ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。
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かあさんチル そうそう、娘さんいかがですか?
隣のおばあさん まあまあというところですよ。まだ起きられませんでねえ。医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。クリスマスのプレゼントにってね。あの子のたった一つの望みらしいんですが……。
かあさんチル ええ、わかりますわ。チルチルの持っているあの鳥でしょう? ねえチルチル、お前あのお気の毒な娘さんにどうしてあれをあげようとしないの?
チルチル なんのこと、かあさん?
かあさんチル お前の鳥ですよ。あの鳥いらないんでしょう。もう見むきもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ。
チルチル ああ、そうだ。ぼくの鳥どこにある? あ、あそこにかごがある。ミチル、あのかごをごらん。あれは「パン」が持ってたかごだよ。そうだ、そうだ、たしかに同じかごだ。だけど鳥が一羽しかはいってないよ。「パン」のやつ、あとの鳥食べちゃったのかな?やあ、ほら、あの鳥青いよ。だけどぼくのキジバトだ。でも、でかける前よりずっと青くなってるよ。なんだ、これがぼくたちさんざんさがし回ってた青い鳥なんだ。ぼくたちずいぶん遠くまで行ったけど、青い鳥ここにいたんだな。ああ、すばらしいなあ。ミチル、この鳥見たかい? 「光」はなんていうからしら? ぼくかごを降ろそう。 (いすに上ってかごを降ろし、隣のおばあさんのところへ持って行く) さあ、これ、ベルランゴーのおばさん。まだ本当に青くはないけれど、いまにきっと青くなりますよ。さあ、早くこれを娘さんに持って行ってあげてください。
隣のおばあさん まあ、本当ですか? こんな風にただで、すうぐにいただいてしまっていいんですかねえ。まあまあ、あの子がさぞ喜ぶことでしょう。 (チルチルにキスしながら)キスさせてくださいよ。では早速ですが失礼しますよ、さようなら。
--メーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』新潮文庫、昭和三十五年。
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5月中旬に北海道・札幌市にて通信教育部のスクーリング講義にて、「倫理学」を担当する予定なのですが、ようやくその予定受講者人数の通知が届き、不開講にならなかったことに安堵する宇治家参去です。
今回は12名とのことで、懇談的(ゼミ的)にすすめるにはちょうどよい人数かなと思うところです。
これが5名だと真剣での立ち会いという状況ですし、その逆に100名を超えると、なかなかひとりひとりの受講具合に手が入りにくくなるのが現状ですから、まさにちょうどよいというわけで、今から楽しみにしております。
で……
どの教材でもそうですが、教材では様々な文献や言葉、エピソードを紹介しておりますが、そのひとつがメーテルリンク(Count Maurice Polydore Marie Bernard Maeterlinck,1862-1949、※Countが付いているので“伯爵”!)の『青い鳥』(L'Oiseau bleu)です。
倫理学とは、何かできあがった体系や公式を暗記し展開させる科目でもありませんし、語学のように作業を積み重ねる科目でもありません。しかし、哲学と同じようにメタ・フィジィークな批判精神にて現状と丹念に向かい合いながら、それはどうなのよっ?と問うわけですので、そうしたものの見方、すなわち倫理学の観点そのものをどうしても丁寧にお話しなければなりません。
これでほぼ1日の大半が終わってしまいますが、それぐらい大切なところなところで、基礎の基礎、竹刀を握る前の平常心のひとときとでもいえばいいのでしょうか……その部分です。
たとえ倫理学史を学んでも(それが無用ということでは決してありませんが)、その人間が倫理学を学んだかどうかは別の次元のような気がするところもありますので、この観点の講義は大切にならざるを得ません。
