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【覚え書】鹿島茂「〔引用句辞典 不朽版〕 大学改革」『毎日新聞』2009年5月27日(水)付。

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数年ぐらいまえでしょうか……。
学会の発表後喫煙所にて煙草をすっていると、決して悪いことをしているわけではないですけれども「わたしらもタイガイ日陰者ですなア」という雰囲気で、年配の愛煙家の先生が連れモクしてくださり、しばし談笑。

「先生、何教えているんでしたっけ?」
「専門は神学ですが、いまのところ哲学とか倫理学ですが……」
「人文学は全般的に退潮傾向ですから、大変ですなア」
「そうですねえ」
「本当はそうした人間の土台を形成する学問を大切にすべきなのでしょうが、やれパソコンの使い方だとか、パワーポイントの使い方だとか。ああいうのは別に大学で教える必要とかあるのかあ~などと思うわけですけどねえ。……って、教えている先生に聞かれるとマズイですけどねえ」
「そうですねえ」

たしかにパソコンの使い方とかアプリケーションの使い方の科目が悪いというわけではありません。「読み・書き・そろばん」がかつてのリテラシーであったように、パソコンとかネットワークに関わる実践的知識というものは現代のリテラシーですから。
ただし、人文科学、社会科学、自然科学の基礎理論的な科目から、そうした実践的な科目まで選択肢としては必要なのでしょう。

ただ少子高齢化と社会からの要請・政府の主導のもと、あまり毒にも糞にもならない一群の科目は、改廃されていくというところがすこし淋しいなと感じる宇治家参去です。

ちなみにこれは特定の大学に限られた問題ではありません。


そして、
2,3日まえぐらいでしょうか……。
市井の職場で休憩中に、喫煙室で煙草を吸っていると、内線の携帯電話で店長から呼ばれ、吸いかけの煙草を消して店長のところに向かうと、

「パソコンがネットに繋がらなくなったので、みてくんない? LANケーブルは繋がって居るんだけど」

……と言われて店長のパソコンを見ると、確かに物理的にはLANケーブルはささっているわけですが、ネットワーク関係の該当箇所を確認してみると、接続は断線しているようで、ブラウザを立ち上げても「WEBページ見つかりません。HTTP404」という具合ですので、差し直して、接続環境を診断させ、何度かトライしてみるも、接続できず……。

おっかしいなア~、などともう一度、物理的な配線関係を見てみると、ハブの電源が抜けておりました。

「そりゃ接続できませんゼ、旦那」というわけで状況を説明すると、

「みんないってますよ! パソコンがトラブルと、宇治家参去さんに頼めば直してくれるって、ホント、すげえよな」

「いや~、普通だと思いますが」

……ということで、再度煙草を吸いに戻ると、緊急のレジ応援連絡があり、吸いそこねた次第です。

ただ、こういうことを振り返ってみるならば、ある程度の「社会に出てから直接的に役立つ技術や方法を教えて資格試験に合格させること」に力点をおいた効率的カリキュラムというものも不必要というわけではないのでしょう……ねえ。

ただ宇治家参去の場合は自分で学んだわけですけれども。


そして、そして、
2ヶ月まえぐらいでしょうか……。
教員養成でそれと知られた教育機関の教育理論の年配の先生(専門は何か忘れましたが)と話す機会があったのですが、

「教育学部なんかでもねえ、やっぱり、教員養成ということが第一義になるからねえ、機械的に教員資格がとれ、採用試験に向けたハウツー的な科目がどんどんふえてきたねえ、ここ一〇年ぐらいかなア~」
「そうなんですかあ」
「教育理論とか理念とか哲学というものよりも、いかに合格させるかというところが優先されるわけなんですけどねえ。それがわるいというわけじゃないし、受からせるための科目とか講座はどんどんあっていいと思うんだけどねえ」
「ですが何か?」
「それだけになってしまうと……一抹の不安を感じてしまうんだよねえ。大学は工場ではありませんからねえ」
「そうですねえ」
「その意味では、選択肢としては不要と思われるような古臭い科目も、先端のハウツー的な科目も両方が本来必要であって、その両方の科目がお互いから学ぶことによって、実りゆたかなものが創(で)てくると思うんだけどねえ」
「ただ、実践的な講座への大学改革を進める政府から見ると、「○○学理論」とか「○○学概論」のような理念的な学問は、どうでもいいやって雰囲気なんでしょうかねえ」


