられていき、補足の補足や修正や追加が多くなってしまい、とてもとても規定の回数ではこなせなくなってしまいますので、少しでも、最初からやっておこう--ということで、授業の内容にはいる前の準備運動……ということで、教材を開かせる前に、自分自身のもっている「哲学」に対するイメージを確認させました。

やはり……

固い、難しい……というイメージが大半ですが、それでも、「固い、難しい」からこそなのでしょう……「それでも、なんか大切な気がしなくもない」という+α(それが何かは指示できないとしても)があるようで……ひとつ安堵。

現状ではそれを指示することのできない+αを明確にし、ひとりひとりの哲学“性”を薫育していくのが、今後の講義のキーポイントになってくるのだろうと思います。

たった15回ですが、履修された皆様、どうぞ宜しくお願いします。

昨年に引き続き、シラバスの内容に記された文面の「裏課題?」として本年も引き続き「人間とは何か」をひとつの課題にしております。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)は哲学を定義して次のように語っております。

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 理性の一切の関心(思弁的および実践的関心)はすべて次の三問に纏められる、
1 私は何を知り得るか
2 私は何をなすべきか
3 私は何を希望することが許されるか
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』岩波文庫、1962年。

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この3つの問いとは、認識・実践・信仰に関わる議論ですが、哲学とは何かと纏めて言うならば、それはつまり「人間とは何か」という探究なのでしょう。

己の限界をはっきり見定めたい。
そのことによって、無限の成長もあるからでしょう。

ともすれば、独我論に陥りがちなのが哲学の議論ですが、徹底的な個々人の探究は深めながらも、独我論をさけつつ、他者に開かれた議論の展開を心がけていきたいものです。

ともすれば、「人間なんてケ・セラ、セラ」という風潮がいやまして強い昨今ですが、だからこそ、あらためて徹底的に「人間とは何か」を真面目に探究していかないかぎり、議論を唾棄するにせよ、進展させるにせよ、自己自身の「立ち位置」を見定めることはできないのだろうと思います。

生きている自分自身を参考にしながら、そして共にいきている隣人と対話を重ねながら歩んでいくほかありません。

そのことによって、哲学が手垢にまみれた通俗的な人生訓とか処世術に陥ることをさけつつ、かびくさい繙かれることのない古書のなかの活字にとどまることを避けることが出来るのかも知れません。

なぜなら、「まだ生きている人間にとっては、生きている人間として行動をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ」からなのでしょう。

大学の桜……一斉に花びらをひらきはじめました。
今週末ぐらいまで見頃だと思います。

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「人間とは器具に奉仕される知性なり」

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 十九世紀は道具の時代である。そして道具は私たちの身体から発展したものである。「人間は万物の尺度である」とアリストテレスは言った。「手は道具のなかの道具であり、人間精神は形相のなかの形相である。」人間の身体は発明の倉庫であって、特許局であって、そこには、あらゆるヒントをひきだせるおびただしい模型がおさめてあるのだ。この地上のあらゆる道具と機械は、人間の四肢と感覚の延長にほかならない。人間に関する定義の一つに、「人間とは器具に奉仕される知性なり」というのがある。機械は人間の肉眼を助け得るだけであって、その代わりをつとめることはできない。人間の肉体は一つの尺度である。人間の目はフート尺(ざし)にしがみついているが、老練な職人は、自分の親指と腕をつかって、同じくらい正確にものを測ることができる。すぐれた測量師は、十六ロッドの距離を、ただ歩くだけで、他の人間が巻尺で測るよりも正確に測ることができる。インディアンや石投げの名人が、目と手の感応によって意志を的に当てたり、木こりや大工が、丸太の上に細くひいた線に斧をうちこんだりするのも、この例である。およそどんな感覚でも器官でも、かならず、微妙な働きをなしうるものである。
    --エマソン(小泉一郎訳)「仕事と日々」、『エマソン選集3 生活について』日本教文社、昭和36年。

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19世紀に限らず、人間の歩みと切っても切り離すことができないのが道具という事物の存在なのでしょう。

哲学者ベルクソン(Henri-Louis Bergson,1859-1941)」は、人間とは「Homo feber(ホモ・ファーベル;工作する人)と表現しましたが、道具を使うだけでなく、器官をも駆使しながら、なにかを創造してゆかんとする人間のバイタリティには驚くばかりです。

さて……。

買っちゃいました。

ウワサのVaio type-P。

ときどきやっちゃうんです。

必要もない?(ことはない)のに、新しいガジェットを見てしまうと、どうも、元来の浪費癖に火がついてしまうようで、がんばれば手に入れることができる!という状況であると、「改めて購入する必要がないのでは……?」などと冷静な理性的判断が可能であるにもかかわらず、手が伸びしてしまう宇治家参去です。

自宅では、HPのワークステーションにvista(64bit)をぶっこんで使っております。メモリも4Gオーヴァーですので、大抵のことはこれですませており、電源を落とすこともほとんどありません。

