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【覚え書】「〔今週の本棚〕 沼野充義評 1Q84 Book1、2」、『毎日新聞』2009年6月14日(日)付。

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考察する時間がないので、【覚え書】でお茶を濁しておきましょう。
ある意味で「本を読む」ことが仕事の大部を占めております。
一冊の書物と向かい合い、活字と対話し、そして現実の生きているこの場所から思索をふかめていくのが宇治家参去の日常生活であり、本業といっても過言ではありません。

観察もできなければ実験もできませんし、なにがしかのデータを元に、ひとつの公式を紡ぎ出すこともできません。ですから、「本」に「酔わない」ように「醒めた」状態で、生活の現場から遊離せず相互に批判的に吟味しながら、活字と対決するほかありません。

で……、
「本を読む」といっても「仕事として」「読む」わけですので、読む対象が限定されてしまうことが致し方なく、ほとんどが思想・宗教の文献になってしまいます。

そうしたなかで、なかなか確保できないのが「仕事して」「読む」のではなく、「読みたいから」「読む」という、いわば「読書の楽しみ」という部分です。

仕事として読むのは、自宅か大学に限定して、それじゃア、電車の中で読めよ……っていわれてしまいそうですが、その時間も殆ど仕事用に投入してしまうか、寝るかになってしまい、なかなか「読書の楽しみ」を味わうことのできないことが、最近の頭痛の種でございます。

先月は、ひさしぶりに時間をこじあけ、ドストエフスキー(Fyodor Dostoyevsky,1821-1881)の『カラマーゾフの兄弟』の新訳を念入りに読むことが出来き、こころとあたまに新風を吹き込ませることができたのですが、今月はまったくそうした「読む楽しみ」ができておりません。
ちなみにドストエフスキーは邦訳で読まずに、ロシア語原典で読むべきなのですが、大学時代二年間かけてロシア語と格闘した末に、手に入れたのはスペルをよむ力だけでしたので……がっくし、この問題は後日の課題としておきましょう……できれば今世で実現したいものですが……。

で……【覚え書】!

宇治家参去の読書の場合、ドストエフスキーとかトルストイ(Lev Nikorajevich Tolstoj,1828-1910)とか、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)だといった霊峰ばかり登攀しているのでは……?という嫌いがありますが、そうでもありません。

本朝の現代の作家ですと、村上春樹(1949-)の作品は全て読んでおりますし、「村上春樹に対する読者の期待は募る一方」というほど熱心な読者ではありませんが、その言説には、何か現代世界の固定的なものの見方を粉砕する力を秘めているのでは……などと注目はしております。

思えば、70-80年代の感性的な作品からその著述はスタートしますが、そのスタイルが完成した後もなお、そこに安住することなく、新たなる転回・実験を繰り返すその作風と意欲には、まさに脱帽する次第です。

様々な論者によってすでに指摘されているとおりですが、やはり大きなコペルニクス的転回となるのは、プリンストン大学客員教授を経たあとの天災と人災の敬虔なのでしょう。
同じ年に起こった阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件に深く関わっていく中で、村上春樹の作品は大きく転回していくわけですが、村上春樹自身はそのことを、心理学者・河合隼雄との対談で次のように述べております。

すなわち……。

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それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが……。
    --村上春樹・河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』岩波書店、1996年。

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そうした村上春樹の新作が『1Q84』でございます。
ほぼどこの書店でも品切れという好評ぶりですが、そのお陰か、私の手元にもまだありません。それが入手できた暁には--、ゆっくりたのしめる時間を作れるように、今から“仕込んで”おくしかありませんねエ。

なにしろ、「面白い小説を読んだ後、世界がなんだか少し違って見えることがある」わけですから。

……ってことで、とっとと飲んで寝ます。
数時間後には起床して授業をしなければなりませんので。

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沼野充義評 1Q84 Book1、2
村上春樹著(新潮社、各1890円)

