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「アラビヤ語の文典をもつてゐるなら貸してくれ」

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 内村鑑三の性格は自由かつ独立でありました。その自由は矛盾を怖れざる自由であり、その独立は人との妥協を許しませんでした。先生の文筆生活四十年、その間における先生の言説の矛盾を拾ひ上げることは容易であります。ある時は教会を否定し、ある時は教会を応援し、ある時は九州は日本の頭にして東北は尻尾なりといひ、ある時は九州人の狡滑を貶して、東北人の純朴を賞揚し、その他この種の矛盾撞着は少くありません。多くの人がそれに躓いたことも事実です。しかしこのことについては二つの点を考へねばなりません。
 第一は、先生の神学的思想には発展があつたといふことであります。進化論のなかで育てられ、批評神学の波に洗はれて来た先生は、その時代思潮の影響の下に苦闘しながら、先生のいはゆる「古い古い十字架教」の信仰を守り抜いて来られたのです。
 第二は、先生は一つの時には真理のある一面に百パーセントの絶対的重要性をおき、他の時には他の一面に同じく百パーセントの絶対的価値を認める非とでありました。すなはち先生は全体の釣合を考へて価値の相対的な関係を按排するところの体系的な人ではなく、一つの時に一つの真理に全力を傾ける預言者型の人物であつたのです。真理の把握において、この先生の往き方は決して誤謬であるとはいへません。
 先生は真に学問を愛した人であり、晩年まで知識欲の旺盛な人でありました。先生の学問的興味の範囲は頗る広く、宗教と聖書のほかに、生物学、天文学、地質学、地理学、哲学、文学、歴史学、政治学、言語学その他大英百科事典に掲げられてゐるほどの項目に対しては、すべて興味をもつたといつてよいでせう。事実、先生の晩年の読書の快楽は『英百』のなかに好きな項目の論文を拾い出して読むことでありました。体系の人でなかつた先生は、その該博な知識を体系化することをしませんでしたし、また聖書以外の問題に深入りすることもありませんでした。しかしいかなる問題についてその要点を理解し、神髄を把握する能力は素晴らしいものでありました。例へば先生はダンテ学者ではなかつたけれどもダンテの精神を、カント学者ではなかつたけれどもカントの神髄を、世間のダンテ専門家やカント学者以上に鋭くかつ性格に把握して紹介しました。先生は文学者ではなかつたが、ダンテやゲーテやイプセンや、カーライルやホイットマンなどの外国文学を、初めて日本に紹介した功労者でありました。先生の学問的関心が最も薄かつたのは経済学でありませう。それでも大正十二年私が欧洲留学より帰りました時、先生は私に佐藤信淵の研究をすすめられたことがあります。先生の晩年、もう七十歳に手の届くころ、先生は塚本虎二氏にむかひ、「アラビヤ語の文典をもつてゐるなら貸してくれ」といつて、塚本氏を驚かせたことがあります。これは聖書の研究をするのに、どうしてもアラビヤ語が必要であることを感ぜられたからでありました。聖書の研究は先生の終生の事業でありましたが、預言者であつて神学者でなかつた先生は、この専門的領域においても体系的な大著述を遺しませんでした。この点でも先生はカルビンよりもルッターに近い型の人物でありました。
    --矢内原忠雄「内村鑑三」、『続 余の尊敬する人物』岩波書店、1949年。

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たしかに矛盾があるより、理路整然としていたほうが、スッキリしますし、仕事柄……この場合は“本業”としての学問の見地から……、思想史なんかあつかっておりますと、まさに些末な矛盾、思想的変遷、そうしたもの重箱の底をつつくような「作業」をしますので、矛盾に敏感になってしまいます。

しかし、自己自身が矛盾に満ちた存在であることを理解しており、そのことをたゆみなく細君をはじめとする他者からも指弾されつつ矛盾の解消につとめているある日の宇治家参去です。

冒頭でぼやいたとおり、たしかに矛盾があるより、矛盾がないほうが、人間の存在に対する認識論としては実にすっきりします。そしてそのように励行できる存在もたくさん存在します。が、それは稀有な存在なのでしょう。

