« 理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ | トップページ | 「息子の詫び状」 »

息絶えた……

01_img_0164

-----

 神が考えたような人間、諸国民の文学や知恵が幾千年にわたって理解してきたような人間は、事物が役に立たない場合でも、美を解する器官をもってそれを楽しむ能力を付与されて作られている。美に対する人間の喜びには、いつも精神と感覚が等しい度合いで関与している。人間が生活の苦難や危険のただ中にあってもそういうものを楽しむきおとができるかぎり、つまり、自然や絵画の中の色彩の戯れや、あらしや海の声の中の呼びかけや、人間の作った音楽などを楽しむことができるかぎり、また、利害や困難などの表面の奥で、世界を全体として見たり感じたりすることができるかぎり、つまり、たわむれる若いねこの頭が描く曲線から、奏鳴曲の変奏演奏にいたるまで、犬の感動的なまなざしから、詩人の悲劇にいたるまで、連関があり、無数に豊富なつながり、相応、類似、反映が存在していて、絶えず流れるそのことばから、聞くものに喜びと知恵、冗談と感動の与えられる、そういう全体として世界を見たり感じたりすることができるかぎり、--それができるかぎり、人間は、自分というものにまつわる疑問を繰返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。
 「意味」こそ、多様なものの統一であるから。そうでないとしても、世界の混乱を統一と調和としてのほかに感ずる精神の力であるから。--ほんとの人間、献膳な、不具でない人間にとっては、世界と神は絶えず次のようなさまざまの奇跡によって実証される。すなわち、夕方になると冷えてくることや、仕事の時間が終ることなどのほかに、夕方の大気が赤くなり、さらにばらいろからすみれいろに魅惑的になめらかに移って行くという現象があること、夕べの空のように無数に変る人間の顔が微妙な微笑を浮べる場合の変化のようなものがあること、大寺院の内部や窓のようなものがあること、花のうてなの中のおしべの秩序のようなもの、小さい板で作られたヴァイオリンのようなもの、音階のようなもの、ことばのように、実に不可解で微妙で、自然と精神とから生れたもの、理性的で同時に超理性的で子どもらしいものがあること。世界の美しさ、新奇さ、なぞ、またおよそ人間的ないっさいのものがまぬがれないもろさや病気や危険などを遠ざけ防止しはしないにしても、永遠不変と見えるものがあること。--そのことが世界を、その召使であり弟子である私たちにとって、地上の最も神秘的な尊敬に値する現象の一つにするのである。
    --ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)「幸福論」、『幸福論』新潮文庫、平成十六年。

-----

自分自身が悪いのか、それとも中断させてしまったワインが悪いのか。

入力まで終わり、コメンタリーの組み立てまで済んだのですが、もはや息切れ。

コメンタリーは後日と言うことで。

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)は染み込んできます。

その昔、ドイツ文学を専攻していた学徒としてはお恥ずかしい限りですが、こんなに染みこんでくるとは思いもよりませんでした。

02_img_0166 03_r0013455

Book 幸福論 (新潮文庫)

著者:ヘルマン ヘッセ
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ | トップページ | 「息子の詫び状」 »

詩・文学・語彙」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 息絶えた……:

« 理論はちと自分で苦労して、人生を知るのがよいのだ | トップページ | 「息子の詫び状」 »