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それにしても余暇利用とは何と恐ろしい言葉であることか

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 <<paideia>>というギリシア語の表現のなかには何か子供の遊びの軽やかさと無邪気さというものの余韻が残されている。この言葉を一般に適用することができるとするならば、この言葉の本当の「対象」は美しいものである。しかしそれは、何ものかのに役立つということはないのに、推奨されるもの、それゆえ、それが何の役に立つのかと誰一人として問わないようなもののすべてを意味しているのである。この最も広い意味で美しいものに含まれるのは自然と芸術、人倫、慣習、行為と作品、そして伝達されるもの、分かちもたれるがゆえにあらゆる人に帰属するもののすべてを包括しているのである。
 そのうえ、われわれが「文化(Kultur)」という言葉を口にするときにはいつでもそれなりの理由がある。われわれの自己意識に置いてそしてそれを言語的に分節化するときにわれわれはローマ文化によって刻印づけられているのである。われわれが「自然」とか「文化」と言うときには、われわれはラテン語を話している。「文化」という言葉は農耕民族においてはローマ民族と同じように自明なこととして農業<<agri-cultura>>、耕作を意味していた。ところでこの言葉は、ローマ共和国がギリシア人から、すなわちストア的・ギリシア的人文主義から学んだ新しい事柄をつちかう耕地という意味にもなった。まず第一にキケロが<<cultura animi 魂の教育>>、精神的文化(kultur 育成)について語っている。したがって、この言語世界に含まれる農耕的な意味合いは<<cultura>>という新しい概念への翻訳においてもなお貫徹されてきたのである。この概念は種子蒔きから刈り入れまでの期間に行われる育成し手入れする農耕の労働に似せて鋳造されたものである。文化の言葉と本質のうちでわれわれに示されているもの、すなわち人間への形成とは、ただ単に自由な遊びではなくて、精神の種子蒔きと刈り入れの労苦でもあるのだ。
 われわれが上で行った言葉の歴史的な考察によって立ち返ったのは、人間の特徴をその可能性においてもその危険性においても可能な限り明瞭な形で示すようなひとつの起源である。文化という言葉を真面目に受けとれば、文化とは決して余暇利用(レジャー)を意味するものではないということが明らかになる--それにしても余暇利用とは何と恐ろしい言葉であることか。この言葉はすでに、人々が自由な時間を過ごすために十分なほど自由ではないということを示しているからである。文化とは余暇利用をさせるものではなく、人間を互いに襲い掛け合わせ、何かある動物よりもひどいものになることを阻止できるもののことである。今、<<動物よりひどい>>といったのは、動物というのは、人間とは違って、同種のものに対してそれを無に至らしめるまでの闘争、すなわち戦争を知らないからである。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二・須田朗訳)「文化と言葉」、『理性を讃えて』(法政大学出版局、1993年)。

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<<paideia>>というギリシア語はもともと、子供(〔単数形〕パイス、〔複数形〕パイデス)を教育することを意味するものですが、そこから転じて、広く、教育・文化・教養として理解されている言葉です。

その言葉が誕生した契機に立ち返ると、言葉のもつ迫力とか真相にせまれるもので、現下流通している言葉の薄っぺらさとか権威主義化した言葉のもつ圧倒的な力を、ヨイショとひっくりかえすことができるものなんだよな……などと実感するある日の宇治家参去です。

人間とは恐らく、生まれたままで人間であるわけではないのでしょう。
倫理という言葉は西洋において、エートス(ethos)というギリシア語に由来する言葉で、これはもともと「住みか」とか「習俗・習慣」を意味する言葉でした。

「エートスは第二の自然である」というギリシアの言葉がありますが、まさに、エートスを身につけることによって、第一の自然である身体だけでなく、共同存在としての「人間」そのものを、人間はそれを身につけることによって「人間」になっていくんだよなと思うわけですが、その要となるのが、パイデイアという概念なのでしょう。

そしてパイデイアの神髄とは、アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)の解釈を援用しつつガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)が語っているとおりで、最も幅広くそれをみた場合文化の問題となり、そしてそれを形づくる教養とか教育になるわけなのでしょうが、それによって人間が人間となるものであるけれども、「何ものかのに役立つということはないのに、推奨されるもの、それゆえ、それが何の役に立つのかと誰一人として問わないようなもののすべて」という性質をもつものであり、自由な遊びでありながらも「人間への形成とは、ただ単に自由な遊びではなくて、精神の種子蒔きと刈り入れの労苦」が必然的に随伴する人間の営みなのでしょう。

その意味で、その大局にあるのが、「余暇利用(レジャー)」という事態なのでしょう。

文化とか教養は、カタログ的に鑑賞するものでは決してありませんし、何か知的ストックとして抑えておくこととはほど遠いことなのでしょう。

現場としては「子供の遊びの軽やかさと無邪気さというものの余韻が残されている」ように、今生きているその場で培うことができるものですが、その作業は「種子蒔きから刈り入れまでの期間に行われる育成し手入れする農耕の労働」に似たものであり、無邪気に関わるなかで、その労苦の汗を楽しみ、そして、人間になっていくのでしょう。

それを経ないと、次のような事態になってしまうのかもしれません。
すなわち、

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文化とは余暇利用をさせるものではなく、人間を互いに襲い掛け合わせ、何かある動物よりもひどいものになることを阻止できるもののことである。今、<<動物よりひどい>>といったのは、動物というのは、人間とは違って、同種のものに対してそれを無に至らしめるまでの闘争、すなわち戦争を知らないからである。
    --ガダマー、前掲書。

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その意味では、人間は根源的に文化を要請せざるを得ないわけですが、サア、今日は「余暇利用(レジャー)」だ!などと力んでしまうとはそれはもはやpaideiaとかculturではないのかもしれません。

……ということで、食玩の模型を熱心に作る宇治家参去とは、「「子供の遊びの軽やかさと無邪気さというものの余韻」を残しつつも、「精神の種子蒔きと刈り入れの労苦」を惜しまない人物なのかも知れません。

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