しかしながら、不思議なもので、自己自身の矛盾には自覚がない場合でも……それは程度の差ももちろんありますが……、他者の矛盾ほどよく見えるものでございます。

そして、その場合、一番多いのが、「それチト、まずくねえ?」って話しかけるというあり方よりも、それに対して回路を欠如したまま、おめえよお!って“拗ねて”しまうことのほうが現実には多いかもしれもしれません。

その場合、なにか生産的な契機が見出されず、どちらかといえば、不毛な荒野がのこるばかりといいますか、疲れているのにさらに疲れてしまうという負の自転車操業が加速されてしまうのがその実なのかも知れません。

とっとと寝なきゃいけないのですが、やはり、教員であるよりも一学徒としての自覚が強い自分ですので、一日一殺……もとい、一日一冊を心がけておりますので、無教会主義で有名な内村鑑三(1861-1930)の愛弟子・矢内原忠雄(1893-1961)の人物論をさやさやと繙いております。

内村鑑三の無教会主義の門弟には、比較的東京帝大を中心とする学者に成長していく人物が多いのですが、南原繁(1889-1974)に代表されるように、どちらかといえば法学に傾く嫌いが顕著なのですが、内村無教会主義の東京帝大ストリームのなかで、経済学を淡々と追求した矢内原忠雄の歩みはむしろ異色であり、ときおりその著作を紐解く中で「あっ」とさせられることがございます。

法学的見地から信念論・真義論が展開された場合、まさに南原繁の代表される……例えば『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)……のような、「地上の国」としての“容れ物”批判の言説がわかりやすいという側面がありますが、経済学の立場から「地上の国」としての“制度・政策”批判というのも、これまた……いい方は恐縮ですが……“乙”なものでして、ときおり、まさに「あっ」とさせられることがございます。

内村門下の矢内原は、1937年の盧溝橋事件の直後に『中央公論』に寄せた「国家の理想」という代表的な評論があります。このなかで、矢内原は、国家の目的とは正義の追求であり、正義とは何かといった場合、弱者の権利を強者の侵害から守ることにほかならない……との弁舌を揮っております。これが発火点となり、のちに軍部政策を批判する一連の著作が原因で、東京帝大のポストを追われてしまいます。

自家薬籠的で恐縮ですが、このあたりには吉野作造(1877-1933)の影響も散見され、生真面目なキリスト者の戦時下抵抗を垣間見るようですが、どちらの論評においても別段「特別」なことが提示されているわけでもなく、今日では常識化した民主主義の理念が先取りして述べられいるだけにすぎず、その意味では理念論としては、今の人間から見てみますと、「たいした内容はない」と切り捨てることは不可能ではありません。

しかし、そうした「たいした内容はない」と現今で評価できるかもしれない内容であるにもかかわらず、その言論すら封殺された時世において、それを言い切った事実は覆せようもなく、「警世の預言者」と称された内村鑑三のやはり、弟子だよなと思う次第です。

……って、例の如くですが、本当に述べたかった部分がすっぽりと抜け落ちたようでございます。

すなわち、人間における矛盾ということです。

変な話ですが、おおきな見取り図的な枠組みで、社会学的なアプローチでその状況を評するならば、日本においては過去も現在もキリスト者はグループとしてはマイノリティです。だからこそからかもしれませんが、流派間の細かい対立はあるにせよ(現実にあります)、比較的、対他的な問題に関しては、足を引っ張り合うような相互批判を遠慮する傾向が現実にはあります。

しかし、対他的な問題に関する組織防衛論が先にたち、本来目指すべき方向性がゆがめられるようなシチュエーションというのも出てくるのが現実です。

これはキリスト教に限定される問題ではなく、あらゆる集団に散見される・予測される出来事です。

そうしたなかでも、さすが「警世の預言者」内村鑑三です。

「間違っている」

……ということに関しては臆面もなく「間違っている」と喧嘩をうるようで、そこに内村の内村らしさが存在する……などと思うわけですが、そうした積み重ねの「論理的断絶」を好事家は、「ウチムラサン、アナタノ議論ハ前ト後デ論理的矛盾ヲカカエテイルヨウダ」などと批判するのがその歴史であったように思えます。

