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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない

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 日常的実存のなかで、世界のなかで、主体の物質的構造は、ある程度、乗り越えられている。自我(モワ)と自己(ソワ)とのあいだに、隔たりが生じるのである。自己同一的な主体は、直接的に〔無媒介的に〕自己へと回帰するわけではない。
 ハイデガー以来、われわれは世界を道具の総体とみなすことに慣れている。世界の内に存在するとは、行動すること、それも、要するに行動がわれわれの実存そのものを目的とするようなかたちで、行動することである。諸々の道具は、最終的には実存することへのわれわれの配慮を指示するために、相互に他を指示するのである。浴室の灯りのスイッチを押すことによって、われわれは存在論的な問題を全面的に開示する。ハイデガーの目を逃れているように思われること――もっとも、こうした問題に関して、ハイデガーの目を逃れ得たものが実際に何かあるとすればの話だが――は、世界は道具の体系(システム)である以前に糧(かて)の総体である、ということである。世界の内での人間の生は、世界を満たしている対象〔オブジェ・事物〕の彼方に到ることはない。われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でのわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存――自己の外にあること――ということであり、しかも、それは対象によって限定される。

    ――E・レヴィナス(原田佳彦訳)『時間と他者』法政大学出版局、1986年。

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ハイデガー(Martin Heidegger,1889-1976)は、人間の存在(現存在,Dasein)の特異な性格を浮き彫りにするなかで、人間以外の存在を丁寧に分析しておりますが、そこで出てくるのがキー概念としての道具的存在というあり方だと思います。「~のために」「~として」対象としての事物は確かに存在しております。

アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)を引くまでもなく、すべての事物の存在根拠としての「目的因」は確かにすべての事物に、いわば、内在するのは事実なのでしょう。

だからこそ、人間という生き物は、対象を道具として取扱うことで生活を展開してきたわけで、「世界の内に存在するとは、行動すること、それも、要するに行動がわれわれの実存そのものを目的とするようなかたちで、行動することである。諸々の道具は、最終的には実存することへのわれわれの配慮を指示するために、相互に他を指示する」ように知らず知らずに自覚することなく生きているのがその実情かも知れません。

たしかに「浴室の灯りのスイッチを押すことによって、われわれは存在論的な問題を全面的に開示」していることは理解できます。

しかしながら、事物が存在するとは「道具の体系(システム)」としてだけ存在しているわけでもないのももう一面の自然なのだと思うところで……。

その存在論的な違和感がなにかここちよく、そのずれに人間の存在と事物の存在の奇妙な縁を感じる宇治家参去です。

さて……金曜日。
大学の仕事も、市井の職場も休みでしたので、大学へ行って来ました?

細君はわたしが教鞭をとっている短期大学の卒業生になるわけですが……と書くと時々「先生が生徒に手をだしたのか?」などと誤解を招く訳ですが、ソクラテス(Socrates,469.BC?-399.BC)のように弁明?するならば、勤務する以前に結婚しておりますし、教師-学生の間柄@和辻哲郎というわけではありません……ずれました。

はなしを戻します。
で……、卒業生なのですが、ちょうどゼミの先生が、本年度より学長に就任されましたので、先週、細君がお祝いの電話をしたところ、「大学の桜も綺麗に咲きほこっていますから、一度、遊びにおいでなさいな」

……というわけで、二日酔いのところ、早朝よりおこされ、「ワタクシ、今日休みなのですが……」とぼやきつつ、家族で大学へ。

八王子駅でれいの「いちょう庵」を見出しましたので、「朝食べていないのでチト……」と所望するとすぐさま却下され、そのまま、先ずは短大へ。

ゼミの先生……ちょうど大学へ賓客の訪問があり、それが終わるまでちょいと待ちながら、新装された学生食堂にて昼食をとり、しばしまっていると、ひさしぶりのご対面ということで、少々懇談し、それからキャンパスを散策です。

息子殿も何度も連れてきているのですが、学生ホールでポップコーンを買い求め、そのまま、文学の池へ向かい、鯉に餌をやるという定番コースでスタートです。

そして、山野?をかけめぐりながら、新設された門をめぐってから、本部棟へ向かい、13階のカフェテリアにて、休息。

眼下の遠望は、絶景で、疲れが吹き飛ぶというのはこのことなのでしょう。

息子殿も13階のカフェテリアが気に入ったご様子にて、

「ここで、毎日昼食をとりたい」

……とのことで、そのために、

「この大学で教師をする」

……などと決意しておりました(すこし親バカですが)。

ちなみに、「何を教えるのか?」と誰何したところ、

「あにまる」

……とのことだそうです。

理学部・獣医学部系の「動植物」に関連することか!と思ったわけですが、そうではなく、どうやら……

「アニマル・カイザー」とのことだそうです。

その強いカードの組み合わせとか、キャラクター動物の特徴を講義するとのこと。

「ん~、哲学とか神学ではなかった」のが残念です。

ただ……、散策をふり返ってみますと人間という生き物はたしかに対象としての事物を「道具」としては取り扱うことが現実には多いのですが、それだけではなく、「糧」として向き合っている側面も実はあるんだよな……などと桜の木の下で思うばかりで、理由はどうであれ、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が「花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである」と散歩を評しているような向かい合い方というのは、単なる道具的連関の「外にある」ありかたを絶妙に表現しているばかりだな……と思う次第です。

イヤサカ……ではなく、いやしかし、

疲れました。

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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でのわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存――自己の外にあること――ということであり、しかも、それは対象によって限定される。
    --レヴィナス、前掲書。

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で……、きわめて、蛇足。

以下のフォトもおまけまでに。

本部棟13Fのカフェテリアからの眺望。

バス停でバスをまっていると、陽気にさそわれ、蜥蜴の登場。

家までビールを我慢した偉い子・宇治家参去。
このあと、飲みに出かけたので、出かける前に「お試しに!」ということでノンアルコール・ビールにチャンレジ……すげぇぇ、不味かった。

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