そして、そして、そして、現在。
いずれにしましてもコマ数も少なく、まさに「社会に出てから直接的に役立つ技術や方法を教えて資格試験に合格させること」に力点をおいた効率的カリキュラムとマア、まったく対極にある科目を担当させていただき、科目が消滅することもなく講義を続けさせてくれている宇治家参去はまだ幸せなほうかもしれません。

これまでも何度も学問論として言及はしてきましたが、責任のいったんは「象牙の塔」としての大学自体に内在する問題であり、その反省であることは承知しております。

そして「教習所」化でもたらされる恩恵としての「社会に出てから直接的に役立つ技術や方法を教えて資格試験に合格させること」に力点をおいた効率的カリキュラムが必要であることも承知です。ですから長期的なスパンでみるとどちらが偉いか!という議論では全くなく、両方を丁寧にやっていくしかないのでしょう。

そしてそのことより重要なのが、引用文の論者が指摘している次の部分かなと思います。すなわち、

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不思議なことに、かつての学生の心の中に最後まで残るのは、決して「教えられたこと」ではない。「あの先生は偉かった」という「恩師」のイメージである。

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この部分は深く痛感する次第です。
教えてくれたユニークな教員、峻厳な先生、型破りな博士……たちの思い出に事欠くことはありません。そして同時に教えてくれた内容を覚えていない浅はかな宇治家参去ですが、教育とは決して知識の伝授のみにかぎられるわけでなく、人間と人間との交流ですから、「恩師」のイメージが生き生きと残っているだけでも、それは勝ち(価値)なのかなと思ったりもします。

また幸い、最大の学問の恩師である鈴木先生もご壮健で、今なお闊達に、学問指導を人間としておこなってくれる薫陶に頭がさがるもので、知識だけでなく、その人間としての全体から、まさに「あの先生は偉かった」という印象が拭いがたく、否、毎度毎度強まるばかりで……。

その意味では、宇治家参去は大丈夫なのだろうか……などと思うことしばしばです。
徒手空拳のような科目で徒手空拳しつつ、酒を呑んでひっくり返って(小さな声になりますが、「ときどき骨折したり」)いたり……。

まあ、ただそこに、人間・宇治家参去の全体があるわけで、自分としては、その姿から、哲学、倫理学、(そしてできれば宗教学か神学で)「知識」を伝授するだけでなく、何かしらの啓発できるようなイメエジを残していきたいものだよな……などと至極実感しております。

マアそれは「あの先生は偉かった」という表現とは対極にある「あの先生はナイーヴでシャイなチキンボーイ」だったけど、「面白かった」ということだけでもいいのかもしれませんが……。

……ということで、suntoryの担当者から6月2日発売の発泡酒「YUTAKA 豊か<生>」をサンプルとしていただいたのですが、思った以上に「クセ」がなく「さっぱり」としておりました。suntoryはビールでは「プレミアムモルツ」と、新ジャンルの「ジョッキ生」「金麦」で成功を収めておりましたが、発泡酒のカテゴリーは吹かず飛ばずでしたので、「YUTAKA 豊か<生>」が風穴をあけるかどうか注目したいところです。

http://www.suntory.co.jp/beer/yutaka/index.html

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引用句辞典 普及版 大学改革
教員が教習員と化し 消える「恩師」のイメージ

