誰かを責めることが出来ません、責めるのは世界のただ中の自己自身でOKです
このところナイーヴなヘッセ(Hermann Hesse, 1877-1962)をずんやりと読んでいる、ナイーヴでナーヴァスでチキン野郎である宇治家参去です。
ヘッセの醍醐味は、その特殊な個的なナイーヴさを、全体に関わる普遍の次元へ作品として見事に示して見せたところにあるんだよな!……そのことを“内面の書”と呼ばれる『シッダールタ』を再読しながら実感です。
これで3度目です。
3回読みましたが……原典で一度、その折りは演習の教材だったので必然で辛かったデス……、今回はこれまでくすぶっていた疑惑が今回解消したようで、チト綴っておきます。
周知の通り、いわゆる文庫本の帯書き(紹介文)なんかをひもとくと、つぎのような作品です。
すなわち……
「シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。……成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに到るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品はヘッセ芸術のひとつの頂点である」(新潮文庫版、裏表紙紹介文)。
たしかに、シッダールタという名前は、仏陀になる以前の釈尊の俗名です。
作品では、釈尊の成道前の釈尊を辿るといよりも、シッダルータという名を持つ探究者の魂の遍歴を探究するというストーリーです。
シッダルータと聞けば、成仏前の釈尊の俗名ですから、成仏前の釈尊譚にひっぱられてそれを実存として読んでしまうと極めて違和感を感じてしまいます。なにしろ登場人物のひとりとして、歴史的存在者としての仏陀が登場しますから。
そのイメージに引っ張られたママ、この作品を読んでしまいますと、すなわち仏陀の成仏するまでの遍歴におけるヘッセの真読などと読んでしまうと……喉に刺さったトラウト・サーモンの小骨のような後味を残してしまいます。
しかし、ヘッセの独白の試みは、そんなところにあったのではないのかもしれません。
今回、読んでみますとまたまた違う読後感を味わい、「ひとつこいつァ~残して置かなければならねエべ」……というわけでこだわってみました。
ちょうど……
著名なバラモンの息子としてシッダールタは将来を約束され、その任務に対しておつりが出るほど、聡明かつ他者の声にならぬ声に耳を傾けることのできる素晴らしい青年として成長したにもかかわらず、本物の真理なるものを求め遍歴し、苦行を経験する……ホォォ!と読みながら、市井の職場での休憩を楽しんでいたわけですが……いきなり苦情……ではない……けれども苦情?のような電話にて、宇治家参去の読書も中断、というわけで、現実の泥臭い・どぶ臭い・そしてそれそのものが人間の真実である現場に引き戻された次第です。
ちなみに宇治家参去はバラモンではなく在家です。
で……
取り次ぎの方から受話を代わり内容を伺うと……、
※それはかなり端折った要約になりますが……応対そのものは……ひさしぶりの30分オーヴァーというやつで……、
要は……、
「子供が親にだまって、PSPを買って帰ってきた!」
「しかも、親の財布から黙ってお金を失敬して買って帰ってきた」ようなのですが、そうした小さな子供(小学生)が高額商品を購入する際に関して、「そうした不具合を防ぐような販売上の内規は貴社にはないのか!」
……そういうところです。
購入者の子供さんが、ご両親のお財布からチト福澤諭吉大先生を失敬して、親に黙って商品を購入したわけですが、販売側はなどうして何も確認しなかったのか!……ということのようにて、
マア御社はどうなっているの?
……というわけです。
……結局しらべると、
「お父さん、お母さんからもお祝いで貰って、イイヨっていわれているからダイジョブ」などと販売履歴のようにて(現実に対面販売をした担当者の確認およびPCのログ的記述からももそうなのですが)。
現実にはこの季節にはこうした事例以外にも「リアルに許容された」事例として購入される方が多いわけですが、小中学生が、新年度のお祝い!というかたちで、ひとりで購入しにくることも結構あります。
「会社の内規」的にも「面前コミュニケーション」における最低限の確認はしているわけですが……。
こうした場合、へんな話で、若い正義感のある革命家からはそれは「ゴマカシ!」だろと釣り仕上げられ、文化大革命のごとく「自己批判」を強要されるのも承知ですが……、
そうした「どちらかが正義」というレースを、こうした場合、追求しても無益なことは承知ですし、親としても「返品できれば、OK」というのがひしひしとつたわってきておりましたので、……
「大変、もうしわけございませんが、当方も確認はしたようなのですが、お祝いでご購入とご本人様より伺いましたので、二次確認(この場合だと、親権者への購入の意の確認)を行き違いがあったようで、申し訳御座いません。御返金にはこれから参りますので……」
……ということで案件、クローズ。
ただし、宇治家参去自身としては、そのお子様も、親御様も責めたい!とか、販売した担当者……しかし担当者も内規のギリギリまで手順は踏んでいるわけで……それを責めて、ののしろうとか決して思うことが出来ませんでした。
その親御様も、マア販売者の責任は享受しようとも、家庭側の不手際?もあったりて、どっちかをせめて「鬼の首」をとるというスタンツもなく、最終的にはちょうどよいディメンションにてクローズしたのがなによりです。
