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なにゆえ人間は、本性的に具わった武具や覆いを持たぬ、裸の姿なのであろうか

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……神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しととされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」
    --『創世記』第1章25-27.

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昼前におきると、やはり細君と息子殿は外出のようで、別についてこなくてもよいといわれておりましたのでスルーしたのですが、ウルトラマンネクサス(ジュネッスブルー)との握手&撮影会が朝からあったのでそちらへ母子で赴いたようです。

最近、息子殿のなかでの関わり具合から申しますと、ウルトラマン(シリーズ)よりも明らかにアニマルカイザー(関係)にシフトしたことがありありと伺えるようですが、やはりアニマルカイザーはゲームのなかでの世界のお話になりますので、こうしたウルトラマンの「現物」との握手&撮影会というような邂逅の場なんかがありますと、やはり嬉しいようで前夜も楽しみにしていたようで御座います。

ただし宇治家参去としてもウルトラQ~ウルトラマンレオぐらいまでしかきちんと把握しておらず、ちょいと中をすっとばして最新のウルトラマン・メビウスまでは話がわかるのですが、息子殿はすべての内容を理解しており、すべての怪獣の名前及び特性を暗記しておりますので……それはそれですごいことだなあ~などと思うわけですが……。

「知的リソースの注ぎ具合がマズイんでねえの?」

などと思うのは宇治家参去ひとりではないようで、「その暗記力と集中力を別に注いでほしい」と細君もぼやいている次第です。

握手&撮影会が済んで外食してから二人で家に戻ってきましたが、なにやら手にお土産がありました。

「金魚すくい」もあったとのことで、息子殿の手には、金魚が一匹入ったビニール袋。
そして細君のビニール袋には、熱帯魚のグッピーが4~5匹。

「金魚すくい」で何でグッピーなのか?

「勢い?で買ってきたのか?」

……と訊くと、

「金魚すくいのいけすの中にグッピーとかも泳がされていたから、ゲットした」

……とのことだそうです。

宇治家参去の細君、なかなかどうして金魚すくいの名手のようで、ひとつの網で数匹はゲットするのですが、今回はグッピーを4~5匹手に収め、息子殿は小さな金魚を1匹収めてきましたので、勝率はいいほうでしょう。

で……。

うちにはこぶし大に大きく成長した金魚とハゼだかナマズのような熱帯魚が同居する大きな水槽がひとつ。
そこに入れていたメダカが子供を生みそうなので、別にした水槽がひとつ。

そして今回のグッピーです。

どっちかにいれるのか?

……などと様子を窺っていると、使っていないもうひとつの水槽をひっぱりだし、グッピー軍団用にセットされてしまいました。

ん~。

うちは金魚屋じゃないのですが……。

「生き物なので世話をする責任が伴うのはご存じでしょうか……?」

……などと恐る恐る伺いをたててみると、

「どうせ、宇治家参去がお世話はしないわけなので……」

「イヤ、長期不在ハワタシニナルワケデスノデ……」

「そういう解釈もある、解釈学とかやっているわけなんだから、様々に解釈した方が価値的じゃないのかしら」

……なるほど・・・、ってをゐ!

ともあれ、水槽が3つ。鳥の駕籠が1つ。
今年の夏は大変そうです。

さて……。
ちょうど昨日から古いキリスト教関係の文献を再び紐解き始めたので、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225-1274)は酔っぱらいながらも500頁を完読できたので、その勢いで、本日はギリシア時代の教父たちの書物をさやさやとめくっております。

ちょうど今読んでいるのが4世紀のニュッサのグレゴリオス(Gregorius Nyssenus,335-394)の著作です。

この当時の初期キリスト教教父たちは弁証家と称されるわけですが、弁証家とはすなわち「弁解」「証明」の意味で、対・内部(キリスト者)にたいして、対・外部(異教徒)にたいして、その真理を「弁解」「証明」することにひとつの主眼がおかれていたのそう呼ばれております。

ニュッサのグレゴリオスの時代になると、「弁解」「証明」というスタンツが全面的にでるような時代では決してありませんが、それでもそうした伝統のなかで神学を真剣にやったせいでしょうか……大変読みやすいのですが重厚で、考えさせられることが多々あります。

荘厳なカテドラルを思わせるようなトマスの言説の生命力にもひしひしとうなだれてしまうわけですが、正邪をはっきりとさせましょうよと説得してくる初期キリスト教の教父たちの生命力もあなどりがたく、読み返すたびに驚きと発見の連続です。

ちょうど、冒頭に引用した『旧約聖書』冒頭の「創世記」の一節が、動物としては他の動物と同じであるにもかかわらず、著しく本性を別にする人間の人間性と他の動物に対する態度の根拠と評される部分になります。

これに対するニュッサのグレゴリオスのコメンタリー(人間創造論)を読んでいたわけですが……

たしかに「神の似姿」を持った人間には「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」というわけで、そうした人間以外の動物的存在をその人間存在の目的のために「利用」してよいと考えることも不可能ではありません。