たしかに緻密な議論としては、内村の言説を経緯的にたどると議論の破綻は歴然として存在します。

しかしそこに還元されない、なにか“ぶれない”信念を内村の歩みには見るようで、“師”のあゆみを堂々と「内村鑑三の性格は自由かつ独立でありました。その自由は矛盾を怖れざる自由であり、その独立は人との妥その間における先生の言説の矛盾を拾ひ上げることは容易であります。(中略)先生は一つの時には真理のある一面に百パーセントの絶対的重要性をおき、他の時には他の一面に同じく百パーセントの絶対的価値を認める非とでありました。すなはち先生は全体の釣合を考へて価値の相対的な関係を按排するところの体系的な人ではなく、一つの時に一つの真理に全力を傾ける預言者型の人物であつたのです。真理の把握において、この先生の往き方は決して誤謬であるとはいへません」と言い切る“弟子”の矢内原の師弟観には刮目されてしまうわけでございまして……。

ひとの矛盾をとやかく“いいつらう”のは簡単です。

そして、くだらない矛盾を指摘して、善処を促すのは同時に大切です。

それを混同してしまうと不毛になってしまうのが現実なのでしょう。

先づは、自己自身の矛盾を把握しながら、ひとさまに向かい合っていく他なりません。

ひさしぶりですが、「でっかくなりたいな」などと思った次第です。

宇治家参去自身が矛盾の当体であることは至極存じのことでございます。
しかし、その矛盾たるや……内村鑑三大先生の矛盾レベルから眼下に遙かにもそもそとする自己撞着のようにて、比べること自体がオコガマシイというのがその筋でゴザンスが、西田幾多郎(1870-1945)のいうような「絶対矛盾的自己同一」に至りたいな……それは俗の言葉でいえば、神聖なる、真正なる「でっかくなりたいな」と思うところで、吹けば飛ぶような自己自身でありまするけれども、そう思わざるを得ない……宇治家参去でした。

自己自身の存在に辟易としない毎日でありつつ、自己自身の存在が大好きな宇治家参去ですから、そのへんをレコンキスタしていこうかと思います。

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コメント

勉強するために大学に入りなおしたのに、体育会に入り今から公式戦に行かなければいけないうへのです。

昨日久しぶりに哲学をしたのですが(学問としてではなく、自己の問題としての)、考えれば考えるほど、行きつく先は自我の問題、一体全体「私」って何?ってところに帰着してしまいます。そして、そこから先は論理なんてものはもはや役に立たず、その代わりに信念とか呼ばれるようなものしか残ってないような気がします。

自己さらにはそれと世界との関係を論理的に考えていくと、どう考えても生きている意味などどこにもないし、必死に学問を修めてもそれが死というものによって、ペラペラと薄紙のように風に舞っていってしまうのであれば、さっさと永眠つかまつるのが正しい選択肢のような気がします。

にもかかわらず「私」がこうやって生きているということは、やはり微かながら「私」の中に信念と呼ばれるようなものが私を突き動かしているからに他ならないような気がします。

さしあたり、自己の矛盾(やってもしょうがないことに気づいているのに哲学をやる自分)を心に抱きながら、実存的に「世界」の中で徒手空拳をし続けようと思います。

投稿: うへの | 2009年4月29日 (水) 08時18分

うへのさんゑ

論理もへったくれもないけれども、酒のみはきとんと確保しつつ独歩する長谷川平蔵です。

体育会にはいったんですか!

マジで驚きました。

わたしも学部生の頃、二年ほど体育会に所属しておりました。
いわゆる武道系ですが……苦笑。

公式戦、本当にお疲れ様でした。

そこから哲学するなにかが迸るかもしれませんネ。

さて、
不思議なものですが、「心臓よ、止まれ!」と言っても「止まらない」ようにできているのが人間です。

外野的に徒手空拳をとやかく批判することは簡単ですが、最近、その徒手空拳にも「意味」があるのだろうと実感するところです。矛盾と丁寧に向かい合う中で、人間とは何かのヒントが出てくるのだろうと思います。

ホンマ、公式戦、お疲れ様でした、。

結構疲れたのでは?


投稿: 宇治家参去 | 2009年4月30日 (木) 00時14分

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