精緻に作られたパラレルワールド

 このせわしない世の中、人気作家でさえ、何年か新作を出さなかったら、すぐに忘れられてもおかしくない。ところが村上春樹に対する読者の期待は募る一方で、この新作はまだ内容も知られず、きちんと読まれていないうちから驚異的なベストセラーになった。いまや国民的作家となったハルキの、ユニークな位置をよく示す現象ではないか。
 しかし、数字が一人歩きすると、ちょっと危なっかしい。統計の大きなだみ声に惑わされることなく、静かに小説を味わいたいと言ったら、へそ曲がりだろうか? 村上春樹の小説は「ハリポタ」やゲームソフトではなく、もっと精緻に作られた言語作品なのだから、その静かな言葉の音楽に--そこからは美しい和音ばかりではなく、不協和音やミスタッチも時には聞こえてくるが--耳を傾けないものだ。
 とはいえ、ここにじつに様々な要素が盛り込まれていて、手短にバランスよく紹介することは難しい。それを承知であえて試みれば、第一に、読者を引き込んで話さないスリリングなプロット展開がここにはある。女性主人公が置かす連続殺人、カルト教団で行われたおぞましい行為、そして正体不明の美少女「ふかえり」が書いた『空気さなぎ』という不思議な小説。謎が絡まりあって、初めはゆったりと、やがて激しくいつもながらのハルキ・ワールドが繰り広げられる。
 第二にこれは、現実世界に片足を残しながら、半ば幻想とSFの領域に入っていくファンタジーでもある。タイトルの『1Q84』とは、オーウェルの有名な反ユートピア小説のタイトルをもじったもので、小説の舞台の一九八四年が改変されて、登場人物たちが踏み込んでしまった一種のパラレル・ワールドを指す。
 第三に、これはカルト教団や家庭内暴力といった、個人の自由意志をふみにじるものに対する力強い抗議でもある。第四に、青豆という女性と天吾という男性それぞれの生い立ち、家庭環境、そして親との確執を生々しく描いた家族の物語でもある。第五に、ふたりの男女が十歳のときに手を触れ合って以来、離れ離れになっても二十年間育み続けた、世界にただ一つの愛の物語でもある。第六に、そのすべてを描き出す、機知と比喩に満ちた村上春樹ならではのセンスのよい文体も健在だ。
 作家はこの小説に自分の持つものをすべて盛り込もうとしたのだろう。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を書いた年齢を超え、村上春樹は一つの作品がそれ自体宇宙であるような小説を目指しているようにも見える。ただし、その意図が野心的なものであるだけに、刊行された第二巻まででは、作家は自らに与えた課題にまだ十分に応え切っていない。ここでは村上春樹の卓越した技術と文体は、見通せないほど深い人間の心の闇の周りを、まだ測量しようとしている段階のように思われる。おそらく、彼がロシアの文豪のように人間の魂をぐいとわしづかみにして、問題の核心に迫っていくのは、続編でのことになるのだろう。続編の予告は公式には一切ないが、私は続編に期待しているし、『1Q84』を本当に評価できるのはこれが本当に完結してからのことではないかと思おう。
 とはいえ、第二巻まででも、すでに物語の力は相当なものだ。面白い小説を読んだ後、世界がなんだか少し違って見えることがあるが、『1Q84』の読者も用心していただきたい。読み終えた時、あなたの周りの世界はもう200Q年になっているかも知れないのだから。
    --「〔今週の本棚〕 沼野充義評 1Q84 Book1、2」、『毎日新聞』2009年6月14日(日)付。

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» 1Q84 BOOK 1、 1Q84 BOOK 2 【村上春樹】 [とんみんくんの読書履歴]
こんなにも淡い恋があったんですね。このふたりぜひとも再会させてあげたい。早くもBOOK3とBOOK4の発売の予感のする終わり方です。早く続きが読みたい。 [続きを読む]

受信: 2009年6月21日 (日) 01時50分

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