それでもなお、「またそのように考えることを欲しない」
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人類は全体として愛され得るような存在であるのか、それとも我々が不快の念をもって考察せねばならないような対象であるのか、我々は確かに人間が有りとある善を具えていることを(人間嫌いにならないために)希望はするものの、しかし実際には彼に善を期待してはならないような、或いはむしろ彼から眼をそむけざるを得ないような代物であるのか。この問いに対する答えは、もう一つの設問に対して与えられる答えにかかっている、すなわち--人類は常にいっそう大いなる善に向かって進んでいき、過去および現在の悪を本来における善によって解消するであろうという期待に副い得る根拠となるような素質が、人間の本性に備わっているのか、という問いである。もしこの問いが肯定されれば、我々は少なくとも絶えず善に接近してやまない人類を愛することができるからである。だがそうでないとすると、我々は人類を憎悪し或いは軽蔑せざるを得ないだろう。たとえ普遍的人類愛(かかる愛なら、我々が深く心を傾ける愛ではなくて、せいぜい好意の愛にすぎないだろう)などという巧言をもって如上の見解に反対しようとも、ひっきょうはこれが真実なのである。ついに善に遷ることのない悪--とりわけ人間の神聖な権利を故意に、また互に侵害し合うところの悪は、たとえ我々が心のうちに愛を絞りだそうとして最大の努力を払うにせよ、やはりこれを憎まざるをえないのである。なおここで憎むとは、必ずしも人間に害悪を加える意味ではなくて、できるだけ人間とかかわりをもたないということである。
--カント(篠田英雄訳)「理論と実践」、『啓蒙とは何か 他四篇』岩波文庫、1974年。
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57通のレポートをなんとか乗り切り、すこしゆっくり出来るか!……でわなく、おちついて仕事ができるのを!と思っている矢先、返却と同時に30通程度が送付されてき、昨年の倍の量!……と凌駕され、レポートと向かい合う宇治家参去です。
今回、久し振りに「励まされるレポート」に遭遇です。
趣意ですが……。
「倫理学を通じ、時代や人種、国境といった差異を讃え合う発想を学べることが、とても嬉しい。身近なことに着目し、心の対話をすることによって、善き“自覚”を選択し、人間として成長すること、そしてささやかながらもそのことで社会に貢献できる力を備えることを自分自身の課題としたい」
なんかすごい学問ぢゃのおお!
……我ながらびっくりしてのぞけった次第です。
結論から先に言えば、大学で講じられる倫理学には極端な言い方ですが、人間はこうあるべきだとか、人間関係はこうあるべきだということは全く示されておりません。倫理とはもと『礼記』に由来する言葉で、「人間のあり方」「人間関係のあり方」を意味する漢字です。しかしながら、大学で講じられる倫理学には、「そのあり方」は「これがいいよっ!」っていう方向性はまったく示されませんし、教材のどこにも記されておりません。
それと同じように、後者のあり方に注目するならば、生きている一人の人間と、その生きている人間の社会との関わりが大きな問題としてクローズアップされるます。そのなかで、過去の個人としての人間観、そしてその共同存在としての共同体観が種々検討されますが、その問題に関しても、踏み込んだ言い方をするならば、「社会をよくするためにはこうした方がいいよ」っていう式な「ファイナル・アンサー」はどこにも出てきませんし、宇治家参去自身が教鞭を執る際にも、「示して」見せたりもしません。
ここにある意味ではディレンマとか、教師としての無力さとか、学問の限界を感じるわけですが、現実にはその「ファイナル・アンサー」を組み立てるのは、宇治家参去を含めた、その学問と関わるひとりひとりの問題になりますので、そこを向き合うひとりひとりが発見、自覚してくれたときほど、嬉しいことは存在しません。
だからこそ、大上段から何かを示して見せたり、完全無欠の模範解答を紹介したりしても、全く意味が無く、ひとりひとりの人間が生きているそれぞれの現場で悩み格闘し、考え抜くことによってつかみ抜くという労作業こそがもっとも大切なのでしょう。
ひとりでなやみ格闘し考え抜いたコンテンツを、他者と摺り合わせていくというチャンネルが同時に必要なのですが、そこでもまた「打たれてしまう」のが現実です。
ときには倒れることもあり、思索から遠ざかることもあることも承知です。しかし長い目でみれば、その行為そのものから降りない限り、ひとはなにかをつかむこともできるものです。
大切なのは他者との連関のなかで、自分自身が徹底して作業を遂行しながらも他者ときりはなされず営みをつづけ、なにかをつかむことだと思います。往々にしてそこでつかみ取られたコンテンツとは、模範解答にかかれているものと同じ事が多いかも知れません。しかし、最初からそれをつかむのではなく、自分自身が組み立てていく……そこに醍醐味と本物の輝きがあるのだろうと思います。
その問いを学ぶ〔=訪(とぶら)う@和辻哲郎〕のが学問の世界であり、きっかけを示すだけで本分は達成されております。
しかし、そのあとの、知られざるひとりひとりの道のりが、こうした形でちょっとした報告というかたちで紹介されると、無情の喜びとして「堪えられない」と感じてしまう単純な宇治家参去です。また自分自身頑張ろう!と決意できるので不思議なものです。