出張用に使用しているのは一年弱前に購入したLenobo(旧IBM)のThinkPad X61というマシンで、Core2Duoでメモリも3Gぶちこんでいますので、出先でも大抵の仕事は問題ありません。ただ使うのは出張のときだけで、自宅で開くことはほとんどありません。

ですから……別に新しいPCを新調する必要は全くないのが、わが家の現実です。

で……。
EeePCに始まる、昨年来よりブームの到来したネットブック(UMPC)の類。
やはり、みていると……

「現実に、出張なんかで、わざわざ重いVistaを使う必要もないよな。ネットに接続できて、パワーポイントが使えれば問題ないし……Xpで充分だよな」

……ということで、早速、AcerのAspireOneというのを昨年購入してみましたが、たしかに「出先でネットに繋いで、オフィスの編集をしたり、DVDを見たり、パワーポイントを使う」ぐらいは全く問題ありませんでした。

3倍の価格のするThinkPad X61の方が体感的には「モッサリ」です。
Vistaゆえ、32Bitのメモリ認識上限を突っ込んでも、なんかな~という感じでしたが、AspireOneの場合、Xpだけれども……現実には割りきって使えば、「全く問題なし!」ということを体感しました。

実際にも、昨年後半の出張では大活躍で、ネットブックより200gくらい、ちょい重いThinkPadは自宅の片隅に追いやられ、息子殿のYoutubeマシンと化してしまいました。

ただ……、全く問題ないことは「ありがたい」わけですが……

何かがものたりません。

いわば、持つ喜び……とでもいえばいいのでしょうか……確かに相手は道具ですから、「使えれば問題ありません」。

しかし、「面白くない」んですよね。

人間とは確かに「工作人」であり、「道具を使う生き物」です。
しかし、それだけに収まりきらない射程を秘めているのが「人間」という“生き物”であり、遊ぶ人であり、寝る人であり、衝動買いをしてしまう存在です。

そんな矢先、念頭に発表された、600数グラムのSonyのType-P。

SonyのPCにはこれまでも何度も痛い目を喰らわされており、「真面目にハードに仕事に使うなら(旧)IBMに限る!」という揺るぎない信念を保持しているにもかかわらず、触手が動いてしまいました。

最初はSonyStyleで、HDDではなくSSD搭載の、CPUもワンランク上のカスタマイズモデル(VGN-P90)にしようかとBTOで見積もったところ……どんどん積み重ねていくと軽く10万円をオーヴァーしてしまい、「これでは、割りきって使うマシンとしてはコスト高過ぎ!」という難点にひっかかるとともに、出荷まで半月以上もかかるので、ちと悩んでおりました。

どのみち、息子殿に奪われたThinkPadも、次期OS・windows7発売時位に、出先でも「割りきらずにがんがん使える!」ハードモバイルに買い換えだよな!とおもっておりますので、「割りきりマシン」に10万円なんてとても出せません。

悩むこと数ヶ月?の煩悶です。

で……。
いわゆる店頭モデル……いわば最小構成スタイルでワンセグなんかのついた一般ウケ用もモデルですが、この値段がこなれてきましたので……、一昨日、即買いというヤツで……、自分の浪費癖に「辟易」とはするものですけれども、また「Sony」に裏切られる?のも承知のうえで、とうとう買っちまいました(VGN-P70)。

これだから人間は不思議?です。

HDDモデルでVistaBasic搭載PCですが、初期状態で使用すると「きわめてモッサリ」。

まず、使わない機能やらソフトやらの機能をそぎ落とし、マア、なんとか実用レベルまでカスタマイズし、起動にはどうしても時間はかかりますが、立ち上がってしまえば、「割りきって使えるレベル」までには仕立て直すことができました。

Xpをぶち込むことも考えておりますが、当分はとりあえずVistaで流してみようかと思います。

液晶はおどろくほど綺麗で、何よりも軽い!
そして、一番の利点はキータッチの良さです。

この記事もType-Pで書いておりますが、今年の出先でのPC利用にはどうやら活躍してくれそうです。

しかし、何台もPCは必要ないので、AspireOneと、これまた全く使っていなかった、SharpのD4(ウィルコム端末・Atom搭載のVistaHomePremiumu)も売却、とりあえず、今年の地方スクーリングでは、X61かType-Pの構成で楽しめそうです。

出張の際は、一応……念のため、2台持参します。

X61+AspireOneよりも、X61+Type-Pの方が数百グラムほど軽いので、今年は軽装で何よりです。

で……。

ヘロヘロになって帰宅すると新しい特選・地酒の登場です!

ワタクシの細君、月に一度、地酒専門店へ出かける必然的な要件があり、その折り、地酒を買って来てくれます。その店の2Fが地酒バーになっているのでいずれ、宇治家参去自身が市中巡回する必要があるのですが、こういう不用意な出費が多く、なかなかいけないのですが、月の一度の銘酒のプレゼントはありがたいものです。

細君も酒はまったくワカラナイ人間ですが、店主にすすめられるままに、今回は静岡県の銘酒を一品!。
※ちなみに、ここで勧められた地酒ではずれがこれまで全くなし!

