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「他者に対する配慮が自己への配慮に勝る」からこそ人間か……

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 --倫理とは何なのでしょうか。

 倫理とは「聖潔」を識別することです。説明しましょう。存在というものの根本的な特徴は、個々の存在者のすべてが自分の存在そのものに専念するということです。植物、動物、すべての生き物は自分の実存にしがみついています。それぞれの生き物にとって、それが生存闘争なのです。そして物質とはその本質的な苛酷さのゆえに閉鎖であり衝撃ではないでしょうか。ところが、人間的なもののなかでは、存在論的には不条理な事態が出現する可能性があるのです。つまり、他者に対する配慮が自己への配慮に勝るのです。これこそ、私が「聖潔」と呼ぶものです。他なるもののこの優位を識別できるという点に、私たちの人間性は存しています。私たちの対話で最初に言われたこと、なぜ私があれほど言葉に関心を寄せているかということを、今はあなたも理解できるでしょう。言葉はつねに他者に向けられています。まるで、他者のことをすでに心配しているのでなければ思考することなどできはしない、とでもいうかのようです。すでに最初から、私の思考は語ることのうちにあるのです。思考のもっとも深いところで、「他者のために」が、言い換えれば、善性が、科学よりもより精神的な他者への愛が結節するのです。

 --そのような他者への関心は教えられるものなのでしょうか。

 私の考えでは、他者の「顔」を前にして、それは目覚めるのです。
--エマニュエル・レヴィナス(合田正人・谷口博史訳)「不眠の効用について(ベルトラン・レヴィヨンとの対話)」、『歴史の不測 付論:自由と命令/超越と高さ』法政大学出版局、1997年。

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市井の仕事へ行くまで、一日中レポートを見ていたおかけで、残り14/57通。月曜には返却しないと間に合わないので、思想的格闘戦をやっておりましたが、ようやくその目処がついたと、安心した宇治家参去です。つぎの〆切分もおくられてきているので、はやめに添削しないといけないのですが、ナイーヴな?私の場合、一日十通が限界のようでして、なかなか進みません。

ときおり気分転換!と称して読書を挟みつつ、1通1通見させていただいておりますが、皆様方の薫陶には、本当に最敬礼するばかりです。

が……ベテランの石神先生もやはり「1日10通以上添削するとチト辛いですね」とこぼしておりましたので、同水準は維持しているのだろう……ということにしておきましょう。

さて……。
市井の職場へ出勤すると、マアこれがまたアリエナイ苛酷な状況で、「人間とは何か」をつくづく、実践の教科書として、瞬間瞬間に考えさせてくれるわけですが、接客業とは、まさに「むき出しの人間性」をまざまざと見せつけてくれるものだよな……そう思わざるを得ません。

詳細は措きますが、レジを打っていても胸ぐらを掴まれそうになったり、クレームだかゴネ得だかその境界が結合したような電話もかかってきたり……と、実に「スリリング」な毎日です。

本日は、夜になって雨が降り始めましたので、お客様の出入りもすこし引きましたので、ゆっくりと休憩できるな……などと思っていたところ、

事務所から電話が1本!
「宇治家参去さん、クレームの電話のようなんですが、内容はおっしゃらず……※通常は概略を伺い担当者へ転送なんですが……ただ、“クレームなんです”とのことで、対応していただけませんか?」

この手の概略がまったく不明な電話が一番、恐ろしいのですが……。

借りてきた猫100匹分の生命力を1匹の猫に凝縮させたが如くの、すんばらしく丁寧かつ朗らか?な応対にて対応交替しますと……、

要は、先ほど来店した際のレジ担当者の応対に頭に来たので電話をしてきたとのご様子。

商品をスキャンするスピードが遅いのと接客言葉のトーンが「あれはないだろう!」ということで……、

「このまま、そうした現状を放置しておくと、店の看板に傷がつくだろう。老婆心ながらとはいわないけれども、あなた方のためと思って……」

……とのことだそうで、びくびくもんの破裂しそうな心臓も収まった次第でございます。

……ただ、入電の際、すこし内容に関して声をかけてもらいたかったものでございます。
電話を終える直前には、穏和な?ムードで終話で、よこで様子を伺っていた店長も安堵したご様子で終了です。

ふり返ってみれば、「(コンテンツ不明の)クレームだ!」というひとつの言葉にあわてふためいた……しかしその様子は他者にはわからないように振る舞っておりましたが……自分自身に恥じ入ると同時に、物質的な実態はもたない言葉のもつ摩訶不思議なる拘束力に今更ながら、魅惑された宇治家参去です。

たしかに、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)のいう通りで「言葉はつねに他者に向けられています。まるで、他者のことをすでに心配しているのでなければ思考することなどできはしない、とでもいうかのようです。すでに最初から、私の思考は語ることのうちにあるのです。思考のもっとも深いところで、「他者のために」が、言い換えれば、善性が、科学よりもより精神的な他者への愛が結節する」言葉が歴然と存在するのでしょう。

恒河沙、那由他の勢いで「言葉」が流通している現在ですけれども、善きにせよ悪しきにせよそこには「言葉」を発している存在者が必ず存在するわけで、その原初の意味を確認させていただいたように思えます。

言葉を発する人がいるからこそ、その言葉を耳にする人も同時に存在します。

そして時によっては、その「言葉」とか、その言葉を発する「人間」を、不思議なことに我知らずと、自分自身よりも優先してしまう局面が存在します。

そこに倫理の原初が存在するのだろうと思うわけですが……。
だからこそ、心がちぎれそうになる弱肉強食の「生存闘争」の血飛沫がとびちるこの世の中ですけれども、自分自身が向かい合い、出会うひとつひとつの局面と丁寧に向かいあっていきたいものでございます。

本論からずれるかもしれませんが、最近またひとつ実感することをひとつ。
現実には「人間とは何か」という問題に関して「人間とは○○だ」と定義してしまうと、必然的にそのカテゴリーに当てはまらない人間なるものを「非人間」と断じてしまう不可避の陥穽が存在します。

その意味で「人間とは何か」という議論において、概念の固定化に関しては緊張感をもってそれを避けていかなければならないなということが必要不可欠です。

固定化とはいいませんが、そして同時に、その探究は不断に探究されつづけなければなりません。そんなもん考える必要はないよ、ケ・セラ・セラさというのは、固定化の裏返しにほかなりません。その両極端を避けつつ、あきらめず対峙し続けることが肝要なのでしょう。

しかしながら、それと同時に、人間を人間としてその内実たらしめる、範型としての「人間的」と称されるコンテンツも不断に吟味・探究され続けなければならないのだろうと思います。

動物との対比で恐縮ですが、人間は動物の一員であるにもかかわらず、動物ではありません。だからこそ古来より人間を人間として称する言葉として「人間的」なる言葉が造られてきたのだろうと思います。しかしその人間の人間らしさを表象する「人間的」なる概念も固定化されたドグマとして陥ることを不断に避け続けなければならず、まさに倫理学的探究とは、「これがファイナル・アンサーだ!」という完全模範解答がないゆえに、苦悶するわけですけれども、マア、この苦悶が、人間を人間にさせるわけで、まさに、その苦悶が心地よいというところでしょうか……。

チト疲れましたが、カント(1724-1804)を少し読んで寝ます。
最後の「白い憎いヤツ」がまだ少し在りましたので……。

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