事実、西洋においては、人間が人間に対して対他的に存在する事物全てを征服してこようとしたのがその歩みの骨格です。
※蛇足ですが、だからそういうオクシデンタリズム(西洋)とオリエンタリズム(東洋)を固定化した対立構造ととらえ、西洋の環境への支配主義と、東洋の環境への共生主義なんかを対他的にあぶりだして、キリスト教的伝統に基づく西洋の環境に対する支配主義はは巨悪で、タオイズム、アニミズム的な東洋の環境全肯定主義にも違和感が多大にあるわけで思想の対比はある局面でナンセンスしか産まないのだろうと思います。

脱線しました。
で……

しかし、実は原初の言葉に深く耳を傾けるならば、支配・征服という表現であったとしても、そこには、対象と関わる際の厳粛な「責任」とか「賢慮」が不可避的につきまとうわけであり、モッタイナイではありませんが、対象に関わる際にかならず畏敬の念があったのではなかろうかと思ってしまいます。

図らずも漱石・夏目金之助(1867-1916)が「イズムの功過」(三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫、1986年)で言っているとおり「 大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面な男が束にして頭の抽出(ひきだし)へ入れやすいように拵えてくれたものである。一纏めにきちりと片付いている代わりには、出すのが億劫になったり、解(ほど)くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られた指南車というよりは、吾人は知識欲を満たすための統一函である。文章ではなくって字引である」との如く、通俗的なイデオロギー対立こそ不毛なものはないでしょう。

結局の所、『聖書』でとかれる「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とは「無責任に支配せよ」との命令を意図したわけではなく、同時に「かかわることの管理・責任」をふくんだものがその実かも知れません。

支配という言葉にひっぱられすぎると、木も見ないし、森を知覚できないのかもしれません。

よくいわれますが、結局はかかわる当事者の問題だといういい方があります。
たしかにそうです。テクノロジーは人間を生かすことも、殺すことも可能です。だからこそその人間の人間観の問題に執着してしまいます。

例えば原子力エネルギーもそのひとつの象徴なのでしょう。究極破壊兵器として使用することも、究極の?エネルギー源として使用することも可能です。

だからこそ、人間の人間観の問題に収斂していきます。

ではなぜ人間の人間観の問題に収斂していくのでしょうか。

それは何を隠そう、動物としての人間自身が不完全な生き物だからなのでしょう。

そんなことを考えながら、結構酔っ払ってきて、支離滅裂で恐縮です。

……っていつものことですかね。

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第七章
なにゆえ人間は、本性的に具わった武具や覆いを持たぬ、裸の姿なのであろうか。

 ところで、人間の姿が直立しているということは、何を意味しているのであろうか。なぜ生活のための種々の力が、生まれながらにして人間の体に具わっていないのであろうか。人間は本性的な被り物をもっておらず、いわば武具を持たぬ貧相な姿であって、必要なものをすべて欠いた状態で生命へと導き入れられた。よって外見的には、祝福されるどころかむしろ憐れむべき姿である。角のような防具を具えてもいないし、尖った爪にも、蹄にも、牙にも、あるいはなにか本性的に死をもたらす毒を発する刺し針にも装われていない。多くの動物が、敵対するものどもに対し、自らの内に防御のために有しているようなものを、人間は何も持っていないのである。体が毛で覆われているわけでもない。そもそも人間が他の動物を支配する座に定められたのであれば、自らの安全のために他の動物からの助力を必要としないように、本性上自らに固有の武具で身を守らねばならないはずである。
 ところで、獅子や猪、虎、豹といったたぐいのものは、身の安全にとって十分な、本性上に具わった力を有している。また雄牛には角、兎には速さ、鹿には跳躍力と優れた視力が具わっている。そして他のあるものは大きさ、また別のものには鼻、蜂には針というように、総じてすべての動物には、なにか身の安全のために役立つ点が本性的に具わっているのである。あらゆる動物の中でただ人間だけが、速く走るものよりも鈍く、肉多きものよりも小さく、生来の武具に保護されているものよりも捕えられやすい。それゆえ、こう問いかける者もあろう。「どうしてこのような人間が、すべての動物に対する支配権を獲得したのであろうか」と。
 しかしながら、われわれの本性には欠けているように思われることが、他の動物を自らの支配下に置くことの端緒となるということを示すのは、なんら困難なことではないと私には思われる。なぜなら、たとえば人間が次のような力を有していたとしよう。つまり、速さの点で馬をも追い越し、堅固さのゆえに摩滅を知らぬ足を持ち、蹄や鉤爪が生えており、角や針、あるいは鋭い爪を持っていたと仮定しよう。おそらくはまず獣的であろうし、もしそういったものが生まれつき体に具わっていたとすれば。人間にはまったくそぐわないことであろう。また人間は他の動物に対する支配をなおざりにし、配下にある動物との強力をなんら必要としないであろう。このようなわけで、人間に従属する動物それぞれに、われわれの生活にとっての有用性が分け与えられた。こうして、彼ら動物に対する人間の支配が必然的なものとなったのである。
 まず第一に肉体的に鈍重で動作が緩慢であるという点は、馬を活用するために馴らすこととなった。また体が裸であるという点によって、羊の世話が必要不可欠なこととなった。羊は毎年羊毛を産出して、われわれの本性に欠けている点を補ってくれるのである。あるいはわれわれの生活のための物資を他の地域から運ぶ必要は、動物たちを運び手としてその労役に服させることとなった。また人間が家畜と同じように草を食むことができないという点は、牛をわれわれの生に仕えるものとした。つまり牛が自らの労役によって、われわれの生を楽にしてくれるのである。あるいは人間が他の動物と戦う際に、歯と噛みつく力を必要とする時には、犬がその速さとともに、自らの顎をわれわれのために提供してくれる。つまり犬はその鋭い歯の力をもって、いわば人間にとっての生ける短剣となってくれるのである。
 さて人間は、角という防具や尖った爪よりも強力で鋭利なものとして、鉄を考えついた。獣には生まれつき角や爪が具わっているが、鉄はわれわれに常に具わっているというわけではない。機に応じてわれわれの力となってくれるが、それ以外の時にはおいて置くことができる。つまり戦時には皮膚の上にまとうことで、いわば鰐の鱗のように、鉄を武具とすることができる。だがそれ以外にも、鉄には技術によって形を与え、さまざまな用途に用いることができる。すなわち鉄は、戦時には戦争に用いられるものであるが、平時には戦士を心労から解放しておいてくれるのである。
 鳥類の翼もまた、人間の生に奉仕している。なぜなら発明によって、われわれは翼の速さにも欠けてはないからである。つまりまずある鳥はわれわれに慣れ親しんだものとなり、狩人たちと働きを共にする。また他の鳥はその翼をもって、工夫次第でわれわれの用に応じてくれる。さらに技術は、発明により、矢をわれわれにとって鳥の働きをなすものとした。すなわち弓を用いることで、われわれの用途には翼の速度が与えられるのである。またわれわれの足が、長旅には傷つきやすく摩滅しやすいものであるという点は、動物からの援助を必要不可欠なものとした。なぜなら動物を素材として履き物を作り、足に合わせることができるからである。
    --ニュッサのグレゴリオス(秋山学訳)「人間創造論」、上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年。

