“天使に重さがあるのかどうか”
ちょうど知己とトマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225-1274)の「忘恩論」を話し合う機会があり、ついついうれしくなってしまい、トマス・アクィナスを再読しております。
トマスと聞けば、中世神学、スコラ学。
高等学校的な世界史の記述にひっぱられすぎると、
「中世神学とかスコラ学というのはカビ臭いナンセンスで、不要な議論を積み重ねたアレでしょ?」
「“天使に重さがあるのかどうか”真剣に議論したあれでしょ? なにやってんだ!」
「“哲学は神学の婢”って思い上がるな!」
……など怒られそうですが、そのように早計するのもなんだかなというのが実感です。
たしかに、キリスト教の教義を保管・強化していくために、丁寧に議論を積み重ねていく姿はある種の荘厳・壮大な体系を予期させますが、それと同時に難解なそれは初学者を当惑させてしまいますし、数々の議論は、現実に何の意味があるの?などと思ってしまわなくもないですが、そうやって丁寧に対象に向かい合った先達たちの知的営みを全否定することに対しては宇治家参去はなにか違和感を感じてしまいます。
そうした中世=暗黒時代、そして暗黒時代の講壇哲学という評価に関しても、それと対をなすルミナスのルネサンスの光明、そしてそこに基盤を置く近代的進歩史観の反射が、中世=暗黒と断じているわけであって、そうした億見を乗り越え、ひとつひとつの言葉や息吹、文物に向かい合っていくと決してそうではなく、そこに同じ様な人間の息づかいや喜び、苦悩をみてとることができるというものです。
どちらの時代が偉いのか?などという設問自体が甚だナンセンスであり、中世そのものを「考えるに値しない」とする現代社会の常識こそ問題を大きく孕んでいるのだろうと思う宇治家参去です。
さてトマス・アクィナスに戻ります。
専門でやっている神学は近現代の神学思想史と個人研究になりますが、神学をやろうというきっかけのひとつがやはりトマス・アクィナスの影響が多いかと思います。ちょうど、倫理学徒のころ、演習か何かの教材でトマスの一節(たぶん『神学大全(Summa Theologica)』だと思う)を研鑽したことがあるのですが、「ほぉぉ~おもしれえ!」と感嘆した思い出があります。
人から聞くのと自分で見るのでは大きなちがいというところです。
いずれトマスについても後日、論考を残したいとは思うのですが、なにぶん中世ラテン語が達者ではありませんので、そこに挑戦していくための仕込に時間がかかりそうですが、これはひとつの自分自身の大きな課題としていつもあたためている対象であり問題です。
トマスはいいです、実に。
さて、
デカルト(René Descartes,1596-1650)やカント(Immanuel Kant,1724-1804)のような近代の哲学者に比べれば、いわば遙かな時代の祈念碑であるかのようにトマスを眺め、近づいてその生の声に耳を傾けるひとびとは確かに稀であります。
トマス・アクィナスは中世ヨーロッパに生きた人物であり、まさに洋と時間を隔てた遙かに遠くに、かすかに存在する人物であり、なじみもなく、一種近づきがたいところが現実には存在します。だからトマスは、学問の世界から外に一歩も出たこともなく、近代的言い方をするならば「象牙の塔」から世界を冷徹に眺め、神と人間について思いをめぐらした人物だろう……などと思いがちです。
しかし実際はどうだったのでしょうか。
書斎に引きこもり学問に専心した学者ではありませんでした。
トマスの生きた13世紀とはまさに激動の時代であります。
アラビアからの新しい知識が次々と流入してくる。
修道院の附属学校としてスタートした萌芽期の大学(Universitas)が制度化されてくる。そして都市の形成は貧民の増加を招き、帝国と教会の政治的緊張もくすぶり始めます。
教会が社会を支配した暗黒時代というものの見方は、うらをかえすと、それだけ何もなかった時代と思いがちですが決してそうではありません。平穏無事な世の中では決してなく、どちらかといえば、時代の転換期だったといえましょう。
トマス自身も、教会刷新を目指し、新しい民衆に説教する目的で創設された托鉢修道会に実を投じ、一所に安住することなく、ナポリ、ケルン、パリと放浪しつづけた学者でりました。
またダンテ(Dante Alighieri,1265-1321)が巻き込まれた苦く重い政争体験を思い起こせばリアリティがあるものですが、トマス自身も様々な紛争に翻弄され、命の危機すら死ぬまできえなかったのが現実です。
そうした泥沼のなかで、真摯に現実を生き、そして「言葉」に注目しながら真理探求を丹念にあきらめずに追求したのがその実だろうと思います。