生貯蔵酒の大吟醸(大吟醸も久し振りだよな~!)で、「正雪 無量寿」(株式会社 神沢川酒造場・静岡県)。

はじめて口にする酒ですが、ひとくち口にゆっくりと含むと、鮮烈な香りが、喉から鼻にぬけていくとでも言えばいいのでしょうか……抜けて参ります。

山女なんかが泳いでいそうな、新緑の5月の冷烈で香ばしい、そして爽やかな大地と水の香りが五臓六腑を駆けめぐるとはまさにこのことです。

飲みほすのが惜しい銘酒とはこのことでしょう。

……って、これから数時間後には起きて、初回の講義ですので、深酒しないで今日は休まないと……。

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「苦しくとも嘆かず、絶望するとも没落せず、動揺するとも転覆せしめられない」独立性を育む

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 結論--今日独立性とはどんなふうに見られるか 「哲学すること」の現在可能な独立性はどのように概括されるのでしょうか。
 どんな哲学の学派にも身を売らないこと、言表できる真理をそれとして唯一絶対のものと見なさないこと、自己の思想の支配者となること。
 哲学の財産を積み重ねないで、進行としての「哲学すること」を深めること。
 無条件的な交わりにおいて真理と人類性を闘い取ること。
 あらゆる過去のものを学んで自己のものとし、同時代人の言に耳を傾け、あらゆる可能性に対して自己を開放することができるように努力すること。
 そしてこの個人としてそれぞれ、自己自身の歴史性、この伝統、私が行ったこの行為へ沈潜し、私であったもの、私がなったもの、私が授けられるもの、を引き受けること。
 自己自身の歴史性を通して、たえず人間存在全体の歴史性の中へ、またそれとともに世界公民主義の中へ根を深めていくこと。
 私たちはおよそ攻撃せられないような哲学者の存在をほとんど信じませんし、ストア学徒の安静の境地を信じません。また不動心をほしいとさえ思いません。と申しますのは、私たちの人間存在そのものであるからです。そうでありますから、私たちが自己へ帰るのは、心情の動きを制圧することによってなされるのではなくて、この心情の動きへ拘束されつつそれから飛躍することによってだけ、行われるのであります。ですから私たちは、人間であることへの飛びこみを敢行しなければなりません。そしてそれによって、私たちの充実した独立性へ迫っていくために、できるだけのことをしなければならないのです。こうしてもし内的独立性として私たちから生れ出るものが私たちをとらえるかぎり、私たちは苦しくとも嘆かず、絶望するとも没落せず、動揺するとも転覆せしめられないでしょう。
 しかし「哲学すること」はこのような独立性の学びであって、独立性を所有することではないのであります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年。

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1週間ずれていました。
何かと申しますと、短大で担当している一般教養の『哲学入門』なる科目の開講日が……。

ああ、1週間ですか……。

……ということですが、というわけにもいかず、初回がどうやら6日の月曜日からだったのを1週間後と勘違いしていたようで……自分自身の浅はかさを忸怩しながらも(確認しようと思えば3月初頭に確認できていたので)、さあ新年度だ!ということで決意漲る?連日です。

哲学……などという言葉を聞けば、それは「小難しい」「ワケワカラン」「自分自身にはあまり関係ない」という評判が殆どで、マイナーな科目になります。そのお陰で、それを専門的に深めていく講座をもつ大学も少ないため、宇治家参去のような、傘張りの内職で手間賃を稼ぐような素浪人にとっては極めて厳しい市場となるわけですけれども、それはそれで自分で決めた使命の道?ですから、臆することなく突き進んでいかなければなりません。そこには愚痴も不平もありませんが、ひとつだけいうならば「小難しい」「ワケワカラン」「自分自身にはあまり関係ない」ということだけは全くない……ことのことだけは十全に断言できるかと思います。

ともすれば、高等学校の倫理・歴史の延長線上で「哲学」なるものを捉えがちですが、それはそれで正解でもあり、不正解でもあります。

たしかに、哲学するためには、基本的な知識の習得は不可欠です。外国語を習得するためには、その基礎知識の理解・文法の血肉化は不可欠ですが、それがそのファイナル・ゴールではありません。それは哲学でも同じでしょう。「哲学する」ために基礎的学力の血肉化の労苦をその醍醐味と勘違いしてしまい、「関係ないや」って形で廃棄するのはチトもったいないものであり、それは哲学に限らず、他の諸学でも同じ事だと思います。

ただ現実には、そうした基礎訓練の部分が無味乾燥になりがちなのは承知ですが、そこに何かを潤いを醸し出せるかどうかが教師の力量になるのかもしれません。

幸い、自分の講座はクロニクルに古代ギリシアから現代世界までの哲学「史」を知識として教授する授業をやらなくてもよい、ということで開講させていただいているので、いつも念頭においているのがカント(Immanuel Kant,1724-1804)のいう「哲学を学ぶのではなく哲学することを学べ」というやつでございます。

こないだも東洋思想を専門とする教員と話し合う機会がありました。
極端な話、学生が求めているのは、「“解説書を読んだら授業に出なくてもOK!”っていう部分だけでもないんだよね!。そこから余剰するところ、考えるヒントを授業に反映する必要があるわな」……。

