手なれたこと以上にましなことなど、まったくない
-----
七五(845-46)
有能な職人や学者が、おのれの技術に誇りをもち、満ちたりたまなざしで生をながめるときには、立派にみえる。これに反して、靴屋とか教師が、じつは自分はもっとましなことをするように生まれついているのだと、悩ましげな顔つきをしてわからせようとするのを眼にするときにもまして、傷ましいことは何ひとつない。手なれたこと以上にましなことなど、まったくない。そして手なれたことは、なんらかの有能さを身につけ、それから創造すること、ルネサンスのイタリア語の意味での徳virtuのことである。
国家が馬鹿げてふくれあがった今日の時代には、すべての分野や専門において、本来の働き手のほかに、なお「代表者」がいる。たとえば、学者のほかになお文筆家が、苦しんでいる民衆層のほかになお、その苦しみを「代表する」饒舌なほら吹きの無能者がいる、--おのれは裕福な暮らしをしながら、厚かましくも議会では困窮状態を「代表する」職業政治家は言わずもがな。私たちの現代生活は、一群の仲介者たちによってこのうえなく高価につく。これい反して古代都市では、またその名残をとどめているスペインやイタリアの多くの都市でも、自分みずから打ってでて、現代のようにそうした代表者や仲介者をなんら重んじなかった--足蹴にすることはあったとしても!
--ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 上 ニーチェ全集 12』筑摩書房、1993年。
-----
その筋の緻密な専門家とかオーソリティーから表現するならば、「それは誤読にほかならない」と弾呵されてしまうのは承知ですが、不思議なもので、ワタクシの場合、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)を読むと、盛り上がってしまいます……といいますか、元気になってしまいます。
譬えは変ですが、マアこれは太宰治(1909-1948)を読んで「生命力充填!」という読後感の状況に近いものかもしれませんが、両者がニヒルなものを超越した地平を目指していたものであるとすれば、あながち間違ってもいないよな!……などと思うこと屢々です。
これはニーチアンでもアンチ・ニーチアンでもないからなのかもしれませんが、ニーチェのニヒリズムへの超克への志向を「ぼそっ」とその華麗で苦渋に満ちたアフォリズムから聞きとると、そう思えて他なりません。
よくある話ですが、現状も大切にしながらも、目指すべき範型をも大切にする人間の顔とは美しいものだよなと実感します。
しかし、現状をそれなりには「こなしながらも」、「本当のおれは違うんだゼ」と範型も理念もなにもなく、うだうだやってしまう顔は、単なる恨み節にほかならず、そこには現実を陶冶する生命力もなければ、気力もないのでしょう。
その心根がニーチェのいうルサンチマンにほかならないと思います。
勝他に走ると恨み節に流れがちです。
勝自をもくもくと積み上げていくしかありません。
しかし、それが支配-被支配の構造(的暴力)の所与の価値観に組み込まれているそれであればその成就は難しいのかも知れません。
手なれたこと以上にましなことなど、まったくない。
手なれたことをけなす・引いてしまう・恥ずかしがるところには、「展望」は存在しないのでしょう。
人間よ!
胸を張れ!
……仕事をしているなかでつくづく実感します。
それが今、性(しょう)に会わないことのほうがほとんどです。
であるとしてもそこにしかその足下を突破する翠点は存在しません。
「悩ましげな顔つきをしてわからせようとする」ことなんか必要ありません。
一瞬一瞬の実存の中にこそ、自己自身の過去・現在・未来が内在するのでしょう。
そのへんを「丁寧」に生きていくしかありません。
よく宇治家参去は他者から云われます。
「宇治家参去さんは、“丁寧”ということば大好きですよネ」
「ハイ、その通りです」
……なぜなら、その一挙手一刀足のなかにしか自分自身は存在しませんから。
感情として恨むことは人間ですから払拭できません。
だからこそ、恨みの念はあったとしても、その地平に輝く自己自身を雄々しく見つめながら、現実を薫陶していくほかにありません。
だからこそ「丁寧」に生きていくしかないのです。
なぜなら「手抜き」の仕事よりも「丁寧」な仕事の方が気持ちいいでしょ!
そこに生命力は宿るのかも知れません。
今の生活がいやだ!
そんなことはどこにでもある話です。
しかしその舞台(部隊でもイイデスヨ)から降りることは不可能です。
であるならば、「丁寧」に生きていきましょうヨ!
