« ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。 | トップページ | ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している »

人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし

01img_0201

-----

 願望を見つけ出し、そして次に、それを充たすための道を求めるというのが、人間の創造的能力である。しかし、このことは、願望が意欲でも実践でもないという点に、何ら変更を加えるものではない。実践には選択するということが、つまり、或るものに賛成または反対の決意をするということが含まれており、そうであるからこそ、<それ自身においてこの上なく弁証法的なものである実践的な反省>は、実効的なのである。私が或るものを意欲するとき、或る反省が起こるが、この反省を介して、私は分析的な過程のなかで達成可能なことをはっきりと意識するようになる。つまり、私がこれこれのことをもとうと意欲するとき、私はこれこれのことをもたなければならない……。このようにして、私は結局、<私の手のうちにあるもの、つまり私自身が着手することのできる地点>にまで遡ることになる。アリストテレスの言葉を使って言えば、実践的な三段論法の帰結Schluß、つまり実践的な熟慮の帰結は、決意Entschlußなのである。ところが、この決意と、そして意欲されたものから<実行sareurukoto>へと至る反省の道筋全体とは、同時に、意欲されたものそのもののひとつの具体化である。というのも、実践理性は、ある人が、自分が善いとみなしている或る目的を自分の達成可能性に照らして反省したり、実行可能なことを行ったりするという点に成り立つだけではないからである。アリストテレスは、立てられた目的のために超感性的な手際を見せて適切な手段を見出す機知、すなわち、至るところで嘘をついて逃れたり、至るところで自分を欺いたり、至るところで言い繕ったりする単なる機転を、非常にはっきりと識別している。このような詐欺師的な目敏さは、決して現実的な「実践理性」ではない。実践理性において重要なのは、例えば、あらゆる技術的な合理性に対して一線を画するもの--すなわち「普遍的なもの」という目標それ自身が、個別的なものを通してその規定性を獲得するということ--である。このことは、われわれの社会駅な経験の多くの領域において知られている。われわれはそれを、例えば、すべての時代の法律学から知っている。法律が定めているもの、つまり、法律のひとつの事例が何であるのかは、致命的な形式主義者の観点においてのみ一義的に規定されるのである。法発見とは、真実正しいこと--もしくは法--が具体化されるよう、事例と法律を一緒にして考えるということを意味する。それゆえに、往々にして、裁判、すなわち、すでになされた諸々の判決が、法の体系においては、裁判を行なう際の基盤となる普遍的な法律よりも重要なものとみなされるのである。このことは、たしかに、普遍的なものである規範の意味が具体物においてしか、また具体物を通してしか実際に正当化され規定されないというかぎりでは、正当である。そのようにしてしか、ユートピアの実践的な意味も充たされない。ユートピアも、決して行為を指し示すものではなく、反省を指し示すものなのである。
 以上のことが、実践に特徴的な諸形式である。人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし、自分の行為を通して、共通の要件を共同で決定するのである。
 したがって、実践はたしかに、抽象的な規範意識にだけ基づいているのではない。実践は、常にすでに具体的に動機づけられており、たしかに先入見に囚われてはいるが、しかし、先入見に囚われているさまを批判するためにも呼び出されるのである。われわれはいつも、諸々の因習によってすでに支配されている。あらゆる文化において、その文化独自の意識を完全に逃れた自明性の系列が通用しており、伝来の諸形式や習俗や習慣が最大限解体された場合でさえも、共通性がなおも万人を規定しているのであって、それがどの程度のものであるかが隠されているだけなのである。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二・座小間豊訳)「実践とは何か--社会的理性の諸条件」、『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。

-----

市井の職場へ行くまで自室にてずんやりと、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)を読みながら、思索を深めておりますと、十姉妹のピーちゃんが来訪されました。

ワタクシの部屋、すなわち、仕事場ということですが、基本的には、物置状態の一室に、間借りをしているような部屋ですが、仕事の資料がこれまた最近、溢れ出し始めましたので、ぼちぼち片づけないとマズイわな~などと自覚はしていたのですが、この十姉妹のピーちゃんは、至極ワタクシの部屋がお気に入りのようです。

なにゆえなら、物(本)を積み重ねている状況ですから、比較的とまるところが多いようですので、部屋の中で解放するとよく、おじゃまに来ます。

ただしかし、この御仁、昔飼っていた方きくと「こんなにさえずる十姉妹ははじめてだ」と評されたごとく、かなり一日中さえずっておりますので、真剣に何かをやろうとするときには、チト遠慮してほしい……ということで、退出していただきました。

手にのせて、隣の部屋へ運び申しあげましたが、またご来場のようで、ちと休憩しつつ、戯れさせていただきました。

しかし、チト片づけないとまずいです。

いつも使っている『倫理学』の教材が、どこかの本の山の中に「お隠れ」遊ばされているようで、予備の教材はあるのですが、自分用にネタを書き込んだ使い慣れたヤツのほうが、やっぱり使いやすいものですから、今度の休みに、捜索隊と聖僧・設営部隊を派遣しようかなと思う次第です。

さて……。
ピーちゃん、退出後に、細君が入場。

先ほどまでピーちゃんと「遊んでいた」ものですから、朝からずんやりと「遊んでいた」ように思われ、それに対してコチラとしては当惑せざるを得ないのですが、

1万2千円を「何故か?」渡してくれました。
稼ぎが少ないところに由来するわけですが、必要経費以外お小遣いというヤツがない宇治家参去です。必要経費とは煙草代、交通費、(どうしても必要不可欠な理由を報告書に書いて申請してその認可がとれた)書籍代以上!ということになりますので、余裕をもって何かをするとか遊ぶ場合、自分の持っている「オタカラ」を売却し、それに充填しているのが現状で、こうした出所不明の?お金を渡してもらえるのはかなりレアなことにて……、

「お金でも貸したっけ?」

……という具合で、伺うと、

「定額給付金」のようでございました。

政策立案者と事務的手続きに携わる皆様ありがとうございました。

この話がきまったとき、

「それぐらいは、自分に自由に使わせてくださいまし」と懇願しておりましたので、その申請が認可されたようで、今月はアンティーク腕時計を売却せずに済ませそうでなによりです。

「酒とかに使うのなら、そのアレで、どこか旨いもので食べさせに連れて行ってよ」

……人生とは難しいものです。

まさにガダマーのいうとおり「実践に特徴的な諸形式である。人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし、自分の行為を通して、共通の要件を共同で決定するのである」ものなのでしょう。

とりあえず、「越の柏露純米酒」(柏露酒造株式会社・新潟県)でも飲んで寝ます。
今日は授業なので……酒臭いというわけにはいきませんので。

しかし、この「柏露」!
思った以上にバランスのとれた味わいです。

02_r0013488 03_r0013493

Book 科学の時代における理性 (叢書・ウニベルシタス)

著者:ハンス・ゲオルク ガダマー
販売元:法政大学出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。 | トップページ | ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している »

告白・独白・毒吐の日々」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 人は、自分の自由な裁量で計画を実行することによって「行為する」のではなく、他者と互いにあい携えて行為しなければならないし:

« ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。 | トップページ | ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している »