たしかにそうなんですね。

基礎的な知識を知識として教授することは十全に必要ですが、「1192年鎌倉幕府(いいくにつくろうかまくらばくふ)」が何だったのか、そこを知識として紹介しながら、その奥底に誘う努力と仕込みが求められているのだろうと思うところです。

さて……。
いわゆる半期授業というやつですが、いつも講座初日までにヤスパース(Karl Theodor Jaspers,1883-1966)の『哲学入門』を再読することにしております。

今回は自分の確認不足で日程をあやまり、急遽繙き始めましたが、なんとか中盤まで到達。講義第一声までには読了できそうです。

この著作はドイツを代表する現代の哲学者ヤスパースが、哲学になじみのない市井の人々に対してそのエッセンスをラジオ講演として語ったものですが、「入門」どころか「神髄」です。

先にカントの言葉(「哲学を学ぶのではなく哲学することを学べ」)を紹介しましたが、哲学を学ぶということは、哲学を知識として学ぶことではなく、その知識を踏まえた上で、自分自身で「哲学すること」を学ぶことにほかなりません。

それをヤスパースは「独立性」と表現しているのでしょう。

「「哲学すること」はこのような独立性の学びであって、独立性を所有することではないのであります。」

その営みとは知識として「所有」することではなく、知識そのもの、世界そのもの、そして自己自身そのものを、対他との関係性をふまえたうえで「活用」していくことなのでしょう……。

 「哲学の財産を積み重ねないで、進行としての「哲学すること」を深めること。」
 「無条件的な交わりにおいて真理と人類性を闘い取ること。」

特殊個別から全体普遍へ到る鍵も自分自身の営みに内在するものでもあり、そして、同時代人の言に耳を傾け、あらゆる可能性に対して自己を開放することができるように努力することの営みそのものが、哲学なのかもしれません。

ひとりの還元不可能な人間が世界という公共空間へ参与しながら、自己の個性を輝かせ、他者の還元不可能な個性を輝かせる鍵が哲学には存在するのかも知れません。

……そうであるとすれば、なんと哲学は幸福な学問なのでしょう。

このあたりを念頭におきつつ、「苦しくとも嘆かず、絶望するとも没落せず、動揺するとも転覆せしめられない」独立性を育む新年度の授業として参りたいと思う深夜です。

……とりあえず、精神・肉体にわたる燃料が切れ始めましたので、季節限定の「赤霧島/霧島酒造株式会社」(春出荷分)を手に入れましたので、そのワインのような濃厚な紫芋の味わいに舌鼓を打ちつつ、夢の世界へ旅立ちます。

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理性を最上のものとしようとして出発するにもかかわらず、終局には理性を破壊することに

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 もちろん、健全と思われるある教義を国民に押しつけようとする欲求は新しいものではなく、また現代に特有なものでもない。けれども、多くの現代の知識人がこのような企てを正当化しようとする議論は新しい。そのいうところは次のようである。およそわれわれの社会において思想の真の自由はない。なぜなら大衆の意見や好みは、宣伝、広告、上流階級の手本、さらに人々の思考を必ず月並みの型にしてしまう、その他の環境的要因によって形づくられるものだからである。このことから、大多数のものの理想や好みが常にわれわれの支配することのできる事情によって形づくられるものとすれば、われわれは意識的にこの力を利用して、人々の思想を望ましい方向と考えられるところへ向けるべきであると結論されるのである。
 大多数のものが自主的にほとんど考えることができず、大部分の問題について彼らが既成の見解を受け入れ、また彼らがある一連の信念または他の一連の信念に引き込まれたり、甘言をもって引き入れられたりして、同じように満足しているということはおそらく真実である。いかなる社会においても、思想の自由ということは、おそらく単に少数のものにとって直接の意義がある。けれども、このことはだれかがこの自由をもっている人々を選択する資格があるとか、選択権をもっているべきであるというようなことを意味しているのではない。それはたしかに、ある集団が人々の考えたり、信ずべきものを決定する権利を要求するというような推定を正当化するものではない。いかなる種類の体制下においても、多数の国民はだれかの指導にしたがうものであるから、すべての人々が同じ指導にしたがうべきものとしても、なんら異なることはないということは、思想の完全な混乱である。知的自由がすべての人々に対して独自の思想の可能性を意味しないからという理由で、知的自由の価値に反対を唱えることは、知的自由に価値を与える理由をまったく見落としていることになる。知的自由をして知的進歩の主要な発動機としての機能を果たさせるために必要なことは、各人が何かを考えたり、書いたりすることができるということではなくて、なんらかの主張や考えがだれかによって論議されるということである。意見の相違が抑圧されないかぎり、常にだれかが同時代に支配的である考えについて疑問を抱き、その議論や宣伝の当否をたしかめるために新しい考えを提示するであろう。
 異なる知識や異なる見解をもっている個人のこのような相互作用は、精神生活を形づくる。理性の発展はこのような相違性の存在を基礎とする一つの社会的過程である。その本質はその結果が予言されえないということ、またどの見解がその発展を助け、どれが助けないかということが知られえないということ、簡単にいえば、この発展は現在われわれの抱いているなんらかの見解によって支配されるときは、常に妨げられるということにある。精神的発展またはそれに関するかぎりの一般的進歩を「計画化」したり、「組織化」することは言葉自体の矛盾である。人間精神がそれ自身の発展を「意識的」に統制すべきであるという考えは、それだけが何ものをも「意識的に統制」することのできる個人の理性と、その発展が依存している個人相互間の過程とを混同したものである。その発展を統制しようとすることによって、われわれはただその発展を妨げ、おそから早かれ思想の停滞と理性の低下をもたらすに違いないのである。
 集産主義的思想が理性を最上のものとしようとして出発するにもかかわらず、理性の発展の依存している過程を誤解するために、終局には理性を破壊することになるというのは、集産主義的思想の悲劇である。
    --フリードリヒ・A・ハイエク(一谷藤一郎・一谷映理子訳)『隷属への道 全体主義と自由』東京創元社、1992年。