で……
倫理学の醍醐味は「関係(性)」、「~のあり方」を問う局面に存在します。例えばそれが「人間とは何か(私とは何か、他者とは何か、そしてその関係性は?)」を問いますし、対象との関係という点では、それは人間だけに限定されるわけでもなく、すべてがその対象になってくると行っても過言ではありません。
そのなかで、一番大切になってくるのが、スタート地点としての「身近なものごとに注目」するという観点でしょう。ともすれば、人は、「どこかに」「なにか」を置きがちです。たしかにそれはそれでOKよってこともありますが、そうではない部分の方が多いのが実情でしょう。
今の生活から超越したと思っても超越(先)を思い浮かべる、夢想するだけは超越は不可能であるように、超越しようとしても今の生活の状況に注目し、診断し、判断しない限り超越はあり得ません。まさに「生活」とは「生命の活動」の現場であるように、そこに眼を向ける必要があるのですが、それが観念とか感覚としては分かっていてもなかなかできるものでもありません。
だからこそ、それを最初に詳細にやるわけですが、そうした生活感覚のひとつのパラドクスを表しているのが、まさにメーテルリンクの『青い鳥』というわけです。
今は飲兵衛のナイス・ミドルと化した宇治家参去も昔、うら若き児童だったわけですが、その頃は原典ではなく絵本で読んだり、聞かせてもらったりしている話ですから、筋書きだけはわかっております。
しかし、実際に手にとって原本を読んでおかないことにはいくまい……などということで、詩人にして名訳者として知られる堀口大學(1892-1981)の手による邦訳ですが、ちょいと読んでみました。
クリスマスの前夜、貧しい木こりの兄妹、チルチルとミチルは、妖女に頼まれ、幸福の象徴である青い鳥を探しに行きます。
二人は、様々な舞台で青い鳥を見つけるわけですが、カゴに入らなかったり、捕まえると死んでしまったり……。
一年の旅の末、ふたりは結局青い鳥を捕まえることが出来ませんでしたが、二人は貧しい家へと帰ります。
帰宅すると……、そこで夢が覚めるという筋立てで、そこへ隣のおばあさんが来て、自分の病気の娘がチルチルの飼っている鳥を欲しがっているという。すっかり忘れていた自分たちの鳥を見てみると、驚いたことに「青い鳥」になっている。
驚きとともに、これを隣の娘にあげると、病気がよくなり、娘がお礼に現れる。そして二人が餌をあたようとすると、青い鳥は逃げてしまう……
そういうお話です。
しかし、再び読み直して驚くのは、チルチルとミチルの冒険が1年余りにも及んでいたということです。これは実際に活字と向かい合ってみないと気が付かないところです。
筋は知っていたのですが、ディテールを確認すると、それはマア、発見、発見の連続というやつで、まさに「灯台もと暗し」「青い鳥を求めてどこか違うところを探していた」というやつです。
これと同じ様な状況にあるのが、まさに「顧みる」に「値しない」と却下されてしまう日々の生活かも知れません。しかし、そこでフト立ち止まって確認してみると……それが丁寧に生きるということですが……驚きと発見があるのかもしれません。
で……。
例の如く、毎月一度は、細君が地酒専門店へ行かざるをえない要件があるのですが、昨日の朝出向いたようで、今回は『純米酒 越乃景虎』(諸橋酒造株式会社・新潟県)でございました。
『越乃景虎』……嫌いな酒ではありませんが、これまで真剣に飲んだことがなく、いちも2-3合飲んでから、途中でやるというセレクトで利用していことが多く、今回はじっくりと味わわせていただきました。
水の如くさわりなく飲みごごちとでもいえばいいのでしょうか。
純米酒がもつ米の旨味を感じることができました。
「青い鳥」はどこにいるのでしょうか?
自分自身の足下に内在しているのがその実情なのでしょう。
……ということで、来月、札幌へ参ります。
どこか旨いところをご存じの方、いらっしゃいましたら、ご教授宜しくお願い致します。
青い鳥 (新潮文庫 (メ-3-1)) 著者:メーテルリンク,Maurice Maeterlinck |
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