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「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」

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 友情とは何か。ギリシア人は友情を表わすために<<フィリア>>という言葉を使う。この概念は何と多くの次元にまで広がっていることだろうか。この概念は、人間的な共生の全形態を包摂している。取り引き上の信頼関係も戦場における友情も、そして労働における共同作業も、結婚や社会的な集団形成や政治的党派形成から生ずる様々な生活形態も、要するに人間的な共同生活全体がこの概念に包摂されている。われわれが今日でもなお政治的な友情とか、党派的な友情と読んでいるものは、この古いギリシア的な全体概念の最後の残響なのである。友情の本質には、ピタゴラス学派の古い言葉が述べるように、<<友人たちはすべてを共有する(koina ta ton philon)>>ということが属する。したがって友情は連帯感に根拠を置いている。友情という言葉の語感に惑わされて、消え去って久しい過去の生き生きとした生活状態の美しさがここで呼び覚まされているのだなどと考えないでいただきたい。真相はその反対である。人間の共同生活は、有効な連帯感という基盤以外のいかなる基盤のうえにも打ち建てられえないであろう。だから、あらゆる連帯感の喪失は孤独化の苦しみを意味するし、逆にいえば、連帯感は、ギリシア人が自分自身との友情と名付けたものを常にすでに前提している。このギリシア的友情は、すでに上で明らかにしたように、<孤独の高い評価を生み出し一人でいることができることを可能にしているもの>なのである。たしかに孤独という言葉には、無機的に働く文明のメカニズムを拒絶して、人間的な悪癖をまったく知らない自然に共鳴するという[友情とは]別の響きが込められているのであって、これこそが、ルソーが孤独という言葉に与えた響きであった。けれどもギリシア人たちが友情と呼んだもの--そして彼らはまさしく自分自身との友情という言い方すらするのだが--は、依然としてひとつの深い真理をもち続けているのである。プラトンは、自分のユートピア的国家構想の全体を、国家は[個人の]魂の大規模な模写であるという思想の上に基礎づけた。国家の成員を三つの固定した階層に区分したり、知的洞察によって全体の命運を導く国家管理者層を設定したりすることによってプラトンは、奇妙な国家機構を論述したのだが、それは、人間の魂が何でありまた何でありうるかを解明しようとしたためである。内的な不和を排除し国家の全成員を統一して団結した活動力を生み出すような国家構制というプラトンの理念は、人間の魂も自己分裂を含んでいるにもかかわらず内なるあらゆる葛藤や欲動の緊張を支配することができるし、自らを一なるものへと統一することができるということを、映しだしているのである。人間の内的構成と人間の社会的能力は、根本においてひとつである。したがって自分自身の友である人だけが、共同敵なものに適合できるのである。
 語の狭い精神病理学的意味における非社交的な人の症例がどんなものかわれわれは知っている。この患者の特色をなしているのは紛れもなく、自分自身との親密さや共同生活、つまり自分自身との一致が抜け落ちたり破壊されたりしていることである。したがってこの場合、友情はひとつの人間的根本構成であることになる。私はこの根本構成をヘーゲルとともに「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」と呼びたい。若者たちが老人の<自分への馴れ合い(ジイツヒ・アインハウゼン)>に反旗を翻すことは、今に始まったことではない。われわれが若かった頃も、似たようなものだった。市民生活において余りにも早く自分と馴染む(ジイツヒ・アインハウゼン)ことは、われわれには、自由と理想主義の喪失のように見えた。けれども、自分自身との友情は、安定した生活において自分と馴染む(ジイツヒ・アインハウゼン)そのような外面的な形式とは結びついてはいない。むしろこの友情は、順応主義を拒否するわれわれがその当の順応主義に屈服することなしに今日でも獲得することができる自由の経験の根底に存在するものなのである。人間が労働の中に見出すことができる各人固有の意味に注意していただきたい。われわれが現代文明の強制的性格とますます高まる抑圧とを感じるときでも、労働やそれとともに形成される自分固有の能力の意識は、自由の一種神秘的なあり方を意味する。いやそれどころか、この能力の意識こそがわれわれの世界のあらゆる強制にもかかわらず安全に保持されている自由の唯一の形式なのだと思う。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(須田朗訳)「自己疎外の徴候としての孤独化」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年。

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ちょうど、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)の著作を紐解いていると看過できぬ一文とくだらぬ閃きがほとばしりましたのでひとつ。

アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)は、『ニコマコス倫理学』のなかで、正義(ικαιοσύνη)とは何か、そしてその必要性に言及する中で、最後に一つぽつりと言葉を発しております。

すなわち次の通りです。

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事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』岩波文庫、1973年。

