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地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さ

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 真昼時--地上の万物がそれぞれの輪郭線を露出しつつキラビヤかに浮かびあがる光の世界--に、どこからともなく夕闇の翳りがしのび寄ってくる。事物は相互の明確な差別を失い、浮動的・流動的となって、各自本来の固定性を喪失し、互いに滲透し合い混淆し合って次第に原初の渾沌に戻ろうとする。有分節的世界が己れの無分節的次元に回帰しようとする両者の中間に広がる薄暮の空間、存在の深層領域が、人々の好奇心をさそう。地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、何か言いしれぬ魅惑がある。永遠にグノーシス的なるもの……秘教的なるもの……神秘主義的なるもの……存在の仄暗さへの志向性。
 ただの暗さではけっしてない。この暗さには厚みがある、深みがある。密度の高いこの厚み、この深みは存在そのものの多次元性、多属性に由来する。存在は根源的に現象的なものだ。根源的現象性の見地から見るとき、われわれは普通何の疑念もなしに「現実」にすべてだと信じこんでいるものが、実はリアリティのすべてではなく、それのほんの表層にすぎないことをさとる。存在の表層は可視的形姿にすぎない。すべての現象は「現象以前」から現象して来る。人は自らその「現象以前」に参入して、一切をそこから捉えなおさなければならない。
 要するに、存在には裏側があるということだ。存在の裏側、存在の深層領域。そこにこそ存在の秘儀がある。現象を「現象以前」の根柢にまで執拗に追求してゆくことによって、存在の秘密を垣間見ようとするのだ。それは当然、真昼の出来事ではありえない。存在は、その内に秘めた前現象的、未発の形姿を、ただ「夕暮れ時」の仄暗さの中でのみ、わずかに垣間見せるだけだからである。

 このような存在論的意義を担う「仄暗さ」を、西洋文化は世紀の変り目によく、時代的規模の大きさで経験してきた。世紀の変り目--世紀末。といっても、べつに世紀末だけに特有の現象だというわけではない。ただ、この種の存在感覚は世紀末という語によって分節的に触発されがちな意味カルマ的事態である、ということにすぎないのである。
 また元来、東洋では、こういう意味での「存在の裏側」に対する情熱が、宗教・芸術・哲学のあらゆる分野にわたって、それらの本質構造そのものに深く組みこまれ織りこまれているということが、むしろ普通のあり方である。しかし、主題展開の筋道をあまり錯雑たらしめないために、ここでは、東洋の精神文化に関するこの問題は、ひとまず無視することにしよう。それは第一、例えばエラノス会議創始者の一人カール・グスタフ・ユングが東洋の精神主義的諸伝統にたいして異常な関心を抱いていたことは否定すべからざる事実ではあるけれども、だからといって、西洋文化史上に現われた存在の暗い深層への存在論的・意識論的志向性を、ひたすら東洋の影響として説明し去ることには、またそれなりの大きな危険がある。
    --井筒俊彦「『エラノス叢書』の発刊に関して……監修者のことば」、エラノス会議編(日本語版監修・井筒俊彦、上田閑照、河合隼雄)『時の現象学I』平凡社、1990年。

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「春はあけぼの」と称されますが、晩春は「あけぼの」よりも「夕暮れ」が一番美しいのではないかと思う宇治家参去です。

晩冬の鮮烈な赤もいいのですが、滲み込むような晩春の茜色もなんともいえず、ただその陽光に心が洗われ、自己自身を形作る輪郭が解き放たれ、新しいリアリティでも見せてくれるとでも言えばいいのでしょうか。物事の多面的な側面が解き放たれるのが夕刻なのかもしれません。

宇治家参去の場合、市井の仕事がマア準夜勤となりますので、夕方は頗る脳の調子がよくあります。だからこそ鋭敏な精神と感覚がとぎすまされてしまうのが夕刻かもしれませんが、夕刻とは実によいものです。

かの近代ドイツを代表する哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)は「ミネルヴァのフクロウは夕闇に飛び立つ」との言葉を残しておりますが、まさに、正午の太陽が照り刺す日中での仕事や勉強や課題を終わらせたそのあとに、自省の時間が訪れ、そして智慧の象徴としてのフクロウが飛び立つのが夕刻というのは単なるゴロ合わせではないのかもしれません。