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3月末で市井の職場のアルバイトの方々が数名退社されました。
ただし、新規採用は凍結が全社的な方針ですから、今いる人間でまわせという!というかけ声のもと、理性的な経営判断にもとづく合理化が吹きすさぶ現状です。

それがいいことなのか、わるいことなのかは、門外漢の宇治家参去にとっては熟知の及ばないところです。一見すると、経営を一番圧迫するのは、人件費ということになりますから、そこを「抑制」するというのは、たしかに理性的な合理化の方策のひとつなのでしょう。理性を備え理性的に人間は確かに生きております。しかしそれだけでもなく、理性に該当しない部分も多分にそなえており、現実には後者に従って……その良し悪しは問いませんし、両方があるというのが実情でしょう……生きていることの方が多いのかも知れません。

仕事もおなじで、得意・不得意もあれば、得手・不得手もあります。
欠員が出た場合、その欠員の業務を今いる人間が収得し、それで廻すという理性的判断はたしかに「革命的な進歩」をもたらすかも知れません。

しかし、現実にはなかなかそこまでついてまわらないもので、下々の話ですが、結局は、ある程度、何でもできる人間に負担が回ってくるものです。

経営をデザインするのは飽くなき合理性を追求する理性の導きによるものです。しかしそのデザインに導かれる人間そのものが理性的でもあれば、理性的でもない存在だから、マアこれがうまく働かないわけで、その意味では、理性と非理性の間で呻吟しているのが今の市場経済の最前線なのでしょう。

理性に至上の地位を見出したのは、言うまでもなくフランスの啓蒙思想です。理性の命令に従いながら、現状を再構築していくことで理想郷が実現するとの発想ですが、現実には、「再構築」するどこかろか「既存のシステム」を「諸悪の根源」として「告発」し、がむしゃらに破壊してきたのが、その歩みです。

フランス革命の結末を見るまでもなく、そしてロシア革命の惨劇を引き合いに出すまでもありません。

たしかに「正しい」ことは「正しい」のでしょう。

しかし「問題」の全否定・全消滅が「正しさ」を「実現」させることにはならない……そのことを歴史は物語っているのかも知れません。敵か味方かの二者択一論の不幸も個々にあるのでしょう。

人間は現存の秩序をすべて破壊し、そこにまったく新しい秩序を建設できるほど賢明ではありません。むしろ、理性の傲慢さのもたらす危険性を常に自覚しながら活用していく道を模索すべきなのでしょうが、マアこれも理性を司る人間そのもの非理性の導きなのでしょうか……理性の傲慢さを非理性が加速化させているのかもしれません。

ハイエク(Friedrich August von Hayek,1899-1992)は、デカルト以来の「理性主義」を先験的な理性主義(constructivist rationalism)を批判し、自己自身の理性主義を経験的な理性主義(evolutionary rationalism)と呼び、両者を峻別しております。

ハイエクによると人間はその本質において、非常に誤りに陥りやすい存在であります。

だからこそ改革を目指す場合、「漸進的な発展」を期待すべきであって、理性を濫用した特効薬(=「漸進的な発展」に対してそれは「革命的な発展」)を利用すべきではないと説きます。特効薬を利用してしまうと結局は人間社会そのものを破壊してしまう--そのことを革命のと暴力の20世紀から学んだからなのでしょう。

理性に限らず、あらゆる先鋭化と急進主義的アプローチは、結局のところ、生きてゐる人間からますます離れていくばかりなのでしょう。

生きてゐる人間に根ざしつつ、そのなかで、できる変革を試行錯誤していく--その「積み重ね」のなかで、文明とか文化が形成されるとハイエクは説きますが、その意味では、理性そのものが文明とか社会そのものを創造する能力はもっていないのかもしれません。
人間の歩みはどちらかといえば過ちの方が多いでしょう。
しかし、その過ちを積み重ねながら、試行錯誤と取捨選択を積み重ねることにより人間の表情がつくられてくるのかもしれません。

