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ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している

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 過去と現在とを見回して、われわれと同じキリスト教の伝統には属さない諸民族の文化と伝統を知るようになればなるほど、そこに見てとれるのはますます、たとえ繰り返し異なった厳護で語られるとしても、しかし、常に人間的で拾得可能な厳護において語られる語らいなのである。フェルディナント・エブナーが述べたように、人間は言葉を「もつ」、そしてまさにそのことこそが人間を他のあらゆる自然的存在から際立たせるものなのである。人間が言語を「もつ」ということは、哲学というギリシア人に最も固有な創造物--そこから「学問」が始まったのだが--において、そして最初はアリストテレスの『政治学』において見出される命題なのである。そこでは<人間はロゴスをもつ生物である>、と言われている。われわれはここで一挙に事柄の中心に置かれることになる。すなわち、文化の根源語、つまり言葉のまったき近みに置かれるのである。
 たしかに、ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している。それゆえ、人間を<<理性的動物(animal rationale)>>、理性をもつ存在であるとする定義は、数百年を経過して存続し、ずっと後の理性を誇る態度を確証するものなのである。しかし、ロゴスとは「理性」のことではなく、むしろ「話」、すなわち人々がお互いに向けて語り合っている他ならぬその言葉なのである。その言葉は、語句の断片のように断片化されて分類可能となり、そしていわゆる辞書を形成するような個々の単語の堆積のことではない。むしろすでにロゴスとは語句を意味への統一(アインハイト)へ、語の意味の統一へと組み上げることなのである。われわれはそのことを文の統一性[単位]と呼んでいる。しかし、それはまた言語の断片化でもある。たとえそれがまったく技巧的な単位(アインハイト)[統一性]ではないとしても、しかし、結局のところ恣意的な単位だからである。語られるべき言葉は、いったいいつ完全に語られるのか。どこで意味は終わるのか。文という単位においてであるのか。いやむしろすでに、沈黙のうちで終わる話という統一においてである。しかし、言われたことの意味はそれ自身が沈黙において初めて立ち現れてくるのであって、言われていることの静止のなかで初めて広がり始めるのではないか。結局のところ、言語は応答のうちで初めて現存するのではないのか。言葉は、ある人に向け語られ、人がそれに応答しなければならないときに初めて、言葉なのではないか。あるいは、こうした言い方もまたなおひとつの抽象、すなわち[ヘーゲル流に]この言葉といわれるものなのか。結局、すべての言葉は応答なのか。われわれが敢えてある言葉を口にするとき、われわれは常に応答しているのではないのか、すなわち、われわれは他の人に、機会に、事柄に、<<原因(causa)>>に対応しようとしているのではないのか。「ロゴス」というギリシア語の表現はいずれにしてもそのような対応の領域を指示しており、上述の定義が『政治学』のなかに記載されているのは理由のないことではない。というのも『政治学』は人間の政治的根本構成と形態形式において彼の天才的な観察の対象としていたからである。
    --ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二訳)「文化と言葉」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年。

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そもそも学問は、言葉……言語といってもよいかもしれませんが……を大切にします。なぜなら、それが学問自身であるからです。

とくに“諸学の王”と称される哲学……って書きますとポスト・モダニズムの批評家からは手厳しい批判が出てくるのは承知ですが、歴史的経緯をふり返ると、アリストテレス(Aristotle,BC.384-322)の時代においてそうであったように、現状としてはたとえそうでない、否むしろその玉座から退場すべきだという評価は百も承知ですが、それはひとまず措きます……何の話をしていたんでしたっけ?

そうそう、言葉の問題から、哲学が“諸学の王”ということへすっとんでいったわけですが……という感じで授業もかなりすっとびます。

ですので、わたしの授業を受ける場合、そのすっとびに耐えうる集中力と引き出しの多彩さが必要かも知れません。

……ってまたすっとびました。

で言語と学問(諸学の王としての哲学)ですが、学問は一般的に言葉の運用に対して慎重になる(精緻を期す)ことにその特徴があるわけですが、そうした万学の王たる哲学は、その他の学問以上に言葉の問題を丁寧に扱わざるを得ません。

なにしろ、実験を行うこともできませんし、調査を行い報告をおこることもできません。そして、現状のデータから明日の動向を予測することもできません。しかし、言葉を丁寧に扱うことによって、対象と向かい合い、自己自身を吟味していく、そして、過去から学び、現在を認知し、明日を展望する……そこに哲学の首尾一貫性と、その営みの醍醐味があるところだろうと思います。

哲学とは何か。
私家版ですが、つぎのように「暫定的」に定義して運用しております。
※「暫定的」というのは宇治家参去の学知の伸展によりその後、発展的解消?が見込まれるということを想定しての「暫定的」という意味であります。書く必要もありませんが、「うぉゐ、これが決定版だ」などと啖呵を切れないチキン野郎に由来するのがその実ですが……。

すなわち……

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哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない。    --宇治家参去『哲学入門』私家版、2009年。

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言葉と向かい合いながら徹底的に自己自身で考え抜き、問題を吟味していくのが哲学です。しかしその際、自分の思索を“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとする営みに終始してしまうと、そこに暴力性が発揮されるわけで、批判の焦点としての独我論に陥ってしまいます。たしかに哲学史をふり返ってみますと、そうした独我論先行という嫌いがなくもありませんので、そこをどのように乗り越えていくのか課題になるのでしょう。だからこそ車輪の両軸のもうひとつの和としての相互批判・自己吟味・他者吟味という労作業が必要になるのだろうと思います。

