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みずから考え、みずから判断する力を持った市民は、もはや思想上の付和雷同に陥ることもなく、また思想統制などに屈することもない。

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 わたくしはわが国民がもともと真理探求の精神を持たない国民だとは思わない。また認識能力、思考能力を持たない国民だとも思わない。感情の動きが思惟よりも強く、従って合理的に着実に考えを進めるよりも直観的な把捉の方を喜ぶという傾向はあるにしても、なお道理を尚ひ、合理的な思考を重んずるという傾向も、決して弱くはないのである。戦国の武士のなかには、その争闘の体験のなかから結局合理的思惟の最も重んずべきことを悟った多胡辰敬(たごときたか)のような人もある。キリシタンの宣教師たちは、日本人が合理的な説明を非常に強く要求したことを語っている。もしそのころから日本人がヨーロッパ文明に接触し、近代の学問の目ざめや、その画期的な業績を目のあたりに経験したのであったなば、近代の自然科学を発達せしめた根本の動力はわが国民のなかにも順当に育って行ったであろう。しかるにわが国民は、近代科学が目ざめたとたんに国を鎖し、その後三百年近い間の世界の学問の進歩の仲間はずれとなったのである。従って再び国を開いてヨーロッパの十九世紀文明に接した時には、その著しい進歩に眩惑され、順当の手続きをふんで追いつく努力をするというようなのんきなことはできないと感じた。ただ大急ぎで研究の成果をのみ取り入れ、その技術を習得するのが精一杯であった。だから機械を発明する力を養成しようとはせず、できあがった機械を輸入して、その使用法を学ぶのが学問とされた。それでもさしずめ間には合う。外形的には、ヨーロッパの文明に追いついたことになる。この努力の間に前述のような学問への功利的関心が支配するようになる。
 これは学問においてヨーロッパに追いついたということではない。学問の進歩は真理探究の活動の進歩、合理的な思考力の進歩、発明する力の進歩でなくてはならない。その根柢を培わず、ただ他所での研究の成果を輸入してそれを学問の進歩と考えたような限界の狭さが、ついにわが国民に未曾有の不幸をもたらしたのである。この機会にこそわが国民は、三百年の鎖国の深刻な意義を悟り、近代文明の根本動力たる学問的精神に心底から目ざめなくてはならぬ。それによって学問は「根のあるもの」、すなわちみずからの力によって生きるものとなり、大学は真に真理探究の場所となるであろう。
 が、それのみではない。学問が何らかの既成の知識、あるいは指示された公式を「覚える」ことではなく、みずから考える力を養うことである、というきわめて簡単な原則が国民の間に沁み込んで行けば、それによって教育は全般的に改まるであろうし、国民の日常生活も政治生活も面目を新たにするであろう。みずから考え、みずから判断する力を持った市民は、もはや思想上の付和雷同に陥ることもなく、また思想統制などに屈することもない。そういう市民に対しては、作為的宣伝は、左であると右であるとを問わず、無効に帰するであろう。そしてただ作為的宣伝を行う扇動政治家への不信のみが結果するであろう。その時政治家は、事実を正直に発表するのが最もよき宣伝であることを理解し、誠実な政治を行なうに至るであろう。そのように、学問精神の徹底は、実践の場における真理の支配をも実現し得るのである。そういう状態のために国民は、永い意志をもって努力しなくてはならぬ。
    --和辻哲郎『倫理学 (四)』岩波文庫、2007年。

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ようやく、「近代日本最大の体系的哲学書」と称される和辻哲郎(1889-1960)の『倫理学』(原本は3分冊、21世紀になって文庫版化されたものは4分冊)の3度目の読了が完了です。

日本の代表的な思想家の文脈で対比するならば、実のところ、和辻は、西田幾多郎(1870-1945)や三木清(1897-1945)なんかに比べると、すこし「軽そう」--などと思ってもいましたし、実際に読む中で、「やっぱ、重厚ぢゃないんだよな」--などと一人合点していたものですが、三度も読み直すと、「いや待て、そうではない」などと新たな発見に酔いしれる宇治家参去です。

思えば、もともと和辻哲郎は、文芸批評や評論を学生時代から手がけていたわけですから、文章としては、生え抜きの学問従事者にくらべると、すこぶる読みやすいわけです。そこにひとつの落とし穴があったのだろうと思います。たしかに、読んでおりますと、つまづくことなく、すらすらと読んでいくことができるのですが、これまで、まさに読み「流して」しまったことに気づき、今回は途中からまた最初にもどり、1年ほどかけて丁寧に読み直すことができ、ひとつの収穫へと結実したのではないだろうかと思います。

