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宗教的人間であるということは、引き裂かれた人間、調和を失った人間、平和を持たない人間であるということである

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 二一-二二節 結果。そこで、善を行おうと望んでいながら、わたしに悪が入り込んでいるというところに、立法がその現実性を持つのをわたしは見る。というのは、わたしは内なる人間としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体の中には別の律法があって、わたしの理性の律法に対して戦いをいどみ、わたしの肢体の中にある罪の律法の下にわたしをとりこにしているからである。

 「そこで、善を行なおうと望んでいながら、わたしに悪が入り込んでいるというところに、律法がその現実性を持つのを私は見る」。宗教的人間であるということは、引き裂かれた人間、調和を失った人間、平和を持たない人間であるということである。自己自身と同一でありうるのは、ただ神と自分が一致しているのかという大問題にまだ目覚めていない者だけであろう。われわれはすべて、われわれが自分自身と同一ではないということを、またそれと共に、われわれがどれほど深く神によって動揺だせられているかを、われわれの行為と態度の全体に、おいて、十分明瞭に明らかにする。必要があれば、単純な心の動きから、そのことを否認できる人たちは幸いである。もっと永く、あの問いに目覚めないように用心することにかれらが成功するように! 宗教の現実は、わたしが望んでいながら実行せず、実行しながら望んでいないことに対して、わたしの自我、これらのすべての述語の主語が、全く疑わしいものになる、生きることも死ぬこともできないXになることにある。わたしは律法によって神を認識するのであるが、その律法によって、わたしは「善を行なおう」と望んでいるのである。そしてわたしは律法によって神に知られているのであるが、その律法によって「わたしに悪が入り込んでいる」のである。わたしにとって最高の可能性が最高の困惑となり、最高の約束が最高の危急となり、最高の賜物が最高の脅威となる。シュライアーマッハーがかれの『宗教論』を書きあげた日に、「生みの親としての喜びに満たされると共に師への恐怖に襲われて」、「わたしが今夜死ぬとすれば、それは残念である」と考えることができたと信じられるだろうか。宗教について--あれほど印象深く、美しく語った後に、あたかも死がないか非常に身近にあるものではないかのよう! 悪意のない、お根本的には心からただ安らぎを求めているだけの人間に、何かただ耐えられるだけのものでなく、歓迎に値するもの、興味あるもの、豊かにしてくれるものとして、宗教を勧めることができると信じられるのだろうか。すべての文化と非文化の固有の内的問題性と誠実にまさに十分に取り組んでいる人たちに、価値ある文化の補完として、あるいはまた文化の代替品として、宗教を押しつけることができると信じられるだろうか。
    --カール・バルト(小川圭治・岩波哲男訳)『ローマ書講解』平凡社、2001年。

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ひさしぶりにゆっくり?できたので、午前中は、「神の言葉の神学」で有名な20世紀を代表するプロテスタント神学者カール・バルト(Karl Barth,1886-1968)の著作をひもとく。

個人的・主観的モチベーションによれば、宇治家参去個人としてカトリシズムに親近感を覚えるわけですが、それでも、やはり、カール・バルトの言説は避けては通れぬ翠点をなしておりますので、修士の頃から読んでおりますが、依然として難解です。

主著である『教会教義学』は半分まで読んで挫折しましたが、それでも論評、説教のたぐいは時々、ひもといており、最近、もう一度読んでおかないと……と決意して読んでいるのがバルトの出発点となる『ローマ書講解』であります。

バルトは、フリードリッヒ・シュライエルマッハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher,1768-1834)に始まる「神学の人間学化」(文化プロテスタント主義)に大きな危惧を抱いた人物です。

キリスト教という歴史的な制度宗教が、学の対象として一般論化されてしまう、そして文化として宗教が論じられてしまうなかで、その特殊個別性である救い・信仰が矮小化されてしまうことに対して猛烈な攻撃を仕掛け、神学の本来のテーマを回復しようと牧会と研究の両者の往復関係のなかから厖大な著作を著し、なによりも「言における神の啓示」を大切にしたことでしられております。

……そう聞くと、なにやら、調和を乱す宗教右翼か!などと一瞥されてしまいそうですがそうではありません。自己自身の信仰を丁寧に集中し、その特殊性を踏まえたうえでなければ、対他的な問題にはあたれないでしょうというのがバルトの主張であり、(一般論的な)宗教の「廃棄」としてのキリスト教として、他の存在を否定したのではなく、もっとも果敢に、現存するキリスト教のあり方に手厳しかったのがその実です。

その意味では、自己自身に対して律儀な神学と評価することも可能でしょう。

そして余談ながら、バルトはスイス生まれですが、ナチズムが、キリスト教を民族宗教に矮小化し、民族精神鼓舞のために利用しようとした際(ドイツ・キリスト者運動)、それにもっとも手厳しく批判したのがとうのバルトです。

政治が宗教を利用することほど宗教の矮小化を招く事例はありません。
その当該宗教のもつ独自性・特殊性(そしてそこから突き抜けていく普遍性を含む)を徹底的に破壊するのがその暴挙であり、それこそがバルトがいう「神学の人間学化」なのでしょう。

コトバとしては「人間学」化ですが、その暴挙は、この世の可変的なものを絶対的なものとして受け入れさせようとしてしまう圧倒的な暴力であり、「人間学」化と謳ってはいるものの、その実は、“エセ”「人間学」化なのかもしれません。

……などとぼんやり考えながら、桜の季節が過ぎ行くのを惜しみつつ合掌というかんじです。

さて話は変わりますが、東洋人の通俗的なキリスト教感覚のひとつに、キリスト教とは善悪を厳粛に峻別する宗教という宗教観があるかと思います。そしてそれに関して踏み込んで言うならば、その善悪の存在を対他的に対峙させるのがキリスト教だろうというものの見方が存在します。

しかし果たしてそうなのでしょうか?

「福音と律法」の問題を徹底的に追求したバルトなんかを読んでいるとそのようではないようです。

善の問題も悪の問題も生きている人間に、“根っから”内在する問題であるとの見解のように覚え、だからこそ、信仰なり、律法なりが必然的に要請されるのだろう……マアこれも通俗的解釈のひとつですが……そう思えて他なりません。

だからこそなのでしょうか……。
面白いことに、第2バチカン公会議を主催した教皇ヨハネ二十三世(Papa Giovanni XXIII,1881-1963)は、バルトを評して「今世紀最大のプロテスタントの神学者」と言ったそうですが、最近ではバルトの人気はめっくり低くなりました。

ただしかし、バルトの言説には流行にとらわれない力強さと誠実さがあるように思えて他なりません。

……ということで、散りゆく桜を肴に、今日は「純米吟醸 上善如水」(白瀧酒造/新潟県)で完敗(乾杯)です。

キャッチコピーには「ミズノ ヨウニ イキルノサ」とありますが、二元論とか通俗的な理解をさけつつ、かく生きていきたいものです。

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コメント

>東洋人の通俗的なキリスト教感覚のひとつに、キリスト教とは善悪を厳粛に峻別する宗教という宗教観があるかと思います。

私もそう思います。

ヨーロッパでも、そのような傾向があるように思えます。
「キリスト教の善悪観≒ある固定的な善悪観」みたいに語れることが少なくないです。

「土地の宗教」だけに「現実的な政治・声明」と切り離せないから仕方ないとは思いますけれど。

投稿: 松井千尋 | 2010年10月27日 (水) 16時24分

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