理性主義に内在する集産主義の悲劇は、過去の遺物ではなく、姿をかえて、身近なところに潜んでいるかも知れません。

ただ……
こう、疲れたときには蕎麦がききます。

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【覚え書】「〔オピニオン〕インタビュー急接近 米国の新聞はどこで間違ったのですか ノンフィクション作家 ゲイ・タリーズさん(77)」、『毎日新聞』2009年04月03日(金)付。

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あらゆる制度や概念、仕組みやシステムはそもそも生きてゐる人間の為にデザインされたはずなので、あらためて「人間のために」とか「人間主義的な」という形容詞をつける必要もなかったのだと思います。

しかし、それが加速度的に進展するなかで、原初の意味を見失い、わざわざと「人間のために」とか「人間主義的な」という接頭語をつけないと、本来の役目に戻れないとあればこれは不幸といわざるを得ません。

原初の意味に戻るならば“人間のための”経済学とかなどという表現は不必要なのでしょう。そうしたことを考えさせるインタビューがあったのでひとつ【覚え書】として残しておきます。

ハイテクが社会を劣化させたわけではありません。
人間世界の事象に関しては、「自ら歩き直接」話をきき、ゆっくりと関係をつくっていくしかないのでしょう。

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ハイテクは報道を殺す毒

 --米国の新聞が、厳しい経営を強いられています。
 ◆かつて勝ち得ていた読者の信頼を、新聞が失ったのだと思う。確かに一部の記者は素晴らしい仕事をしている。しかし速報性を追求し過ぎ、インターネットに頼ることで米国の新聞報道は大きな問題を抱えるようになった。
 --具体的には。
 ◆テレビやインターネットは24時間、新しいニュースを流し続ける。新聞がそうしたメディアと速報性を競ってどれほど意味があるのか。米国の新聞社はこの点で勘違いをしている。新聞が売らねばならないのは信頼と正確性だ。記者は自分の書くものが歴史の記録であることを意識すべきだ。テレビやインターネットの情報をもとに書く記者が増えていることを懸念する。ハイテクはジャーナリズムを殺す毒だ。記者は「歩兵」であり、自ら歩き直接、聞いた話を書くべきだ。今は、部屋の中でラップトップとにらめっこしている記者が多い。
 --イラク戦争報道でも、米国の新聞は間違いました。
 ◆あの戦争は、政府がいかにして新聞を腐敗させるかを示した。大統領や副大統領、国防長官のうそを、ニューヨーク・タイムズ紙でさえ、そのまま報じた。01年以降の米国のジャーナリズムの質は、私が知る限り最悪だ。
 私は、これまで新聞記者としてもノンフィクション作家としても、実名で書くことを自分に課してきた。近所の主婦の性を取材した時や、ニューヨーク・タイムズ紙内の権力闘争について書いた時でさえ、すべて実名で書いた。それには長い時間をかけてゆっくりと取材相手との人間関係を作る必要があった。実名を書けない者からの情報を疑っていたら、イラク戦争報道での間違いは起きなかった。
 --ご自身もハイテクは使わないのですか。
 ◆携帯電話は持たない。インターネットにはアクセスしない。Eメールもやらない。自分で確認したことしか信じないため、資料整理も自分でやる。取材の約束も自分でとるため秘書もいない。私は昔かたぎのジャーナリストで、自分の足で外に出るようにしている。今でもほぼ毎晩、食事は外で誰かと一緒だ。20~30年前に取材した相手と今でも付き合っている。ゆっくりと作った関係は長続きする。
 --新聞業界だけでなく、ハイテクが米社会を劣化させているのでしょうか。
 ◆60年代初め、私は巨大橋の建設作業員を取材した。彼等はその後、世界貿易センタービル(66~73年建設)工事に携わった。米同時テロ(01年9月11日)でこのビルが全壊した時、彼らは「やっぱり」と思ったという。建設費抑制のために資材を軽くし、テナントを多く入れるため空間を広げたのが原因だ、と年老いた作業員らは私に説明した。エンパイア・ステート・ビル(31年完成)やブルックリン橋(1883年完成)なら、完全に崩壊することはないと思うとも言った。経済性や効率性を優先して、簡単に造ったものは壊れやすい。
 --米国に変革を訴える黒人大統領が生まれました。
 ◆ブッシュ前政権は他者の意見に耳を貸さず、米国には自分たちの好きなように世界を変える権利があると思っていた。それは間違いだ。イラクで米国がやったことは人権侵害であり、大統領や副大統領は戦犯だ。だから、私はオバマ大統領誕生に興奮した。彼はロシアとの関係改善に動き、イランとの対話も模索している。外国の信頼を失い、ウォール街に強欲な者たちが集う米国が、生まれ変わるチャンスだと思う。【ニューヨーク小倉孝保、写真も】

ノンフィクション作家 ゲイ・タリーズさん(77)
Gay Talese 米ニュージャージー州生まれ。ニューヨーク・タイムズ紙記者からニュージャーナリズムを代表する作家に。作品に「汝(なんじ)の父を敬え」や「王国と権力」など。

    --「〔オピニオン〕インタビュー急接近 米国の新聞はどこで間違ったのですか ノンフィクション作家 ゲイ・タリーズさん(77)」、『毎日新聞』2009年04月03日(金)付。

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マムシに注意!