「初(はじ)めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とはじまる『ヨハネによる福音書』を繙くまでもなく、キリスト教信仰においても徹底的に「言葉」を重んずる伝統がどっしりと存在します。それを限界まで探究したのがトマスの営みであり、そしてその信念・共同体を破壊せんとする異教徒・分派主義者たちに対して徹底的に「言語による闘争」を果敢にしかけ、のこされたのがその業績だろうと思います。
ですから、トマスの議論は実に丁寧です。
ひとつの命題をめぐり、それが正か偽か、気が遠くなるほど検討し、それがおわると次の命題へ進んでいく……という「気の遠くなる」ような積み重ねを実に丁寧に遂行しております。
ここには、近代人の驕りも不平も愚痴もなく、自分自身で決めた使命の歩みを、なにがあろうとも歩み抜く知の勇者の足跡がみてとれるようで、実に考えさせる側面がおおくございます。
トマスはいいです、実に。
……ということで、トマスの議論の仕方?でもひとつ最後に紹介しておきましょう。
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〔序文〕
(1)『天体宇宙論』第一巻で哲学者〔アリストテレス〕が言っているように、最初の小さな誤謬も最後には大きなものとなるのであり、また、アヴィセンナがその『形而上学』の冒頭で言っているように、最初に知性によって捉えられるものは存在者と本質とである。それゆえ、この両者について無知であるために〔最後に大きな〕誤謬に陥るということがないように、この両者の難解なところを明らかにしよう。そのためには、本質とか存在者とかいう名称によって何が意味されているのか、また、それ〔本質〕がさまざまなものの内にどのように見出されるのか、さらに、類と種と種差という論理学的諸概念(intentiones logicae)に対してそれ〔本質〕がどのような関係にあるのか、といったことを述べなければならない。
(2)ところで、より容易な事柄から出発することが学問にはよりふさわしいのであるから、われわれは合成されたものから単純なものの認識を得るべきであり、〔本性上〕より後のものから〔本性上〕より先のものへと遡るべきであろう。それゆえ、存在者の意味から本質の意味へと、話を進めなくてはならない。
第一章
(1)そこでまず、哲学者が『形而上学』第五巻で言っているように、存在者それ自体は二通りの仕方で語られる、ということを知らなければならない。すなわち、一つの意味では一〇の類〔範疇〕に分けられるもの、もう一つの意味では命題の真理を意味するもの、である。しかるに、この両者には次のような違いがある。すなわち、第二の意味では、すべてのものが、それについて肯定命題が作られうる限りは、たとえそれが実在的には何ものをも措定しないとしても、存在者と言われうるのである。そのような意味では、もろもろの欠如やもろもろの否定も存在者と言われるのであって、実際われわれは、肯定は否定に対立しているとか、盲目は目の内にあるとか言っている。しかし、第一の意味では、実在的になんらかのものを措定しているものだけが存在者と言われるうるのであって、したがって、第一の意味では、盲目とかそのたぐいのものは存在者ではないのである。
(2)それゆえ、〔明らかに〕本質という名称は、第二の意味で使われている存在者から獲られたのではない。というのは、もろもろの欠如において明らかなように、本質を有していないようななんらかのものが、この〔第二の〕意味で存在者と言われているのだからである。そこで、「本質」は、第一の意味で言われている存在者から取られていることになる。それゆえ、註釈者〔アヴェロエス〕は同じ個所で、第一の意味で言われている存在者こそが事物の本質を意味するものである、と言っている。そして上に述べたように、この意味で語られる存在者は一〇の類〔範疇〕に分けられるのであるから、さまざまな存在者がさまざまな類と種の内に配置されるのはそれらの自然本性によってである以上、「本質」がすべての自然本性に共通な何ものかを意味しうるのは当然であろう。たとえば、人間性は人間の本質であるし、その他のものについても同様である。
--トマス・アクィナス(須藤和夫訳)「存在者と本質について」、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成14 トマス・アクィナス』平凡社、1993年。
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コメント
私もトマス・アクィナスが恐ろしく好きです。
毎日読んで、気持ち良くなっております。
投稿: 松井千尋 | 2010年10月27日 (水) 16時31分