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「一本うどんが大好きな浪人さん」ではありませんが……

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 (どうも、おかしいな……?)
 〔鶴や〕を出て、小名木川沿いの道を万年橋の南詰から左へ曲がったときに、忠吾は、
 (おれを、だれかが尾(つ)けている……)
 と、おもった。
 そこは忠吾も、盗賊改方の同心であった。いうにいわれぬ勘がはたらき、どうも、すこし前から、うしろを歩いて来る何者かに尾行されているような感じがしたのだ。
 忠吾は、曲がり角の小笠原家・下屋敷の土塀に身を寄せ、いま来た道をうかがって見た。通行の人びとは多いが、それらしい者の姿はなかった。
 (おれの気の所為(せい)かな……?)
 それから忠吾は、そのことをすっぱりと忘れてしまい、深川の諸方を見廻ったのち、蛤町にある名刹・永寿山海福寺の門前へさしかかった。
 日は傾いていたし、かなり歩きもした。腹も空(す)いていたし、こうしたときに海福寺門前へさしかかったので、どうしても忠吾は、素通りはできない。
 というのも、門前の豊島屋という茶店で出している一本饂飩が、忠吾の大好物なのだ。その名のごとく、五寸四方の蒸籠(せいろう)ふうの入れ物へ親指ほどの太さの一本うどんがとぐろを巻いて盛られたやつを、柚子や摺胡麻、葱などの薬味をあしらった濃目の汁(つゆ)で食べるのである。
 すでに顔なじみの木村忠吾が入って行くと、顔見知りの、年増の女中が、
 「いま、空いておりますから……」
 と、海福寺の前庭が垣根ごしに見える奧の小座敷へ入れてくれた。
 豊島屋では忠吾のことを「一本うどんが大好きな浪人さん」と、見ている。
    --池波正太郎「男色一本饂飩」、『鬼平犯科帳 11』文春文庫、2000年。

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短大での講義の前は、たいてい時間が「せっぱ詰まっている」ことが多いので、駅蕎麦なんかでお茶を濁すことが多いのですが、いつも利用するJR八王子駅構内の「小竹林」……、江戸前風のさっぱりとした蕎麦が、この手の蕎麦屋のなかでは群を抜いて「ウマイ」といつも実感しておりましたので、比較的よく利用していたわけですが、大学の入学式に参加する前……

「何も食べていないし……」(※)
(※)朝はほとんど食べることがなく、大体、珈琲2杯で終了がほとんど。

……ということで、覗いてみると、

「工事中!」

しかたなく、駅から出て、京王プラザホテルの1Fに入っている「スターバックス」にて、マフィンとコーヒーで済ませた次第です。

で……。
月曜日。

駅を降りてから、例の如く、

「何も食べていないし……、大学へ到着してから授業をやる前に食べる時間もないし、直前にたべると眠くなるし、……時間の間合いはちょうど良い頃合いだよな!」

……ということで、向かうと、店がかわっておりました。

「いちょう庵」!

「武蔵野うどん」がうりのようで……吸い寄せられるように店内へ。

宇治家参去は、蕎麦、うどんの両刀遣いです。

ただし……
「○○うどん」でなければ「うどん」ではない!
「○○そば」でなければ「そば」ではない!

……という狭い了見は持ち合わせておりません。

それはエスノセントリズム(ethnocentrism)の言説にほかならず、○○うどん、▲▲うどん、××蕎麦、■■蕎麦の個性を破壊してしまう暴挙にほかならないと自覚しております。

ですから、

「水沢うどんでなければ、うどんじゃねエ」とも「真田蕎麦でなければ、蕎麦にあらず」と啖呵をきらず、だいたいにおいて……

「これはこれで旨いんだよな」

……そう思うことが殆どです。

ただし、これは味音痴にはあらず。

言うまでもなく、水沢うどんと銘打たれておっても、そのなかで、旨い・マズイというのがあり、稲庭うどんにおいても同様です。ようは、そのカテゴリーのなかで、どれが丁寧につくられているのかというのが問題であって、「○○蕎麦でなければ蕎麦にあらず」という言説は、カテゴリーの掛け間違えにほかならない……そう思う次第です。