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人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ないとの言葉であります。倫理とは、私自身とは何か、そして私は全体のなかではどのようにしておいたほうがいいのか……そのへんを問うわけです。

だからこそ当然「正義」が問題になってきます。
しかし、その局面において、つまり、その個と公共空間の関係において、正義よりも友愛を選択したアリストテレスには、おどろくばかりで、近代以降の倫理学において「友愛の感覚」がほとんど顧みられなくなった事実はすこし淋しいもんだよなとおもったことがあります。

うえのガダマーの文章では、この友愛としてのフィリア、「友情」と訳されておりますが、ひろくは、同じ意味合いとしての友愛、友情としてとらえてよいでしょう。

ガダマー自身は倫理学者ではありませんし、いうまでもなく道学者でもありません。テクスト解釈の技術と可能性を論じた哲学的解釈学者でありますが、その彼からこうした「フィリア」の感覚に言及があることにおどろくとともに、これも通俗的な表現ですが、ガダマーの「人間の人間らしさ」(=人間くささ)を実感してしまいます。

ちなみにガダマーは久し振りの?百歳オーヴァーの哲学者ですが、若き日のイタリア旅行以来、ネスレ(Nestlé)の製造する「ネスカフェ(Nescafé)」のコーヒーにはまってしまい、生涯愛飲したことで知られておりますが、そのエピソードも大好きです。

話がずれました……。

で……。

注目したいのは、ガダマーがフィリアに言及したことよりも、そのフィリアの扱い方においてです。

アリストテレスは上述したとおり、個と個の関係における相互概念としての「フィリア」について言及しているわけですが実はそれは個と個の関係におけるスフィアに限定される問題ではないというところです。

その神髄をまさにガダマーが「解釈」するところによれば……そしてそれがギリシア的エトスの伝統になるわけですが……それは対他関係だけなく、対自関係においても発動するというところです。

すなわち……キーワードを引っ張るならば次の通りです。

「人間の共同生活は、有効な連帯感という基盤以外のいかなる基盤のうえにも打ち建てられえないであろう。だから、あらゆる連帯感の喪失は孤独化の苦しみを意味するし、逆にいえば、連帯感は、ギリシア人が自分自身との友情と名付けたものを常にすでに前提している。このギリシア的友情は、すでに上で明らかにしたように、<孤独の高い評価を生み出し一人でいることができることを可能にしているもの>なのである。たしかに孤独という言葉には、無機的に働く文明のメカニズムを拒絶して、人間的な悪癖をまったく知らない自然に共鳴するという[友情とは]別の響きが込められているのであって、これこそが、ルソーが孤独という言葉に与えた響きであった。けれどもギリシア人たちが友情と呼んだもの--そして彼らはまさしく自分自身との友情という言い方すらするのだが--は、依然としてひとつの深い真理をもち続けているのである」。

「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」

はあ、なるほど!

……というわけで、フィリアの問題とは対他関係でなく、対自関係をも射程にひめているというわけです。

まさに倫理学が「人間とは何か」と問うわけですが、それは「自分とは何か」という自分と自分自身の関係をフィリアというキーワードで内実を問い、そのあり方をたゆまず吟味せよ……そのことをマア、ウマク表現しているわナ……などと思う次第です。

「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」とは「馴れ合い」とか「妥協」を許さない俊敏な瞬時瞬時の関係性なのかもしれません。

このあたり、チト追求する必要がありそうです。

……が、このママ追求してしまうと、休日の本日が無駄になってしまうので、このあたりで永眠したほうがよさそうです。

今日は家族で花見?……といっても、宇治家参去の勤務する大学の桜が見事ですので、子供も幼稚園が休みなので一緒に行くか!と私がふったのではなく、「一緒に行け」と訓辞の発令がありましたものですので、早起きが要求されているようです。

まったく!……と思わず、フィリアの練習とさせていただきます。

ただ、花見といえば、自分的には「酒」だよなと短絡的想起しかなく、その貧しい発想に辟易とするわけですが、「アルコール0.00%で、飲酒運転のない世界へ」をキャッチコピーにしたノン・アルコール・ビール「KIRIN FREE」が出ましたものですから、チト試してみようかなア……ですが、やはりそんなものを神聖なキャンパスに持ち込むと「ボコボコ」にされてしまうよなア……だけどチャレンジ精神も大切だよなア……悩みで眠れなくなってしまいましたデス。

しかし……くどいのを!

一緒に購入した新製品「The STRAIGHT」(サントリー)は、あまり「ぐっと」こず、これなら無難に「金麦」のようが旨いよな……などと思うわけで。

しかし……くどいのを!!

日中の桜吹雪は「美しかった」です。
写真ではあまりウマク取れませんでしたが……。

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