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勤務している大学、短大の入学式に参加。

本年初頭に完成した新綜合体育館にて式典の中継に臨席で、このぐだぐだの社会・政治・経済状況のもと、ますます繁栄の息吹高らかにつげる世紀の式典で、身も引き締まる思いです。
新入生の皆様方、ご入学おめでとうございます。
宇治家参去自身は、なにもできませんが、皆様の学業の補助・捕捉の手足となればなによりです。

学ぶのは学生だけではありません。
教員自身が学び続けていかないとそこに生きた学問は存在しないことを実感です。

終了後、教員用の送迎バスを待っていると、

「宇治家さん、なに一般人的な風貌で人混みのなかのひとこまとして消え去ろうとしているのですか?」

……などと研究所の方で、日本思想史を担当するM先輩に声をかけられ、

「いちおう、なにのしがらみもない一般人ですから……」

……と苦笑で応答し、駅前まで出て、久し振りですから!

……ということで、軽く一献。

M氏、昨年一年で、アラビア語をマスターしたとのことで、「宇治家さんも是非!」とのことにて、「よっしゃア!」ということで、入学式で創立者もおっしゃられていたように「語学」に挑戦して参りたいと思います。

宗教学的にいえば、キリスト教(ユダヤ教含む)、仏教はカヴァーできたとしてもイスラームのフォローが語学的につかえないのであれば、それはまさに「つかいもの」になりません。

博論の仕上げとともに、本年は、西洋近代語だけでなく、アラビア語を含む古典語にもきちんと挑戦する一日一日でありたいとおもう決意の一日となりました。

とわいえ……ここは東京ですが、「マムシに注意!」だそうでございます。

……ということで、入学式の速報まで。

こまかいところはまた後日。

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【研究ノート】今日の倫理学の殆どすべてにおいて置き忘れられた二つの最も著しいものは、幸福と成功というものである

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典型的でした。

「おれは勝ち組だからなッ!」

しかし、それは自分でいっちゃダメでしょう……危うくひとりつっこみが声という音としてはっせられしまいそうになりましたが、のみこんで応対です。

市井の職場にて、いわゆる「責任者だせやッ!」ってパターンで、呼ばれて応対すると、クレジットカードのオンライン決算がとおらないとのことで、「なんなんだ」とのご様子。カードに不備(破損)があるわけでなく、機械的に問題もないのですが、エラーではじかれるとのことで、電話で承認をとって手書き対応……。

理由は不明なのですが、おそらく回線上の問題なのでしょうが……たまにあります。たまにあるとだいたい、現金決算で案件クローズというやつですが、「なんでおめえ理由わからねえんだよ」ってことですが、カード会社でもわからず、こちらも平謝り?です。

時間がかかったことにご立腹なようでした。

リミテッドのプラチナカードを使っていたからなんでしょう……「おれは勝ち組だからなッ! おめえらと違うんだよ、ボケっ」……とのことだそうですが、マア人間とは同一人物がふたりとこの世に存在するわけではない、還元不可能な差異が無限にひろがるわけですので、「おめえら」と「わたし」は「違う」ということは倫理学徒として重々理解しておりますし、ぎゃくに「おまえ、おれと一緒だよな」とされてしまうことには激しく抵抗してしまうのが人情ですが……。

ぼちぼち桜も花びらを解き放ちはじめましたが、その桜であっても木とか種類によって、開花のペースがちがうんだよな~などと出勤時、桜の花びらを愛でつつ、還元不可能な差異を実感しておりましたが……

それでもなお、「おれは勝ち組だからなッ!」

……そいつぁア、自分でいっちゃだめでしょう……マジで危うくひとりつっこみしてしまいそうになるある日の夕暮れです。

とわいえ、ここにも考えるヒントが存在するのが人間世界の面白いところです。

こちらの不手際?でご迷惑をお掛け申しあげた今回の御仁、たしかにご迷惑をおかけして恐縮なのですが、そのことばすなわち「勝ち組」(それと対語になる「負け組」)に注目すると、現代の社会において、第一の尊ばれる価値とは何かと問うた場合、それはまさに「成功」というキーワードになるのだろうと思います。

そして踏み込んで表現するならば、成功=幸福であるとする大いなる誤解がこの世で深く流通しているという事実なのでしょう。

たしかに失敗するよりも成功した方がいいし、負けるよりも勝った方がいい。

しかし、それだけでもないんですよね。

ふり返ってみると、面白いことに、倫理学の対象として「幸福」が話題になることがあったとしても……“あったとしても”というよりもむしろ主要な考察対象になりますが……、「成功」そのものが深く省察されたことはほとんどありません。

そしてその流れを辿ってみると、20世紀あたりから、倫理学の主要な対象として「幸福」が論じられることが稀薄になっていったのに対して、著しく力をつけたのが、「成功」という概念です。