エスノセントリズムの言説競争もおそらく、それはルサンチマンを体よく押し伏せたカテゴリーの掛け間違えに端を欲するのでありましょう。

さて……。

「武蔵野うどん」です。

東京都下で郷土料理として供されるのがそれですが、今から10数年前に始めた口にしたとき、その食感にたまげたものです。

讃岐うどんはコシが強いといわれますが、のどで味わううどんです。
その数倍上のコシの強さを誇るのが武蔵野うどんで、とてもとても「のどですすって」味わうというよりも、口の中で「格闘」して味わうと表現した方がふさわしいうどんですが、その野趣あふれる力強さと圧倒的な味わいには脱帽したものでございます。

粉は地産の小麦で、稲庭とか讃岐にくらべるとまったく「まっしろ」ではない麺、そして、一本一本が田舎蕎麦のごとくぶっとく、まさに「食べる」というのが武蔵野うどんの醍醐味で、かけ麺ではなく、もり蕎麦のような具合のつけ麺で、工夫のされたつけ汁に浸してたべるのがなんともいえません。

自宅の近くにも専門店があるので時々訪れるわけですが、こんなところでお目にかかろうとは……。

さて……。
その日は、「定番」と銘打たれた「肉ねぎ汁うどん」(580円)をセレクト。
いわゆる「駅蕎麦」の類ですから、すぐ出てくるよな……とまっていると甘かったです。1~2分は少なくともまたされてからだされたのが、笊にもられた饂飩様と、昆布と鰹節のほどよく効いた濃い目の汁!

「さあ! 闘うぞ!」

……ということで、人肌の温かさの饂飩をつけ汁につっこみ、口の中へ運びますと、マアそこはパラダイスというわけで。

つけ汁は「肉ねぎ」で、豚肉と葱をほどよく煮込んだ濃い目の汁で、この深みのあるコクのある味わいがなんともいえません。

漆黒ないし漆茶の濃い目の汁の色合いが、豚と葱を刺激し、それと一緒に、この太い武蔵野うどんを一緒に口へ運ぶと、「ので味わう」わけにはいきませんが、絶妙なハーモニーというやつで……。

堪能させていただきました。

どこにでもある「駅蕎麦」よりもちょい値ははります。
しかし、武蔵野うどんを手軽に格闘させてくれるにはちょうどいい値段です。

ことしはひとつ、全レパートリーの制覇をひとつ、目標に、早起きして大学へ行こうかと決意新たにした宇治家参去です。

で……。

武蔵野うどんを食べるたびに思い浮かべるのが海福寺門前の「豊島屋」の名物「一本饂飩」です。

うどんの色彩までは表現されておりませんが、太めの麺といい、濃い目のつけ汁といい、これも武蔵野うどんのひとつなのかもしれません。

火付盗賊改方のひょうきんな同心・木村忠吾は、このあと、男色の盗賊に「拐かされて」しまいますが、そうした懸念・不安を「すっぱりと忘れて」しまわせる醍醐味がその味わいにはあるのかもしれません。

ちなみに「いちょう庵」の饂飩、「親指ほどの太さ」はありませんが、むっちりした「小指ほどの太さ」はあり、充分その雰囲気は堪能できるかと思います。

お近くにお立ち寄りの際は、是非。

いつも、食べ物の話でスイマセン。
ただ、人間は仙人のように「霞を食」っていきていくことはできませんし、このような衣食住の問題は倫理学の問題としては、きわめて重要な問題であるがゆえに、こうして学の対象?になるわけです。

まさに「衣食足りて礼節を知る」とはこのことでございます。

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