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Trancher la difficlté, trancher la question, trancher court

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 労作したり、読書したりまた研究したりする術においては、勇気が、一種の勇士的精神が重大なる役割を演ずる。それは即ち対象に附纏(つきまと)うところのあらゆる困難を物ともせず、敢然として着手すること、しかしまた、到底他にその困難に打勝つべき途なきこと、あらゆる我らの努力と最も勤勉なる探究とをもってしてなおかつなんら見るべき成績を挙げえざることを洞見するや否や、断然、『結目(むすびめ)』を切断するの勇あることである。Trancher la difficlté, trancher la question, trancher court(困難を切断すること、疑問を切断すること、手短に切断すること)。これはきわめてよき言葉である! それは自らなんの不必要なる困難をも造らざること、それのないところには決してそれを看取せざること、Chercher midi à quqtorze heurs(ありもしない困難を崇めざること)、毫も問題とするに足らざる、もしくはもおうとっくに解決されたる、もしくはわざわざ頭を悩ますの価値なき、もしくは各人がひとり自己の為にのみ、全然個性的に、純粋に個人的に解決すべき、決して他人にかわって答えてやることのできない、もしくは最後に、現世においては人間的理性に対していつまでも幽暗なるもぼとして封じ置かるゝのほかないような一切のいわゆる疑問や、問題をば手短に片附けることである。--
    --ケーベル(久保勉訳)「十二 リヒテンベルヒの観念論観」、久保勉編訳『ケーベル博士随筆集』岩波文庫、1957年。

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この文章はケーベル(Raphael Koebel,1848-1923)が、リヒテンベルヒの観念論観を材料にしながら、労作(作業)としての学問と真理把握の学問を混同してはならないとの随想の途中のところからなのですが、読んでいると、はあ、なるほどと思うところがあります。

たしかに、学問をする--それは研究というスタイルもあれば、興味の探究というスタイルもあれば、学生として作業を積み重ねていくというスタイルも実際にはあり多岐多様にわたるのが現実なのですけれども--それでもなお、そうした対象と向かい合うときの要諦が、さりげなく披瀝されているように思えて他なりません。

すなわち次の部分です。

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労作したり、読書したりまた研究したりする術においては、勇気が、一種の勇士的精神が重大なる役割を演ずる。それは即ち対象に附纏(つきまと)うところのあらゆる困難を物ともせず、敢然として着手すること、しかしまた、到底他にその困難に打勝つべき途なきこと、あらゆる我らの努力と最も勤勉なる探究とをもってしてなおかつなんら見るべき成績を挙げえざることを洞見するや否や、断然、『結目(むすびめ)』を切断するの勇あることである。

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何故学問に「勇気」が必要なのか!
……などと思い、読んでいくと納得してしまった!わけですが、確かに「対象に附纏(つきまと)うところのあらゆる困難を物ともせず、敢然として着手すること」勇気が必要なわけで、それと同時に「到底他にその困難に打勝つべき途なきこと、あらゆる我らの努力と最も勤勉なる探究とをもってしてなおかつなんら見るべき成績を挙げえざることを洞見するや否や、断然、『結目(むすびめ)』を切断する」勇気も必要です。

もっとも宇治家参去の場合、「対象に附纏(つきまと)うところのあらゆる困難」に直面するまえの段階で、「さあ今日も仕事するか」というエンジンがかかるのが遅いことや、息抜きで読み始めた全く対象と関係のない文献に熱がはいったりしますので、対象に向かい合う為の「勇気」が最初に必要なわけですが、それでも「対象」と格闘する際、その対象と執拗に向かい合っていく勇気、抛擲しない勇気は学問には必要なのだろうと思います。

そして、それと同時に、「『結目』を切断する」勇気、これも大事なのでしょう。
得てして、学問を積み重ねれば積み重ねるほど、本質と直接関わりのない瑣事に振り回されて、本質を見失ってしまう局面が多々存在します。もちろんそうした局面に関しても、それを「切断してしまってOK!」というほど単純ではない、一筋縄ではいかない生産性も秘めておりますので、充全にそれを全否定することは出来ませんが、それでもなお、探究の迷路に迷い、そのなかで、研究の目的とか、学問と向かい合う際の初心を捨象してしまうということは現実にもあるわけです。

たしかにカント(Immanuel Kant,1724-1804)の『純粋理性批判』と真剣に向かい合い、「カントの哲学とは何か」をつかみ取ろうとする際、その目的のために、初版の序文と第二版の序文の差異に注目することは必須です。

そしてその作業は、すなわち「目的に向けた下準備」というわけなのですが、それがまた二律背反で、その序文の差異だけでひとつの博士論文が完成してしまうというほどの難行なのですが、それと格闘するなかで、最初に立てた「カントの哲学とは何か」を忘れてしまうということが現実にはあるわけです。

別に「目的に向けた下準備」に問題があるというわけではありません。
それはそれで大切な作業ですからおろそかにすることは不可能です。しかし、そこから何を組み立てていくのか--繰り返しになりますが、作業に没頭するなかで、忘れて背景内のが、研究の目的とか、学問と向かい合う際の初心--というものでしょう。

とかく観念論の研究者は、そうしたディレンマにおちいりやすく、作業をコツコツと積み上げていく中で、

「そういや、オレ何をやろうとしていたんだっけ?」
「カントの哲学とは何かをやろうとおもっていたんだよな?」

……しかしながら、たくさん作業を積み上げ、論文も何本も書いたけれども、肝心の「カントの哲学とは何か」といった訊かれ、「もっと簡単にかつもっと単純に説明することができるか」(ケーベル前掲書)といわれてみると、即答できないことがしばしばです。

その意味では、なにやら、訓戒のようで恐縮ですが、ある意味では目的とか初心を燃えたぎらせ対象と向かい合う「勇気」というものは学問の基礎には必要なのかもしれません。

特に高等教育における学問はなおさらなのだろうと思います。
いわば、義務ではありませんので、やらなくてもいいわけですが、そこをあえて選択したわけですので、それを地道に続けて行くには勇気がやはり必要なのでしょう。

ケーベルは、明治~大正時代の東京帝国大学で教鞭をとった外国人教師ですが、その膝下には、後の教養主義を準備する数多くの俊英たちが集ったとききますし、当時の学生たちに多大な影響をあたえたわけですが、その意味では教師ケーベルの語りとは学生に対するひとつの励ましだったのだろうと思います。

つかれることが多い現代社会の毎日ですが、何か初心にもどれたようなところなのですが、この時点になって大いなる過ちを発見です。

土日に使うパワーポイントに手を入れていたのですが、のこり1/4ほど校了を済ませていなかったことが発覚!

とりあえず、飲み始めちゃったので、明日がんばりましょうか……。
何しろ久し振りに、大好物のBecks(ドイツ)を手に入れましたものですから、キレのあるさっぱりした味覚とホップの香りを堪能させていただきます。

……っていつもギリギリのラインで苦闘する宇治家参去でした。

さふいや、ビールをもとめる途上の自転車道の紫陽花さんが花びらを解き放っておりました。季語では「夏」を意味するようですが、もはや夏なのか?

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