思えば、正午の太陽は輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、対象をじりじりとやく力強さがその特質かも知れません。対象に対してある種の暴力的な概念化をせまるのがその神髄であり、そこで概念化された「わかりやすい」輪郭をもった対象を対象として認知、それのみによって判断しているのが正午の思考かもしれません。

しかし、概念化される対象は、決して「わかりやすい」輪郭をもった対象に「すぎない」わけではありません。そうした「溢れ出す」内実をそれとなく示して見せてくれるのが夕刻の太陽であり、それが茜色の思考かもしれません。

どちらかっていうわけではりません。

ただ光の世界のもたらす「わかりやすい」発想とはともすれば分断構造を生みがちなのですが、それに対すると「夕闇の翳り」とは、“逢魔が時”と称される深い暗闇をひめてはおりますが、それと同時に対象をやさしくつつみこむ、ぼんやりとした温かみがあるのではないだろうか--などと思う昨今です。

ともあれ、私淑する思想史家・哲学者(この哲学者とは哲学・学者ではなく自前で思考できるという意味)井筒俊彦(1914-1993)の文章を読み直すとそう思うこと屢々です。

しかし、井筒で特徴的なのは、学術文献でも「読ませる」名文が多いというところ!

冒頭では、叢書の「監修者のことば」の最初のところを抜き書きしてみましたが、ここまで美しい学術文章にはなかなかめぐりあうことができません。

……というところで、ゆく春を惜しみながら、残り少なくなった限定醸造でいっぺえやって寝ます。

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告白・独白・毒吐の日々」カテゴリの記事

コメント

心身ともに疲れ果て、今日は学校を休み一日養生に耽ることを決めたうへのです。

井筒俊彦は僕自身を哲学に引き込む要因となった一人であります。アイデンティティクライスに直面して以来、哲学をしたいと思うもののなかなかふみだせないでいた私をして、決断に至らせたのが彼の「意識と本質」でした。禅宗の寺の出身でありながら、彼の著作をそれまで全く読んでいなかったというのは、本当に恥ずかしい限りですが、彼の文章に触れた時の感動は今でもありありと残っています。
平易でありながら濃密。そして、私を引き込むあの文章。正に目から鱗で、一流というものの凄みをまざまざと見せつけられました。

いつかあのような文章を書ける日を夢見て日々精進の日々であります。宇治家さんのブログを見て、自身の立脚点を思い出されました。

投稿: うへの | 2009年5月 1日 (金) 08時49分

うへのさんゑ

今日はゆっくりとお休みいただけたようですかね?

たまにはそういう日もあるかと思います。

自分は、『意識と本質』からではなく、『「大乗起信論」を読む』(中央公論)から入り、如来蔵、スーフィズムとのからみで出会ったのが井筒先生です。

むか~し、

1991年の頃でしょうか。
井筒先生の晩年だったかと思いますが、三田の大学の図書館でちょうど、図書館企画で井筒先生の学生時代のノートとか覚え書とか書類カード類の展示がありました。大学ノートに数カ国語でびっしりとかきこまれたノートに戦慄した記憶があります。

井筒先生の存在論は、華厳の宇宙論の影響が大ですが、ちょうど講演録になりますけれども(で、むかし日記のどこかのエントリで抜粋したところですが)、たいへんその骨格をつかんだ文章がありますので、ひとつ紹介しておきます。