 「京都大学の講義の中では、厨川白村博士の近代英詩人論が、一番役に立った。(中略)
 私は学問的に云えば、厨川博士の方が勉強家で根よく読んでいたような気がする。上田(敏)博士は、研究努力と云うよりも自分の鑑賞趣味で読んだ程度に過ぎない人ではないかと思う。どうも芥川龍之介なんかの方が、上田博士よりも沢山本を読んでいなかったかと思われる。
 だが、厨川博士と上田博士と、どちらが文芸に対して理解があったかと云うと、これは問題なく上田博士の方が上だったと云う気がする。厨川博士は、僕の作品などについても素人でなければ賞(ほ)めないようなものを賞めていた。上田博士が、文芸を談ずるときは、文芸を真に味読するものの歓喜があったように思う。結局この人は学者よりも、学者的なヂレッタントでなかったかと思う」
 (菊池寛「半自叙伝」=岩波文庫『半自叙伝・無名作家の日記他四篇』所収)

大学改革
 大学の「自動車教習所」化が進んでいる。つまり、社会に出てから直接的に役立つ技術や方法を教えて資格試験に合格させることを至上目的にした効率的カリキュラムの改革が政府主導のもとに進行しているのだ。いまや、大学教員に求められるのは教習員的な教育技術であり、学識や見識ではない。これは、ある程度は、仕方のないことだとは思う。大学はあまりに「象牙の塔」でありすぎたからだ。
 しかし、こうした実用シフトへの転換に伴って大学が失うものもまた大きい。なにかといえば、「恩師」という概念である。夏目漱石の時代のような全人格的なアウラとまではいわない。しかし、大学卒業後かなりたってから、「ああ、あの先生は偉かったな」と初めて気づいて懐かしく思い出す「恩師」のイメージというものは失われてほしくないと思うのだが。
 自分の学生時代のことを振り返ればわかるのだが、学生というものは、無知蒙昧なくせに、教師に対する識別力だけはもっている。つまり、これはたんにテクニックしか伝授できない教習員か、教養と学識に裏打ちされた本当の学者かということを瞬時に見分けてしまうのである。教師がいくら空威張りをしても無駄である。学生は、学生であるというその資格において、教師に冷徹な審判を下すことができるのだ。
 ゆえに、私は大学の教壇に立ったことのある文学者については、その教え子の残した思い出というものを重視している。文学者の本質がかなりの確率で把握されているからである。
 しかし、それにしても菊池寛は素晴らしい恩師に恵まれたものである。厨川白村と上田敏とは、なんという豪華版だろうか。
 だが、両者に対する学生・菊池寛の評価は以外に手厳しい。厨川白村は、学者としては一流だが、文学的な感性においては二流であった。いっぽう、上田敏は文学的な感性は鋭かったが、学識は友人の芥川などの方が上で、学者というよりも文学的ディレッタントに過ぎなかった、云々。もっとも、後者に関しては、短編「葬式に行かぬ訳」にあるように、京都大学在学中に上田敏に認められて文壇デビューするという夢が脆くも砕け散った逆恨みの気持ちも働いていた。菊池寛が芥川や久米正雄とともに創刊した『新思潮』を送っても、上田敏からのコメントは一言もなかったからである。
 それにまた、京都大学の英文科には文学を志すような学生は皆無で、中学教員希望者ばかりだったことも菊池寛を失望させた。「とにかく、京都大学三年の間、教室で学んだものは、何もなかった。あったとしても、一月で自分でやれば覚えられる事だと思う」と京大時代を全否定している。
 だが、それにもかかわらず、菊池寛の思いでの中には、教え子に恵まれず、やり甲斐のない授業をしている晩年の上田敏の不遇なイメージだけは確実に残された。そして、「砂を噛むような無味な、不快な三年」が終わって京都を去ろうとしたとき、上田敏の訃報に接するや「S博士に対する感謝や感激の心丈が何時の間にか、胸の内に溢れて居た」のである。
 不思議なことに、かつての学生の心の中に最後まで残るのは、決して「教えられたこと」ではない。「あの先生は偉かった」という「恩師」のイメージである。いま、大学はそれをみごとに抛擲しようとしているのである。
(かしま・しげる=仏文学者)
    --鹿島茂「〔引用句辞典 不朽版〕 大学改革」『毎日新聞』2009年5月27日(水)付。

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