それこそが、古代ギリシアで始まった哲学という営みの原点に存在する「対話」という営みに内在するのでしょう。ソクラテス(Sokrates,BC.469?-399)は他者とのすりあわせをによってのみ、自己自身とは何か(「汝自身を知れ」)の探究は可能になる……それによって他者とは何かも同時に浮かび上がる……として、対話にあけくれたわけですが、まさにその歴史の原点が物語っているように、徹底的な自己自身による探究と、そのコンテンツの摺り合わせとしての対話という実践理性は、ひとつもののうらおもてなのが実情だろうと思います。

徹底的な内省は独我論に傾いてしまうし、対話のための対話には生産的な議論が全くありません。

しかし、言葉を扱う自己自身が謙虚に自己内省をしつつ、そこにおいて「対話」という契機で説明と了解という吟味の場を持つことできれば、それ以上に豊かで幸福なことはないのかもしれません。

ともすれば、そのどちらかに傾きなのがその実です。

「おれは考え抜いたんだゼ」とコンテンツだけを示されても辟易としますし、
「おれは相手を吟味しまくったゼ」とためにする批判だけを提示されても辟易としてしまいます。

言葉はひとをいかすこともできれば、ころすこともできます。
その両極端をさけながら、説明と了解を心がけることが大切なのでしょう。

まさに「ロゴス」を他者と使いこなしていくことが人間の課題なのだと思います。

アリストテレスは、『政治学』において「人間はロゴス的動物である」と人間を定義しましたが、その消息をふり返ってみると、そのロゴスとは、通常「理性」と約されますが、その「理性」とは、孤立した個人の内省的理性ではなく、他者と関わる中で共通了解を目指す人間の性質ととらえたほうがよいのかもしれません。

理性と聴くと、何か、徹底的な個人の内省、ないしはその逆の、自己から超脱した規範としての命題との印象が強いですが、決してそうではないのでしょう。

その意味では、まさに「ロゴスとは「理性」のことではなく、むしろ「話」、すなわち人々がお互いに向けて語り合っている他ならぬその言葉なのである。その言葉は、語句の断片のように断片化されて分類可能となり、そしていわゆる辞書を形成するような個々の単語の堆積のことではない。むしろすでにロゴスとは語句を意味への統一(アインハイト)へ、語の意味の統一へと組み上げること」なのでしょうね。

できあがった普遍的エトヴァスではなく、他者と説明と了解という対話の契機によって「紡ぎ上げていく」のがユニヴァーサルなものであり、それによって内省的理性が、普遍的理性へと階段をのぼっていくのでしょう。

そうとらえるならば、理性もなかなかすてたものではありません。

……ということを勤務している短大の「哲学入門」のなかで、実践的にやってみたいな~と目論んでいてこれまでその契機を欠いてやっていなかった取り組みがあったのですが、今回それを見事にやってみせることができました。

何も特別なことではございません。

特別なことに哲学は存在しませんし、哲学そのものが特別でもありませんから。

実はこのネタ、ここ数年あたためていたのですが、まさに契機をかいて提案できず、繰り越しになっていたのですが、今年度の講義ではうまく注ぎ込むことできた自分に乾杯です。

すなわち……それがまた飛躍だぜなんて突っ込むことあるまじ!と捨て置き……、

つまり、自分自身の実感として顧みることすらない「アタリマエ」の状況を、他者の面前で言葉を使って説明しなさい……というディスカッションという作業です。

今回のお題は「リンゴとは何か。他者が理解できるようにあなた自身の言葉で説明してみてください。リミット1分で」

……授業終了後、学生さんがたが感想を記入したリアクション・ペーパー(出席カード)を読んでみると、こちらが驚きましたが……いい刺激になったみたいです。

「リンゴとは何か」

求めているのは、wikiにあるような「リンゴ(林檎、苹果、学名:Malus pumila)は、バラ科リンゴ属の落葉高木樹。また、その果実のこと。植物学ではセイヨウリンゴと呼ぶ。原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地だといわれている。現在、日本で栽培されているものは、明治時代以降に導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。」ではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4

あなたのリンゴ像を他者に精確に、自分のことばで説明し、了解を得ることができるのかが焦点です。

皆、どぎもをぬかれたようで、

難しかった!……ひとこといって終了です。
難しかった!……けど、自分の思いを伝えるのではなく理解してもらえる訓練になりました!
マジで、面白かった!

……様々なしげきになったようです。

「リンゴとは何か」

別にリンゴでなくても結構です。
自分が顧みることもなかった対象を自分の言葉で説明し了解を得る練習をしてみると面白いものですヨ!

「じゃあ先生は、どう答えるのですか」

……って野暮な質問がなかったのが幸いです。

で……言葉の運用!

4月初頭より、毎週大学で講義する月曜日の宇治家参去の餌は、武蔵野うどんと相場が決まっていたのですが、ほぼほぼメニューを制覇したことにより、今週より「蕎麦」編へ移行するぞ!とアナウンスしたにもかかわらず、また「うどん」でした。

単なる天ぷら蕎麦系では面白くないだろう!

……ということで、券売機にて「肉ねぎ蕎麦」のボタンを押し、オーダーしたわけですが、出されたのが「武蔵野うどん にくねぎうどん」のようで……。

「オイラが注文したのはそれじゃねえゼ」などと事を荒げることを潔しとしない……潔しとしないといえば響きは善いですが……(しらふ拳では)要はナイーヴでシャイなチキンボーイですから、「ありがとさん」とさも何もなかったかのように受けとってしまいました。

オイラ、蕎麦を注文したのですが……。

それはそれでよしとしましょうか。

このような場合には、説明と了解という対話は不必要の方が「大人の男」なのでしょう。

……って日本的?

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