日本を代表する倫理学者・和辻哲郎()もどこかでいっておりましたが、他者(学生)を必要とせず自存できる教師という存在など存在できるわけもなく、同様に他者(教師)を必要とせず自存できる学生という存在など存在できるわけもない……趣意ですが、そのことをはなはだ実感する次第です。
その相互連関のなかで、お互いが成長できるのが、まさに……使い古された言い方で恐縮ですが、中世のヨーロッパ社会において大学が誕生した際の理念論に耳を傾けるなら……「世界市民育成の場」としての“開かれた”“学びの場”としての大学の存在価値になってくるのだろうと思います。
さて冒頭では、カント(Immanuel Kant,1724-1804)の独白をちょいと引用してみました。ご承知の通りカントは苦労人で、1770年、46歳のときにケーニヒスベルク大学から哲学から教授としての招聘されるまで、今で言うところの「非正規雇用」というやつで家庭教師とか私講師なんかでしのいでい、結構辛酸を舐めております。しかしなんらそこに痛痒をいだくわけでもなく、その歩みを止めなかった人物です。
だからこそなのでしょうか。
強烈な人間不信論、人間極悪論が出てこようとも、そして人間がまさに「人間」以下の“野獣”として疾走する現実に直面しようとも(実際にカントの生きた時代は戦争と革命の連続です)、それでもなお「人間の善性」を決して諦めなかったことで知られております。
またそれゆえになのでしょう、様々なものを見てきたけれども、人間の世界にはそれだけでもない部分がそれ以上に豊富に存在する……そこを薫育していくしかないんだよな……というシニシズムとは対極にある現実主義がちらほらと散見され驚くことがよくあります。
カントの哲学は「定言命法」(「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」、『実践理性批判』)に見られるように、その「普遍的」な「形」「形式」にこだわることが顕著です。このことにより後の論者はカントは内容を欠いた形式主義者に他ならないとの批判がなされますが、実際のところ、そう単純な形式主義でもないのだろうと思います。
カントにおいて「形式」とは人間を「薫育」しゆかんとする「形式」です。そしてその形式を定位するにあたって、かならず「生きた人間」を思い浮かべならば模索されております。
有名な話ですが、カントはルソー()によって傲慢な思い上がりを粉砕されたわけですが、それ以前もまたそれ以後も、カントは父母、友人の思い出を語ることときの温かさが有名であり、生きている人間との交流についてもそれはそれは実に丁寧であったと伝記記者が報告するとおりです。
……いわば現実と理念の不断の対話を遂行するなかでひとつの形として定式化されたわけで、両目で形と現実を直視する中で、その倫理思想、そして哲学大系が打ち立てられたことは否定のしようがない事実だろうと思います。
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……有徳の人が世間におけるあまたの不快事や悪への数々の誘惑と闘いながらも、かかるものに毅然として立ち向う姿を見るのが神性にふさわしい光景であるとするならば、人類が時代から時代へと特を目指して向上の歩みを進めはするものの、やがてまた以前の悪徳と悲惨との仲へ深く落ち込んで元の木阿弥に戻る有様を見るのは、私としては、神性にふさわしからぬとまで言うつもりはないが、しかし極く普通の、しかし善意の人間にすらこの上もなくふさわしからぬ光景であると言いたい。束の間にせよこのような悲劇を観るのは、恐らく心を傷ましめると同時に教訓にもなるだろう、しかしかかる悲劇には、いつかは幕が下りねばならない、このような舞台が長く続くと、悲劇はけっきょく道化劇に化するからである。たとえ役者達は--彼等は道化師なのだから--かかる劇を飽かずに続けるにしても、しかし観客はいつまでもお仕舞にならないこの芝居が千篇一律であることを、当然のことながら、看取することができれば、一幕か二幕でもう沢山だということになる。そして最後に現われる刑罰は、もしこれが芝居であれば、確かに不快な感情はめでたい大団円によって償うことができるだろう。しかし無数の悪徳(たとえそのあいだにいくらか徳がはさまるにせよ)が、現実の世界において層一層と堆積されるのは、いつかはしたたかに罰せられるためでしかないとしたら、それは--少なくとも我々の考えに従えば、--聡明な世界創造者にして世界支配者たるものの道徳性に反すると言わねばならない。
そこで私は、次の二事を想定して差支えないと思う、--第一に、人類は文化に関して絶えず進歩しつつある、そしてこの進歩はまた至善が人類に指示した目的でもある、それだから人類の存在に対する道徳的目的に関しても、いっそう大なる善に向かって進歩をとげつつある、ということである。また第二には、このような進歩の過程は、なるほど時に中断されはするが、しかし決して断絶しないであろう、ということである。
--カント、前掲書。
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現実には、「善なんて野暮なことをお説くになさんな」などと嘲笑されるのがいまの社会です。そして「人間なんて糞だ」と罵られることなんて百も承知ですし、そのことは痛いほど理解もしております。