また豊富な傍証、すなわち、東西の古典を渉猟し、哲学のみならず、人類学、社会学、地理学など当時の最先端の学知を統合し、倫理学を論じ、そのなかで、和辻倫理学と評される要の部分、すなわち、ひととひととの間柄関係、そして人間存在の基本構造と共同体論、歴史哲学による垂直な時間論的省察と、人文地理学に基づく独自の風土論による横断的な空間論的省察には、まさに驚かされるばかりであり、まさにこのような「大著」はこれからも著されることはないのかも……?などと思うことしばしばです。

さて、この和辻の『倫理学』は、都合12年かけて全体が完成します。原著は3分冊ですが、上巻が1937年、中巻が1942年、そして敗戦を挟み、1949年に下巻が刊行されます。

この上中下でまさに温度差が存在します。
私見になりますが、戦前に刊行された上巻では「世界と日本」(対峙)という気負いが強く、戦中の中巻では「日本」(優越)が、そして下巻では「世界のなかでの日本」(調和)という意識が濃厚です。

確かに、和辻の議論は『倫理学』に限らず、戦前の議論では、「本朝の人文学は本家のヨーロッパを乗り越えたのでは?」(普遍と個の対峙)という感覚が強く、戦中には「日本意識」(普遍を超克する個)が強烈に全面に出てきますが、敗戦を挟んでからは、日本の自閉的文化、そして海外の文物の機械的受容の契機となった鎖国を論じた、まんまの『鎖国』(初版は1950年)という著作にみられる問題意識にみられるように、「全体のなかでの個」(普遍と相即的に調和する個)というふうに議論が変貌しているように思われます。

しかし、読み直すと実感しますが、これは決して「転向」ではないように思われます。和辻倫理学の基本構造である人間観はまったくぶれていません。

すなわち、人間とはアトム化した個人ではア・プリオリでは存在し得ず、意識するせよしないにせよ、人間は共同存在的な個人であり、つねに「間柄」の関係のなかに実態として存在するというところです。

和辻自身、「オールドリベラリスト」と極端な左右から揶揄されましたが、和辻のスタイルには「オールド」もへったくれもなかったのではないのかと読み直すなかで、実感という次第で……。結局は「極左」と「極右」が人間を論じていながら人間をみておらず、抽象的に構造論を論じていただけに過ぎず、和辻としては、リアルな現実的な感覚から人間を論じていたのではなかったか……おそまつながら、そう思う次第です。

ちょうど引用した部分は、『倫理学』の末尾の一節からです。

さすがに「わが国民が……」という言いまわしには、「オールド」な部分の面目躍如という嫌いもなくはないですが、鎖国をふまえたうえで、提示される和辻の学問論、大学論、そして真理論には、目を見張るばかりでありあります。

そして末尾の一節……

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学問が何らかの既成の知識、あるいは指示された公式を「覚える」ことではなく、みずから考える力を養うことである、というきわめて簡単な原則が国民の間に沁み込んで行けば、それによって教育は全般的に改まるであろうし、国民の日常生活も政治生活も面目を新たにするであろう。みずから考え、みずから判断する力を持った市民は、もはや思想上の付和雷同に陥ることもなく、また思想統制などに屈することもない。そういう市民に対しては、作為的宣伝は、左であると右であるとを問わず、無効に帰するであろう。そしてただ作為的宣伝を行う扇動政治家への不信のみが結果するであろう。その時政治家は、事実を正直に発表するのが最もよき宣伝であることを理解し、誠実な政治を行なうに至るであろう。そのように、学問精神の徹底は、実践の場における真理の支配をも実現し得るのである。そういう状態のために国民は、永い意志をもって努力しなくてはならぬ。
    --和辻、前掲書。

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しびれますねえ。
ちょうど60年前に刊行された著作の終盤の一節ですが、果たしていまはどうなのでしょうかねえ。
自己自身の精神構造を点検しつつ、学問の本源的な力を、リアルなものへと展開してみたいとおもう昨今です。

で……、
さすがに連勤最後の火曜日もレ地獄(レジ地獄のこと)になるだろうとは予想しなかったのですが、やっぱり痛風もちには、立ちっぱなしはきついですね。

ということで、新発売の限定醸造『ヱビス超長期熟成2009』(SAPPORO)を早速ゲット(6/3発売)しましたので、足の痛みをこれによって和らげつつ、鯨飲して、沈没しますです。

このコクのある色合いがタマリマセン!

http://www.yebisubar.jp/jyukusei/index.html

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