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 日常的経験の世界に存在する事物の最も顕著な特徴は、それらの各々が、それぞれ己れの分限を固く守って自立し、他と混同されることを拒む、つまり己れの存在それ自体によって他を否定する、ということです。華厳的な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合うということ。AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない。AとBの間には「本質」上の差異がある。Aの「本質」とBの「本質」とは相対立して、互いに他を否定し合い、この「本質」的相互否定の故に、両者の間にはおのずから境界線が引かれ、Aがその境界線を越えてBになったり、Bが越境してAの領分に入ったりすることはない。そうであればこそ、我々が普通「現実」と呼び慣わしている経験的世界が成立するのであって、もしそのような境界線が事物の間から取り払われてしまうなら、我々の日常生活は、それの成立している基盤そのものを失って、たちまち収拾すべからざる混乱に陥ってしまうでありましょう。
 森羅万象--存在が数限りない種々様々な事物に分れ、それぞれが独自の「名」を帯びて互いに他と混同せず、しかもそれらの「名」の喚起する意味の相互連関性を通じて有意味的秩序構造をなして拡がっている。こんな世界に、人は安心として日常生活を生きているのです。
 つまり、事物相互間を分別する存在論的境界線--荘子が「封」とか「畛(しん)」(原義は、耕作地の間の道)とか呼んだもの--は、我々が日常生活を営んでいく上に欠くことのできないものでありまして、我々の普通の行動も思惟も、すべて、無数の「畛」の構成する有意味的存在秩序の上に成立しているのであります。
 このように、存在論的境界線によって互いに区別されたものを、華厳哲学では「事(じ)」と名づけます。とは申しましても、華厳思想の初段階において、第一次的に「事」と名づけておく、ということでありまして、もっと後の段階で、「理事無礙」や「事事無礙」を云々するようになりますと、「事」の意味もおのずから柔軟になり、幽美深遠な趣を帯びてきますが、それについては、いずれ適当な場所で詳しくお話することといたしまして、とにかく今の段階では、常識的人間が無反省的に見ているままの事物、千差万別の存在の様相、それが「事」という術語の意味である、とお考えおき願いたいと思います。

 ところが、事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線--存在の「畛」的枠組とでもいったらいいかと思いますが--を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
 「畛」的枠組をはずして事物を見る。ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ。華厳哲学の術語に翻訳していえば、さっきご説明した「事」に対する「理」、さらには「空」、がそれに当たります。
 しかし、それよりもっと大事なことは、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、そのままそこに坐りこんでしまわずに、またもとの差別の世界に戻ってくるということであります。つまり、一度はずした枠をまたはめ直して見る、ということです。そうすると、当然、千差万別の事物が再び現れてくる。外的には以前とまったく同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として。はずして見る、はめて見る。この二重の「見」を通じて、実在の真相が始めて顕(あらわ)になる、と考えるのでありまして、この二重操作的「見」の存在論的「自由」こそ、東洋の哲人をして、真に東洋的たらしめるもの(少なくともその一つ)であります。
(中略)
 ただ、二重の「見」とか二重操作とか申しましても、これら二つの操作が次々に行われるのでは、窮極的な「自由」ではない。禅定修行の段階としては、実際上、それも止むを得ないかもしれませんけど、完成した東洋的哲人にあっては、両方が同時に起こるのでなければならないのです。境界線をはずして見る、それからまた、はめて見る、のではなくて、はずして見ながらはめて見る、はめて見ながらはずして見る。決して華厳だけ、あるいは仏教だけの話ではありません。例えばイスラームのスーフィズムでも、意識論的に、また存在論的に「拡散(フアルク)」(farq)--「収斂(ジヤムウ)」(jam‘)--「収斂の後の拡散」(farq ba‘da al-jam‘)という三「段階」を云々いたしますが、ここで「収斂の後の(ba‘da)拡散」というのは、修行上の段階を考えてのことでありまして、本当は、「収斂・即・拡散」の意味でなければならない。そういう境位が、最高位に達したスーフィーの本来的なあり方であるとされているのです。だからこそ、スーフィズムの理論的伝統はそのような人のことを、「複眼の士」(dhu al-‘aynain)と呼んでいる。どんなものを見ても、必ずそれを--さきほどの『老子』の表現を使っていえば--「妙」と「徼」の両側面において見ることのできる人という意味です。しかし、すぐおわかりになると思いますが、事物を「妙」「徼」の両相において同時に見るということは、とりもなおさず、華厳的にいえば「理事無礙」の境位以外の何ものでもありません。しかも、華厳哲学において、イブヌ・ル・アラビーの存在一性論においても、「理事無礙」はさらに進んで「事事無礙」に窮極するのであります。
    --井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」、『コスモスとアンチコスモス』岩波書店、1989年。

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投稿: 宇治家参去 | 2009年5月 2日 (土) 02時28分

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