しかし、「糞だ」としても何も変わらない。
「野暮」と言われても何も変わらない。
そして評論家風に例えば「(何かの犯人に対して)彼の心には闇があったのです」などと得意そうにいわれても何も変わりません。
そうした批判や実情を承知でもなお、善への選択は人間として必要不可欠なのだろうと思います。
そして、善なるものを早急に形而上からの訓戒として「固定化」したものとして受け止めないようにする必要も一方では存在するのでしょう。これ形而上的訓戒の「固定化」こそ一方的なイデオロギーであり、必ず不幸を招来してしまうわけですから。
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空間と時間とは、感性的直観の形式にすぎない、それだからまた現象としての物の存在を成立せしめる条件にほかならない、――また我々の悟性概念に対応する直観が与えられ得ないとすれば、我々はいかなる悟性概念ももち得ないし、従ってまた物を認識するに必要な要素を一つももたないことになる……、(中略)つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである。
--カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 上』岩波文庫、1961年。
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カントが言うとおり、人間には認識不可能な善の当体とは「物自体(Ding an sich)」なのかもしれません。だからこそ扱う当人たちがそれを勝手に決め込むことなく、徹底的に自己の問題として取り扱いつつも、他者と相互吟味していくそうした矜持を忘れてはならないのでしょう。
「人類が時代から時代へと特を目指して向上の歩みを進めはするものの、やがてまた以前の悪徳と悲惨との仲へ深く落ち込んで元の木阿弥に戻る有様を見るのは、私としては、神性にふさわしからぬとまで言うつもりはないが、しかし極く普通の、しかし善意の人間にすらこの上もなくふさわしからぬ光景」なんかどこにも「転がっています」。
そこにどのように向かい合っていくのか。
そのことは瞬間瞬間の生命に対して試されているように思われます。
道化になることは簡単です。
しかしその道化に「飽きること」は難事です。
とやかくいわれようが、そこを選択するしかないよな……などと思う宇治家参去です。
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(人間の……引用者註)意志は、なるほど現象においては自然法則に必然的に従うものとして、その限りにおいては自由でないと考えられるが、しかしまた他方では、物自体に属するものとして、自然法則に従うものではないから従ってまた自由であると考えられるのである。
--カント、前掲『純粋理性批判』。
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無関心であったり、シニシズムや評論家をきどったりするあり方というのは、ひょっとする自己自身に従うことのできない「不自由」であり、その対極にあるのがカントの示して見せた人間の真の自由としての責任なのだろうと思います。
……って、かなり話がずれ込みました。
いつものことですがねえ。
ともあれ、成長を期することをしたためて下さった学生さんにはエールを送りたいものですが、送るだけでなく自己自身もたゆまず人間と関わっていくほかないなと再確認させてくださり、「ありがとうございます」を言うのが先でしょうね。
「ありがとうございました」!
……ってことで、1992年に発売されたビール「焙煎生ビール」(SAPPORO)が復刻されていたので、チトやってから寝ます。これが旨いんですヨ!
これがビール中毒になった原因の一端です。10数年ぶりの再会でござんす。
……って、まだ蛇足ですが、最初に引用したカントの「理論と実践」の末尾がまた美しいので最後にチト引用して、飲用します。
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……人間の本性には、権利と義務とに対する尊敬の念が今なお生きている。私は、人間の本性が悪のなかにすっかり沈没して、道徳的・実践的な理性が、失敗に終わった幾多の試みののちについに悪を克服して人間の本性を愛すべきものとし顕示する時期が到来しない、と考えることはできないし、またそのように考えることを欲しないのである。それだから世界市民的見地においても、理性根拠にもとづいて理論に当てはまることはまた実践にも通用する、という主張には変わりがないのである。
--カント、前掲「理論と実践」。
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人間とは「そんなもんなんだよな」などと言うことは簡単ですし、そこに打ちのめされるのが現実で宇治家参去なども一日たりとも壁パンチを繰り出さなぬ日なし!といことは承知ですが、それでもなお、「またそのように考えることを欲しない」わけであります。
啓蒙とは何か―他四篇 (岩波文庫 (33-625-2)) 著者:カント |
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