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自分があれこれの特定の人間であるということ・自分がそもそも人間であるということ

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 ほとんどすべての人間は、自分があれこれの特定の人間であるということを、そこからみちびきだされる系をも含めて、たえず気づかっている。これに反して、自分がそもそも人間であるということ、そしてここからいかなる系が出てくるかということは、ほとんど彼らの念頭に浮かばない。けれども実は、これが大切なことである。はじめの命題よりもあとの命題の方に心を寄せる少数の人々が、すなわち哲学者である。
 それでは、ほかの人々の心の傾向は何にもとづくかというと、それは、彼らが物事に接していつも個別的な個体的なものを見て、それらに具わる普遍的な事柄をまったく見ない、ということから起こっている。いくらか高い天分をさずかった人々だけが、彼らの優秀さの度合いに応じて、次第に個々の物事の中に、それらを通ずる普遍的な事柄を見るようになる。
 この重要な差別は、認識能力全体にわたる差別であるから、きわめてありふれた物事の直観の末にまで及んでいる。だから、そういう卑近な物事の直観でさえ、それが優秀な頭脳の中にあるのと、平凡な頭脳の中にあるのとでは、すでにちがっているわけである。--このように、そのつど接する個別的なものにおいて普遍的なものを把握するはたらきは、私が認識の純粋に没意志的な主観となづけて、プラトンのイデアに主観の側で対応するものとして説いておいたものとも一致する。けだし、普遍的な事柄に向かう認識だけが、意志から解放された認識にとどまるのであって、個別的な物事は、これに反して、意欲の対象であるからである。それゆえに、動物の認識はこの個別的なものだけに窮屈に限定されており、それに応じて彼らの知性ももっぱら彼らの意志に奉仕する位置にとどまっている。これに反して、上に述べた普遍的な事柄へ向かう精神的傾向は、哲学と詩において、一般に芸術と学問において、真価のある仕事をなしとげるために必須の条件である。
 意志に奉仕する知性にとって、すなわち実際的に使用される知性にとっては、存在するものはただ個々の物事のみである。芸術と学問にたずさわる知性にとって、すなわち独立に活動している知性にとっては、存在するものは、すべて種とか属とか類とかのような普遍的存在のみであり、事物のイデア(理念)のみである。造形的な芸術家さえも、個体の中に理念を、すなわち類を表現しようとしているのである。
 この差別は次のことにもとづいている。すなわち、意志というものは、直接には、もっぱら個別的な事物のみをめざしている。これらのものが、意志の本来の対象なのである。というのは、それらのみが経験的な実在性を具えているからである。--これに反して、概念や類や種は、すこぶる間接的にしか、意志の対象とはなりえない。粗野な人間が普遍的な真理をまるで理解しないのは、このためである。
    --ショーペンハウエル(細谷貞雄訳)「哲学とその方法について」、『知性について 他四篇』岩波文庫、1961年。

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午前中にレポート添削を少しすませ、昼からは、まだ手を付けていない論文の資料に目を通していると……はや夕方です。

休日なのに、マアよく仕事をしたわい!ということで、夜はゆっくり休ませて頂くか!と思った矢先、細君が急な外出の要件ということで、息子殿と留守番してくれ……とのご命令のようで、「ゆっくり休ませて頂く」ことが不可能になり、深い溜息をつくある日の宇治家参去です。

「息子殿と留守番」ということは……とりもなおさず、そのお相手をしなければならない……という状況で、当然「ゆっくり休ませて頂く」わけにもいかず……仕事もしたし予定もはいっていないので、今日ぐらい休ませてくれや!って式にレンタルしていたDVDでも見て、ちびりちびりと飲みながら日付変更線が変わる前に寝よう!と思っていたのですが……、息子殿と対決です。

……ただ細君が出ていくと、

それはやはり息子殿にとってもまさに「鬼の居ぬ間のなんとやら」で、早速「Youtube!Youtube!」と激しい催促デモに遭遇です。

このまま「Youtube!」に「留守番」させるのもなんだかなあ~というところで、2-3日、パソコンにふれることを我慢していたようなので、「Youtube」をセットしながら、その横でこっちは作業しながら、すこしやりとりをすることにしました。

もっともYoutubeを真剣に鑑賞したい息子殿にしてみると、横から口を挟んでくるそのあり方はウザイのでしょうが、構わずに?言葉をかけると、それでも返してくれるようで、少し発見の数時間です。

息子殿の生活や言動を観察していると……これは幼稚園に入る前ですが、ひとつ思っていたのが、個別の存在者を認識することはできても、その個別の存在者を収斂していく「種」とか「属」とか「類」を認識するのが難しいようだよな~と常々実感していた事態です。

今日の息子殿は英語塾が夕方にあったので、何をやったの~?ってふってみたわけですが、やはりYoutubeに集中したいので、「覚えていない!」って速攻で返されましたが、丹念に執拗に声を掛けていくと、動物の名前なんかで数の数え方をやったようでして……

「象」は「えれふぁんと」、「虎」は「たいがー」

……なんだよ、と言っておりましたが、

それでもそのあとで、

「“象”は“えれふぁんと”だけど、“えれふぁんと”にはいろんなぞうがいるんだよ。いんどぞう、あふりかぞう。だけど、いんどぞうもあふりかぞうも“えれふぁんと”なんだよお~。あにまるかいざーの“るしふぁー”もぞうだよお」

幼稚園にはいってからは、ある意味で共同生活や学習を経験し、そして塾での勉強に取り組むようになってからは、稚拙ながらも特殊な還元不可能な個別の存在者だけでなく、その存在者を「ひとくくり」にする概念とか理念を理解し始めたようですね。

動物とか植物に関しては、それでも、個別の存在者とそれを包括する概念を理解するのは早かったかと思います。

例えば、スミレやタンポポ、白百合……といった個別の存在者をそれとして認識しながらも、「花」なる概念・理念を「花」とは異なる概念・理念と区別することには、うえの象の話ではありませんが、早かったかと思います。

ただ、話を聴いていると、個別の存在者と包括する概念・理念の関係において一番難解なそれはやはり「人間」ということのようでした。

「○○くん」
「××さん」
……こうした個別の還元不可能な存在者に関しては、その違いを理解し、その差異を尊重しているようでしたが、それをグルーピングしてしまう排他的概念である「人間」なるものに関してはなかなか理解できなかったようですが……。

それでも、マア、(本人はYoutubeに集中したいのでちとウザイ感全開ですが)「仮面ライダー」のup動画を見ながら、「でぃけいどと人間はどっちがつよいの?」と聞いてくるので、「リアルなにんげんだよ」って返答すると、「ありえない」って返され、矢継ぎ早に「なんで?」と聞くと、「にんげんがつよいのなら、ぱぱよりつよいはずだけど、それはありえないよね」……。

……次の言葉が出てきませんでしたが、ある意味では「人間」という概念を理解しはじめたようです。

思うに、人間に関しては子供は還元不可能な個別の存在者の認識に傾くきらいがある一方で、大人はそれを抽象化・概念化してしまう普遍の認識に傾くきらいがあるようです。

しかし、どちらも極端な形であり、その両者を相関的に相互検討していかない限り、「○○君」の笑顔が輝き、「人間」なる普遍的概念が煌めく生活というのもアリエナイのでしょうねえ。

……ということで、寝るか。

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自分があれこれの特定の人間であるということ・自分がそもそも人間であるということ

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