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根本はしっかりとありながらも、様々な表現を使えた方が美しくありませんか?

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 最後に、一つ全く別種の手段--それは、われわれの西洋文明がほとんど気づかずにいたもので、人間精神に無限の発見分野を提供するようなものである--が存在する。それは、精神的手段が現世の領域に組織的に適用されるものであつて、そのめざましい一例は、ガンジーの「非暴力非協力運動」(Satyagraha)である。わたくしは、これを「精神的戦闘の手段」と呼びたい。
 周知のように、Satyagrahaは「真理の力」という意味である。ガンジーは、政治的および社会的行動の道具ないし手段としての「愛の力」とか「霊の力」とか「真理の力」の価値を絶えず主張した。かれは言った、「忍耐と自発的受難、苦難を敵の肩に負わすのでなく自分の肩に引受けることによってなす真理の擁護」それこそは「強者のうちでも最強者の武器」である、と。
 私見によれば、ガンジーの理論と実践的方法は、次のようなトーマス哲学の観念と関連させ、それによって解明されるべきものである。すなわち、トーマス哲学によれば、剛毅の徳の主要な働きは、攻撃という働きではなく、確固不抜な態度で忍耐し苦難をしのぶという働きである。したがって、戦闘(最も広義での戦闘)の手段の序列としては、二つのちがった序列があることを認めるべきである。すなわち、剛毅と勇気に二つの種類、攻撃する勇気と忍耐する勇気、があるように、戦闘の手段にも、強制とか攻撃の力と忍耐の力、或るいは、苦難を他人に負わせる力と、自分に負わされた苦難を堪える力、という二つの序列がある。われわれは、人間の本性の両側面にそって別々にのびている二とおりの鍵盤を有する、--二つの鍵盤の出す音が絶えず入り混じってはいるが。すなわち、攻撃や強制によって悪に反対すること--これは、最後の場合には、相手の血を流すことになってもやむをえないとする道であると--と、受難や忍耐によって悪に反対すること--これは、最後の場合には、自分の生命を犠牲にすることになる道である--精神的戦闘の手段は、この第二の鍵盤に属するものである。
 精神的戦闘の手段とは、このようなものである。この手段、すなわち忍耐することにおける勇気に特有の手段は、剛毅の徳の主要な働きに相応するもので、かくして、ガンジーの言うように「強者のうちでも最強者」の特権である。わたくしは、かなり以前の著作の中で、この手段は、最も実行困難ではあるが、本来最も強力な手段でもある理由を説明しようと試みた。
 ガンジー自身、この手段は、東洋で用いられたように、西洋でも用いられると確信していた。ガンジーの天才的偉業は、政治活動の特殊な方法もしくは技術として忍耐と自発的受難を組織化した点にある。精神的価値に重要性を認める人々は、ガンジーの方法に従うにしても、または、なにか今後発見されるべき新しい方法によるにしても、いやおうなしに、このような線に沿った解決に導かれることであろう。このような精神的戦闘の手段は次の三種類の闘争に特に適切であろうと、わたくしは考える。第一に、他民族に支配されている民族が自己の自由を獲得しようとする闘争(ガンジー自身の場合がこれであった)。第二に、人民が国家に対するコントロールを保持または獲得しようとする闘争(これは、われわれがここで検討している問題に関係している)。第三に、キリスト教徒が、文明を実際にキリスト教的なもの、すなわち、実際に福音によって導かれているものにすることによって、それを変容させようとする闘争。 (わたくしは、ここに次のような考えを述べておきたい。すなわち、第二次世界大戦後に政界に現われたキリスト教的精神を持った諸政党が、人々からかれらに期待されたことがらについて、もっと深い自覚を有していたならば、かれらは、手段の問題のかの側面、すなわちなにかガンジーのものに類似する新しい技術の発見という問題に最初から専心したことであろう。)
    --ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、昭和37年。

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例えば、なにがしかの理念を実現させるための具体的実践が議論になると、「これしかない」という革命家的言説が登場するのが現実の世界には多いことをつくづく実感します。