しかし、倫理学の議論においては「成功」は論じられたことがほとんどありません。その意味では、幸福=成功ではないのでしょう。

これはなにも「負け組」の一員である人間の「引かれ者小唄」的なルサンチマンではありません。

金もないよりはあったほうがいいし、病んでいるよりも健康であった方がいい。しかし、まさに「それだけでもない」というのが人情なのでしょう。そして人情というならば、苦労してそこから学ぶ、というよりも、中途を省いて一挙に成功するのが労少なくて「アリガタイ」とおもうのもそうですが、それでもなお、「それだけでもない」んですよね。

その意味では、下の引用した戦前日本を代表する知識人・三木清(1897-1945)の文章に学ぶことは大いにあると思います。ちなみに三木清の文章はわたくしぐらいの世代ですとわたくしから見て祖父・父母ぐらいの世代ではよく読まれたようですが今ではどうでしょうか?

ということで、課題がふたつ。

1.退潮傾向にある「幸福論」をもういちど徹底的に吟味すること。幸福感も大切ですが幸福観の探究の必要性と深化。

2.成功とは何か、幸福との関係をめぐって思想史的に位置づけることの必要性。

……なにやらレポート課題に相応しいような議案になってしまいましたが、倫理学を教授するなかで、一つ念頭におきながら自己自身の探究をふかめていかなければならないヨなということで、よなよなビールで締めて今日は寝ましょう。

しかし、実に、温かくなるといろいろなひとがでてきます。

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 成功について
 今日の倫理学の殆どすべてにおいて置き忘れられた二つの最も著しいものは、幸福と成功というものである。しかもそれは相反する意味においてそのようになっているのである。即ち幸福はもはや現代的なものでない故に。そして成功はあまりに現代的なものである故に。
 古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功というものは何処にも存しないように思う。彼等のモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。成功するということがひとびとの主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはやひとびとの深い関心ではなくなった。

 成功のモラルが近代に特徴的なものであることは、進歩の概念が近代に特徴的なものであるのに似ているであろう。実は両者の間に密接な関係があるのである。近代啓蒙主義の倫理における幸福論は幸福のモラルから成功のモラルへの推移を可能にした。成功というものは進歩の観念と同じく、直線的な向上として考えられる。しかるに幸福には、本来、進歩というものはない。

 中庸は一つの主要な徳であるのみでなく、むしろあらゆる徳の根本的な形であると考えられてきた。この観点を破ったところに成功のモラルの近代的な新しさがある。

 成功のモラルはおよそ非宗教的なものであり、近代の非宗教的な精神に相応している。
 成功と幸福とを、不成功と不幸と同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

 他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。

 幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。だから、他人からは彼の成功と見られることに対して、自分では自分に関わりのないことであるかのように無関心でいる人間がある。かような人間は二重に他人から嫉妬されるおそれがあろう。

 Streber--このドイツ語で最も適切に表わされる種類の成功種主義者こそ、俗物中の俗物である。他の種類の俗物は時として気紛れに俗物であることをやめる。しかるにこの努力家型の成功主義者は、決して軌道をはずすことがない故に、それだけ俗物として完全である。
 シュトレーバーというのは、生きることがそもそも冒険であるという形而上学的真理を如何なる場合にも理解することのない人間である。想像力の欠乏こそがこの努力家型を特徴附けている。

 成功も人生に本質的な冒険に属するということを理解するとき、成功主義は意味をなさなくなるであろう。成功を冒険の見地から理解するか、冒険を成功の見地から理解するかは、本質的に違ったことである。成功主義は後の場合でえあり、そこには真の冒険はない。人生は賭けであるという言葉ほど勝手に理解されているものはない。

 一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。

 純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功主義と結び附いている。

 近代の成功主義者は型としては明瞭であるが個性がない。
 古代においては、個人意識は発達していなかったが、それだけに型的な人間が個性的であるということがあった。個人意識の発達した現代においては却って、型的な人間は量的な平均的な人間であって個性的でないということが生じた。現代文化の悲劇、或いはむしろ喜劇は、型と個性の分離にある。そこに個性としては型的な強さがなく、型としては個性的な鮮かさのない人間が出来たのである。

 成功のモラルはオプティミズムに支えられている。それが人生に対する意義は主としてこのオプティミズムの意義である。オプティミズムの根柢には合理主義或いは主知主義がなければならぬ。しかるにオプティミズムがこの方向に洗煉された場合、なお何等か成功主義というものが残り得るであろうか。
 成功主義者が非合理主義者である場合、彼は恐るべきである。

 近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の観念との混合から生まれた最高のものは企業家的精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であったように、近代のそれは企業家であるといい得るであろう。少なくともそのように考えられるべき多くの理由がある。しかるにそれが一般にはそのように純粋に把握されなかったのは近代の拝金主義の結果である。

 もしひとがいくらかの権力を持っているとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであろう。部下を御していく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。

 私はニーチェのモラルの根本が成功主義に対する極端な反感にあったことを知るのである。
    --三木清「成功について」、『人生論ノート』新潮文庫、昭和六十年。

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