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哲学者というものは、第一には自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している

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 哲学者というものは、第一には自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである。それ故に、彼が哲学者であるならば、彼は、この関係の中においても、哲学者であらねばならぬであろう。私の考えるところでは、彼が、隠者として、峻厳に、他の人間から離れ去って行った場合でも、そのことによって、彼は、一つの教えを、一つの模範を、垂れているのであって、したがって、他者に対しても哲学者なのである。彼が、己れの欲するがままに、どんな振舞をしようと、そんなことはかまわない。ともかく、彼の哲学者という存在には、人間に向けられた一面があるのである。
 哲学者が製作するものは、(彼の著作に先立って、何よりもまず)彼の生活である。それこそが、彼の芸術作品である。すべて芸術作品というものは、第一には芸術家が、第二には他の人間に、向けられたものなのである。--
 哲学者が、哲学者でない人々や他の哲学者たちに対して及ぼす効果とは、どのようなものであろうか?
 国家、社会、諸々の宗教等々は、皆、問うことができる。一体哲学は、これまで、われわれに対して、何を貢献してくれたであろうか? と。哲学は、現在、われわれに対して、何を貢献してくれることができるであろうか? そのようにまた、文化も問い得る。
 哲学一般の文化に及ぼす効果如何の問題。
 文化の解釈--現在一つの旋律を演奏させている、多くの、根源的に敵対的な、諸々の力の、旋律ないし、調子としての、文化の解釈。
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)『哲学者の書 ニーチェ全集3』筑摩書房、1994年。

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短大での哲学の講義、先週はガイダンスとちょいとだけ授業をしましたが、昨日よりいよいよ本格始動で、学生さんたちの反応をみていると、手前味噌ですが、今回は前年度にくらべると反応がよいことに驚きです。

ちと、最初の構成に工夫をいれてみました。
最初に、大学の授業というものは、これまで高等学校で履修してきたような科目や学問とその性質が著しく違うことを紹介です。

旧制大学のエピソードなどで、まったく授業には出なく、ひたすら原典を読み続けたり、もくもくと実験や観察をし続けることで、その筋の大家になった、というものがありますが、そこまで極端ではないものの、受け身として、何かを「もってかえる」ことを前提としては期待してはいけないという部分でしょう(もちろん、そうした作業的科目もありますのでそれは別としますが)。

いみじくもカント(Immanuel Kant,1724-1804)が「哲学を学ぶことはできない、ひとは哲学することを学ぶだけだ」と謂ったとおり、哲学とかそういった「大文字」の学問は、おそらく、発想と思考のきっかけを与えるだけにすぎず、教室の授業は、そろばん教室のように何か学び、それを練習する場所ではないのでしょう。むしろ、そのきっかけの道場としての授業は、思考の剣豪の如き修行としての道場であり、実際は、そこから自分自身が格闘していく……例えば、実際に本を手に取ってみるとか、考えた事柄を他者と対話のなかで摺り合わせていく……ところに、その本場とか醍醐味があるのかと思います。

いうなれば教室での一コマは、きっかけを与えているだけにすぎず、そのきっかけを自分自身で探究する作業こそがひとりひとりの教室であり、そこから本物の智慧とか実践が涌現してくるのではなかろうかと思う次第です。

その意味では、「入門」とは銘打たれておりますが、「知識」としての「哲学用語」とか「概念」を持って帰ってもらうというよりも、知識や概念に耳を傾けながら、自分自身で思索を重ねる、そして重ねた思索を全き他者と向かい合わせてみる……そういうところに重点をおくようにしながら、今回も組み立てていこうかなと思っております。

さて、今回は……
哲学とは日常生活とは全く無関係なシロモノではない意味で「内在」している点、そして「内在」でずんだらべったりではなく、内在しつつ、日常生活を「超越」していく反省の視座を同時に秘めている点を導入として案内し、そのうえで、語源としての哲学の意味(知を愛し求める)、哲学のスタート地点(アリストテレスの謂う「驚きから哲学は始まる」)を紹介し、なんとか終了です。

終了後、学生さんたちに、感想やよく分からなかった点を書いてもらう、出席カードに替えているリアクションペーパーを回収すると……、手前味噌を通り超え、「自画自賛」と唾棄されそうですが……上にも書いたとおり、反応がよく驚きとともに「ひとまずの」安堵です。

バットで頭も打たれたようだった
今日初めて受けた・これから真剣に話を聞いて考えていこうと決意できた
自分の考える力を養えるように積極的に取り組んでいきたいと思う
この時間はどっぷり物事や人の中身に対して掘り下げていく、吟味することができるので本当になかなかすてきな時間だと思います

……そうした期待を裏切らない授業を今後も目指して参りたいものです。

さて、最後に、哲学的探究とは、たしかに探究の主体の問題やスタイルからすると徹底的に排他的な存在者としての自己自身の内省・反省・省察がその主体として浮上せざるを得ません。しかしながら、徹底的に排他的な存在者としての自己自身は自己自身だけではなく、おなじような他者が存在している点を、決してわすれてはならない……どのように向き合うのかには様々なスタイルやアプローチがあるにしても……。だからこそ、徹底的に探究しながらも、決して孤立した「個人」としての「自己自身」だけではないんだよ……というところを忘れないように!というフレーズでしめくくりです。

「 哲学者というものは、第一には自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである」

このことは「哲学者」だけに限られた問題ではありませんが、なにか集中してやっておりますと、どこかそういう感覚をわすれてしまうので、時折自戒・警戒する必要がありそうです。

……などと授業を終えて、そのまま市井の仕事へ突入というのが月曜日なので、一番体力的にはつらい一日です。むかしはそれでも平気でしたが、最近は、24時に仕事を終えて帰宅すると、もう何もやる気がおこらず……、飲んで終わりです。

ちなみに、昨日の収穫は……「例の武蔵野うどん」……、『いちょう庵』の「武蔵野ざるうどん」をセレクトです。日中の八王子は、25度オーヴァーで、「もう夏やん!」という状況で、「ここはチト季節的には早いけれども、“ざる”でいくか!」ということで挑戦です。れいのごとく「噛んで味わう」うどんですが、きちんと冷やしたうどんが、冷たい付け汁にからまれると、汗が一気に引いてしまうというものです。

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