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コメント

中世思想研究所を有する大学に通う男、うへのです。

元々前の大学では、法学を学んでいたのですが、憲法でこれでもか!と、でてくる概念の一つに「人間の尊厳」というものがあります。
在りし日の私はこれが全く理解できず、いわゆる司法試験組の仲間達が当たり前のように「憲法上明記されている人権以外であっても、憲法が人間の尊厳の立場から人権を制定している見地から言うと、云々。」と答案に書いているのを見ると、人間の尊厳・・・なにそれ?と首を捻っていたものです(自分も答案にはそう書いてたのですが)。しかも、誰に聞いても「人間の尊厳は人間の尊厳だよ」とオウム返し。

その後、紆余曲折があって哲学に進むことになったのですが、ようやく「人間の尊厳」なるものが何かがわかりました。「人間の尊厳」ってキリスト教的概念だったのですね!そして、基本的に人間以外に尊厳ってないのですね。あー、スッキリ。
欧米の環境倫理などが人間中心的な理由もようやくわかりました。

やっぱり西洋発の概念を知る上で、その背後にあるキリスト教的なものは外せない事に真の意味で気づかされました。
日々是精進です。

投稿: うへの | 2009年5月 4日 (月) 09時30分

うへのさんゑ

こんばんわ。
ワタクシもいまでもときどき、そこの食堂のうえにある聖三木図書館を利用しております。いい本を眠らせているわりには、利用者がすくないのがすごくベストで、おつりがでるほど?活用させていただいております。

中世思想研究所のリーゼンフーバー師には、三田で授業を受けさせていただいた思い出もあります。

さて、「人間の尊厳」……実に難しいですね。

結局、ご紹介くださった法学の議論で堂々巡りというのが通例で、ウィトゲンシュタインなどにいわせると、そんなトートロジーはよせ、って突っ込まれそうです。

結局ところ……通俗的な人生論のようないい方で極めて恐縮ですが……「人間の尊厳」にせよ、「生命の尊厳」にせよ、どのような発想をところうとも他律的にあたえられたままであっては「人間の尊厳」は「人間の尊厳」にならず、かえって人間そのものを阻害するものではないだろうか……などと思ってしまいます。どのように自己の倫理とか確固とした哲学として内在化させていくのが、そこが問われているように思えて他なりません。

その意味では、キリスト教的概念のひとつ、「神の似姿」をもつがゆえに「人間は尊厳されてしかるべき」というのも、その思想がイデオロギーとして先行してしまうと、最終的には人間の崩壊を招き、これはキリスト教に限らず、仏教的言説、イスラーム的言説でもおなじなのだろうと思います。

たえず、どのようにその概念を鍛え上げていくのか。
これで完成した!と議論構築を見てしまうと陥穽になってしまうのだろうとおもうこと屢々です。

その意味では、まさに剣豪の如き日々是精進が必要なのでしょうね。

投稿: 宇治家 参去 | 2009年5月 5日 (火) 01時11分

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