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「自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するもの」としての根拠

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 根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは総体性として定立された本質である。
 すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異なったものとして規定することによっても、これをつかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をますものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠である限りにおいてのみ、根拠である。
    --ヘーゲル(松村一人訳)『小論理学(下)』岩波文庫、1978年。

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「呑むこと」に理由は必要なのでしょうか。
宇治家参去が「呑む」根源的根拠は、「好き」だから呑むわけです。
もちろん、頭に来て呑むこともありますし、嬉しくて呑むこともありますが、もっとも根源的な根拠は「好き」だから呑んでいるのだと思います。

だから、「呑み過ぎて」辛くなっても、そこから「学ぶこと」ができないのはそのあたりにその根拠があるのかも知れない--そう思う昨今です。

体質的に、そして味覚的に酒を呑むことが全くNGな細君からしてみると、「好き」だから「呑む」ということは根拠になっていない……ということだそうですが、「好き」だから「呑む」というのも立派な根拠なのだとは思う訳なのですが、なかなかその差異を尊重しあえることができません。

こうした言説の対立、すなわち、人間はどのように差異を憎しみ合う状況から、讃え合う「間柄」へ転換することがどのようにすれば可能になるのか。

日々模索というところですが、考えようによっては、言説の対立とは、ひょっとすると良い学習材料なのかもしれません。対立意見に耳を傾ければ、見えなかった本質が浮き彫りにされ、 問題の核心をつかむことができるからです。

そのままそうした状況を放置せず、違いを違いと認め合う、そしてそのことを尊重し讃え合うという生きる流儀を細君との言論戦のなかで学ぶ必要だけはあるなと思う次第です。
「根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである」とヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)が言っているとおりですから、「好きだから」という自己へ反省されただけの根拠ではなく、同じ程度に他者へ反省された根拠へと、転換して参りたいものです。

根拠を丁寧に探究することで、同じ酒を呑んでも、味が変わるかも知れません。

さて--。
5月頭に、市井の職場での健康診断があったのですが、その診断報告書が到着!

例の如く、肝機能は数値がすべて80オーヴァー。
ただ半年前よりは若干数値が良くはなっているのですが、いずれにしても定期的には、休肝日を拵えた方が良さそうですが、これは後日の検討ということにしておきましょう。

で……。
月末に新発売されたプレミアム・ビール「アサヒ・ザ・マスター」(アサヒビール)を試しておりますが、触れ込みどおり、ドイツの伝統的なピルスビールの雰囲気をよく再現しております。味わい深くコクと香りのあるビールで、これからのうっとおしい季節の不快感に爽快な息吹を送ってくれそうです。

ただ、宇治家参去としても、もうちっと、苦味があってもよかろう……と思うところです。

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