ここでいう「これしかない」というのは、あらゆる選択肢を批判・吟味した上で「これしかない」という「これしかない」ではありません。

ヨリ精確に言うならば、あらゆる文化的背景や精神風土を完全に無視した上で、これを実現するには、「これより最上の策なんてないから、文化とか個人的出自的背景とかそうしたクダラナイものを踏まえずに、これでいけばイインダヨ」っていうやつです。

そうした一方的弾呵がうまく機能する場合もこれまた現実には存在しますが、割合としてみるならば、そうではないという方が実際のところ多かろう……と思うことしばしばです。

例えばキリスト教の歴史をふり返ってみるならば、ユダヤ=キリスト教文化圏以外の土壌にその信念体系が流布される場合、これまでは、まさにヨーロッパでの「流儀」をそのまま「完全に」「輸出」することに専心されたのがその歩みであります。

たしかに「かわらない」核は現実には存在しますし、それを変える必要は全くありませんし、それを当該の文化とか風習に変容させてしまうことは、そのユニークネスを失う愚挙にほかなりませんし、生みだされるのは浅薄なシンクレティズムとか、日本人の大好きなスピリチュアルに他なりません。そんなものは唾棄すべきでしょう

しかし、「かわらない」核と同時に「かわってもよい」部分も存在します。

そうした「かわってもよい」部分を、セットメニューのごとく、変化させてはならぬオリジナルと同一視してしまうところに、暴力とか不幸が発生してしまうのかもしれません。

マア現実には、被造物たる有限存在者としての人間には、その線引きの任務は至極困難なのは承知ではありますが、「これしか形はないんだよ!」と全てに対して言われてしまうと、引いてしまうのも事実です。

そうした反省をふまえ、出てきたのがキリスト教で言う「文化内開花(Inculturation)」という概念です。変わらないユニークネスとしての福音は確かに変わらない。しかし多様な地域や文化に内在化し、開花していく方向性はあるはずで、安易な混淆をさけつつ、異文化によってこそ「かわらない核」がかえって光だしていく方向があるはずだ……そうした模索が前世紀よりつづけられております。

それこそが調和の普遍性(カトリシズム)なのかもしれません。

ちょうど、講義の組み立ての関係上、ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)の著作をひもとくことが多いのですが、ガンジーそのものの著作だけでなく、様々なガンジー評を読むと同じように、「かわらないもの」を多様に理解するアプローチの手法に、唸らされることが時々ございます……これもガンジーだけに限定される話題でもございませんが。

うえに引用したのは、ネオ・トミズム(neo-thomism)を代表するフランスのカトリック思想家ジャック・マリタン(Jacques Maritain,1882-1973)の政治論からですが、なかなか味わい深く興味深い一節です。

ガンジーの偉業は偉業です。
しかしそのリアルな形態論は、様々な変奏曲があるはずです。
ガンジーの運動そのものを公民権運動にそのまま適用してもこれは成功しなかったのだろうとおもところです。おなじようにその逆も想像できます。

しかし両者の核は同じであるとすれば、この有限存在である人間の社会においては、その表現には幅があるはずで、実践事例として「このやり方しかない」ということはないはずなのでしょう。

まさに……それこそが「文化内開花」というやつです。

根本はしっかりとありながらも、様々な表現を使えた方が美しくありませんか?

……などと考えながら、夕食の残りの天ぷらで、「鳴門鯛」((株)本家松浦酒造販売・徳島県)でやっております。

四国の酒は、高知県をのぞき、比較的甘口一辺倒なのですが、この徳島の地酒、辛いくらいに辛いです。そして、味わい深い一品です。

それが、実家から送って下さったタラの目とか、ふきとか、そのあたりの春の旬彩の天ぷらなんかでやっておりますと……進むわけですが……。

箸でとりつつやっていると、莫逆の後輩から電話が一本。

公私共にいろいろとトラブルがあり、修士2年目を休学していたようなのですが、この4月より復学とのお知らせ……。

電話ですが1時間弱にわたり近況交換です。

金曜日の昼過ぎにアポイントのきまりのようにて、相互激励になりそうです。

議題が電話にて中断し、再開しましたものですので、かなり認識論的飛躍が存在しますが……それはいつものことでしょ!……ご容赦下さいまし。

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