そして、自己自身の理念とか想念を他者に「代表」して、ルサンチマンする必要なんかないんですヨ。
「代表」されるということは「代表」という存在者はあったとしても、それこそが「自己自身」ですから、そこに愚痴とか恨みを挟む方が、反価値なのではないでしょうか……。
そんなことを、ニーチェの言葉からよく考えさせられます。
……などとやっていると、いい時間です。
明日……もとい……今日ですネ!……は、また朝一番で大学です。
大学の講義が終えるとそのまま市井の仕事というハードな一日なので、早く寝ないとまずく、そして運悪く、最近、結構寝ないと体力・精神力が回復しないというジレンマに陥っていますので……なおさら早く寝ないといけないのですが、卒業生より頂いた「箱根のしずく」(本醸造生貯蔵酒・石井醸造株式会社・神奈川県)を飲んでいると、ひさしぶりの「甘口・濃厚」のようにて……いい感じ!で目が冴え、もうひとふんばりできそうです。
箱根系の初しぼりとか冷やおろしは何度か頂いたことがあるので、イメージ的には「鮮烈・淡麗」というイメージでしたが、そうした想念を破壊する一酒のようにて、ひとつの対象を多角的にアプローチできる契機として実にアリガタイものでございます。
……ともあれ、箱根といえば伊豆半島と一体化した温泉地との印象が強く、「場合によっては、静岡県?」などと夢想しがちな部分が強烈にあるのですが、よくよく銘柄をみると「神奈川県」のようにて、「神奈川県」の「温泉」に、チト足を伸ばしたくなった次第です。
そのうち、暇ができればだれか逝きます?
| ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) 著者:フリードリッヒ ニーチェ |
| 固定リンク
「哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事
- 「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」ほど恐ろしいものはありません(2009.11.10)
- はずせないので、はずせませんが、甘受もできず・・・という状況認識(2009.10.29)
- 「「我」が「汝」に出会う「関係」こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況」でありますから……(2009.10.16)
- 考える生活(2009.10.15)
- 不幸にして吾人は宗派に捉へられ、民族に捉へられ、本来しかあるべき人格を作り上げて居ない(2009.10.14)




コメント
ぐてーんもーげん。うへのです。
新学期のあまりの忙しさに埋没しておりました。
さて、「現状も大切にしながらも、目指すべき範型をも大切にする人間の顔とは美しいものだよな」とのこと。私も全くそう思います。現実の自分状況を受け入れながら、絶えず自分を超克しようとする人の美しさは筆舌尽くしがたいです。さらに、これが女性で美しい外見を所有なんてしていたら・・・こういう時に萌えるという言葉を使うのでしょう。
もっとも、それが美しいのは宇治家さんがおっしゃっていられるように、「オレはさ~」とか「今の私は本当の私ではなくて~」とか自分の現状を受け入れきれず、本来先にあるはずの姿を今自分に重ねてしまうような不謙虚さであってはいけないのです。外へと顕れる行為はあくまで謙虚さを漂わせていること。これが本当に美しい。
私事になりますが、最近別れた女性が現在就いている仕事と理想のあるべき姿の職業に就いている自分との断絶に人知れず泣いているのを見て、感動した次第であります。自分がなぜこの女性とつきあっていたかが如実にわかりました。
人間の美しさとはなんであるか、改めて確認させられた次第であります。
投稿: うへの | 2009年4月20日 (月) 08時31分
うへのさんゑ
先ずは、ご入学おめでとうございます。
実は、自分も教鞭をとるになってからの自覚と学生自分の記憶を思い寄せると、この季節が、ぶっちゃ一番いそがしいですネ!
寒暖の差が朝夕激しい季節ですのでご慈愛専一心よりお祈り申しあげます。
また、探究の伸展、こころよりお祈り申しあげます次第です。
……で。
ニーチェが批判した「畜群」の現状はまさにご指摘の通りですね。しかしそれで「終わるわけにもいない」のが人間であるからこそ。喜怒哀楽の一コマ一コマに「美しさ」が迸るのだと思います!
「オレはさあ~」とか「本当はなあ~」とかしたり顔で、さも人生をさとったかのように、現状も未来も、そして過去をも、真剣にとらえようとしないところには美しさなるものは存在しないのかもしれません。
うへの様の新年度のよりの探究の積み重ね祈るばかりです!
投稿: 宇治家参去 | 2009年4月21日 (火) 03時35分