たしかに、財布から大枚を盗んで購入しようとした当事者にも問題はあるわけですが、最終局面で購買判断を下したこちら側にも問題はあるわけですけれども、その応対をするなかで、なにか……どちらも批判することは「わっしにはできねえでござんす」、というのが小房の粂八@鬼平犯科帳の独白のような実況です。
これは宇治家参去の性根に由来するのかもしれません。
なにか対象を「完全なる悪」として対置できない性根とでも謂えばいいのでしょうか。
相手を相対(あいたい)して自己自身を安全圏におきたくないとでもいえばいいのでしょうか。
数時間後、当事者を連れ去り、ご両親が来店、返品処理をさせていただきました。
子の教育・躾のことを外野のざわめきとして「とやかく」「いいつらう」ことは簡単です。しかし、それをふまえたうえでの「おまえそのものは何者よ」っていう自覚と許容性がないと、共同体はギスギスしてしまうものかもしれません。
……って例の如く、支離滅裂デスヨネ。
このあたりで寝ようかと思うのですが、
ヘッセの『シッダルータ』を読む中での実況をひとつ。
実は、この“シッダルータ”は釈尊そのものではなく、自家仏乗した舎利弗とか目蓮尊者ではなかろうか……苦行も経験した、遊楽も経験した、そうしたところをふまえたうえでの「人間とは何か!」を探究した先達たち……と、思う次第です。
しかしながら、仏教思想史をふまえると、舎利弗と、目蓮尊者は、リアルな仏陀との出会いがなければ成仏はなかったわけで……おまけのようにいえば、こうした二乗は大乗仏教的な発想における。成道の師に相対しなければ二乗成仏は可能でなかったわけですが……かなり……飲んでいます。
合掌!
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傷はなお長い間うずいた。むすこやむすめを連れた旅びとを、シッダルータはいくたりも対岸に渡してやらねばならなかった。こういう人を見るごとに、彼はうらやましくなって、「このようにたくさんの人が、幾千という人が、この上なく恵まれた幸福を持っている。--どうして自分は持たないのか。悪人でも、泥棒でも、子どもを持ち、愛し愛されている。自分だけはそうでない」と考えた。いま彼はそんな単純に、知性を持たずに考えた。それほふぉ小児人に似てしまった。
いま彼は前とはちがった目で人間を見るようになった。前ほど賢明に、見くだすようにでなく、もっとあたたかく、もっと強い関心と同情をもって見るようになった。普通の種類の旅びと、小児人、商人、軍人、女たちを舟で渡すときも、これらの人々が昔のように無縁には思われなかった。彼は彼等を理解した。理解して、思想や見識によってではなく、ひたらすら本能や希望によって導かれている彼らの生活を共にした。そして自分を彼らと同様な人間と感じた。彼は完成に近づいており、最後の傷を忍ぶ身であったが、これらの小児人は自分の兄弟であり、彼らの虚栄や欲望やこっけいな所業も彼にとってはこっけいでなくなり、理解できるもの、愛するに値するもの、それどころか尊敬すべきものとなった。子どもに対する母の盲目的な愛、ひとりむすこに対するうぬぼれた父の愚かな盲目的な自慢、装飾や賛嘆する男の目を求める若い虚栄的な女の盲目的な激しい努力、これらすべての本能や、子どもじみた所業、単純でばかげているが度はずれて強い、強く生き、強く自己を貫徹しようとする本能や矢久保魚は、シッダールタにとって今はもはや子どもじみた所業ではなかった。そういうもののために人間が生きているのを、彼は見た。そういうもののため、はてしもないことをなし、旅に出、戦争をし、はてしもないことを悩み、はてしもないことを忍ぶのを見た。そのゆえに彼は彼らを愛することができた。彼らの煩悩のすべての中に、彼らの行為のすべての中に、彼は生命を、生きているものを、破壊しがたいものを、梵(ぼん)を見た。盲目的な誠実さ、盲目的な強さと粘りにかけて、それらの人々は愛するに値し、賛嘆するに値した。彼らには何ひとつ欠けていなかった。知者や思索家が彼らにまさっているのは、ただ一つのこと、ただ一つのごくささいな小事、すなわち、いっさいの生命の統一の意識、意識された思想にすぎなかった。そしてシッダルータはおりおり、この知識や思想がはたしてそんなにはなはだしく高く評価するに値するかどうか、それも思索人の、思索小児人の児戯ではないかどうか、疑いさえした。ほかのすべての点では、世俗の人間は賢者と同等であり、往々賢者よりはるかにすぐれていた。動物だってのっぴきならぬことを迷わず粘り強くすることにかけて、しばしば人間に立ち勝っているように見えることがあるように。
シッダールタの心の中で、いったい知恵は何であるか、自分の長い探究の目標は何であるか、ということについての認識と知識が、徐々に花を開き、熟していった。それは、あらゆる瞬間に、生活のさなかにおいて、統一の思想を考え、統一を感じ呼吸することができるという魂の用意、能力、秘術にほかならなかった。徐々にそれが心の中で花を開き、ヴァズデーヴァの老いた童顔から反射した。すなわち、調和が、世界の永遠な完全さの認識が、微笑が、統一が。
--ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『シッダールタ』新潮文庫、平成四年。
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シッダールタ (新潮文庫) 著者:ヘッセ |
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