« 適量がむずかしいです | トップページ | 目覚めは人間に固有のものだ、と私は思います »

「学ぶ」とは「自分をつくる」戦いにほかなりません

01_img_0663
-----

 中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。盲従すべきものでないと思う。そういう風に青年たちはいう。つまり青年たちは知を求めているのだ。そうして知を求めるのは正しい。これは善いことだ。すくなくともこの一善はかれらもまた善と知っているのだ。だが道徳的善は先ずこれを実践してからでないと、善が善とはっきり分からないような性質のものなのである。何故なれば善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がないからである。例えば水泳を学ぶようなものである。水泳についての理論的知識は単に水泳の可能性について議論し得るに過ぎない。そういう議論をいくら重ねたところで、水泳の現実は会得できるものでない。現実の水泳は、現実の水に現実に飛び込んで泳ぎを実践してみるのでなければ、他にこれを会得する方法がないのである。畳の上の水練では現実の水を泳ぐことはできないのである。善もまたかくの如し。善はただ善の実践を通してのみ知らるるのである。そうして人生の究極の善はいさ知らず、日常茶飯の現前の小善事がひとつもわからぬということはない。盗むなかれ。欺くなかれ。姦淫するなかれ。懶(なま)けるなかれ。虚心にして善を追求すれば、足前数歩の光明を得られぬということはない。得られぬとは言わせない。得ようとしないのだ。足前数歩の光明を頼りに先ず立って歩くが良い。歩いて躓くなら躓いてみるが良い。かくして真摯に実践するものは、進むも躓くも必ず得るところがあるのである。それによって善を把握し進むのである。
 だからわれらの実践生活における最も根柢的な問題は知識ではないのである。悪は無知の生むところではないのである。そもそも善を追い求めようとする熱心がないのである。熱心がないから善を追い求めず。追い求めないから善を知らず、知ろうともせず。随って又善を為さず、為そうともしないのである。即ち人間の悪の根柢にあるものは、善知識の貧困であるよりは、善意志の欠乏である。カントのいわゆる根元的悪性である。
    --三谷隆正「パウロとニコデモス」、『三谷隆正全集 第2巻』(岩波書店、一九六五年)。

-----

戦前日本の旧制高校で教鞭を執った法学者のひとりが、敬虔なクリスチャン・三谷隆正(1889-1944)です。
無教会主義の内村鑑三(1861-1930)門下のひとりといってよいのですが、不思議なことに教会に留まり続けた人物です。
しかし内村のうえをいく敬虔な人物であり、自己に厳しく他者に暖かいその思索と実践から「群鶏中の鶴」と評されたものですが、三谷の言葉や人生を振り返ってみると、真のモラリストとは何かをいつも考えさせられてしまいます。

屹立として「闘う」人物という風貌ではありませんが、丹念に「説得し続ける」人物と表現できましょうか……その意味では、説得し続けることが三谷の「闘い」であったのかもしれません。

三谷は内村鑑三からの影響だけでなく、新渡戸稲造(1862-1933)の薫育に負うところも多く、そうしたところに「対話の達人」「現代のソクラテス」と評された新渡戸の精神が面目躍如するといったところでしょうか。

さて……話がすっとびますが、

短大での初めての補講無事終了です。
半期15回授業がいわば義務づけられておりますので、休講した場合、そのフォローを必ずしなければならないのですが、だいたい週末に向かう最終コマになりますので、金曜の5時限目、月曜の講義からほとんど日をまたいでおりませんが、前回のつづきのところから授業です。

さて……
なんで哲学?
……と突っ込まれそうですし、三谷隆正ほどモラリストでもないことを自覚している宇治家参去ですが、ワタクシも同じ様な質問をよくうけます。

どちらかといえば、哲学というよりも倫理学が対象とする、善悪の問題です。
善悪が何かと指示することはここでは措きますが、熱意のある善意の青年たちのフラストレーションとでもいえばいいのでしょうか……要は何をやればよいのか、その問題をよく投げかけられることが宇治家参去にもあります。

まさに三谷が直面した問題と同じです。

-----

中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。

-----

真剣に考え悩んでいる人ほど、そうした熱意と現状との乖離……これは世界状況だけでなく、直接的に何も関われない・為していないということとの乖離……に悩んでしまうものです。

たしかに、世界の状況を振り返ってみると、戦争や流血の惨事はなくなりませんし、平々凡々とこの地で生きている自分がいるとともに、同時に死に行く人類も存在します。

だから、何かをなしたい……いうなれば善をなしたい……というわけです。
これまでこうした問題に関して有効と思われてきたアプローチのひとつが職業革命家たちの「先導」(実は扇動)だったのでしょうが、詳述するまでもなく、それは善をなすどころか、悪をなすことに転換してしまったのがその歩みであることは疑いもありません。

これは職業革命家の言説に限定された問題ではなく、あらゆる流派のテロリスト、政治的デマゴギーなど幅広くみられたリードの仕方でありますが、共通しているのは、「一気に」「完全転換」が「可能」だという御旗の存在なのだと思います。

しかし冷静になって霊性に考えてみればわかるものですが、複雑な世の中は、「一気に」「完全転換」が「可能」なほど単純な問題ではありません。
複雑な世の中を、「あれか」「これか」に分断してしまうそうした発想こそ、理性の二律背反にほかならず、必ず「血」が流れ、問題解決を導くどころか、「怨念」と「復讐」を拡大再生産させてしまうのがその歩みではなかったかと思わざるをえません。

ではどのように生活者として対処していくのか。
その道筋としては、これまで何度も論じておりますので、議論の組み立て方は割愛し、ファイナルアンサーとして呈示するならば「(ダブルバインドを承知のうえで)責任をもってちゃんと生きるしかない」という結論に達せざるを得ません。

自分の生きている現場を離れて世界も人類も存在しません。
そこからどのように世界や人類につながっていくのか、善の歩みをなしていくのか、問われているのはそこなのだろうと思います。
しかし、生きている現場には、世界も人類も存在しない……それが人間が陥ってる強烈な錯覚なのだろうと思います。

だからこそ、そこを自覚して、あきらめずに生きていく……そこが肝要なのだろうと思います。

で……。
同じことを再論しても他ならないので、学生としては何ができるのか……ついででしたので、試しにと、授業の中で学生さんたちと語り合ってみましたが……、こうした語り合いというのがやはり一番いいもんです。
たしかに哲学に関する基礎知識をお話し、説明することも必要不可欠ですが、それだけでは、カント(Immanuel Kant,1724-1804)のいうとおりで、「哲学は学ぶことができない、ひとができるのは哲学することを学ぶことだけだ」にはなりませんので、

「善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない」というのであれば、学生として何ができるのか、ひとつ考えあってみた次第です。
※「善」そのものには三谷が指摘するとおり、「善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がない」ように、所与の固定化した何か天空に煌めくような概念ではないと宇治家参去自身は思うところがあり、「善を問う」ことに関してプラトニズム的アプローチはどうしても避けたかったものですから、ここではひとまず起き、善悪論は次回の宿題へとしました。
たしかに、プラトン(plato、BC.427-BC.347)が言うとおり、個別の善の行為はたしかにありますし、そうした個別の行為から、種へ、類へ、そして普遍へと拡大していくと、なにやら、個別の行為を包括するような「善のイデア」なるものが「想定」できなくはないですが、現実にはその「想定」された「善のイデア」なるものが、善をがちがちに規定してしまうと、本来実践的性格である「善」なるものが、骨抜きにされてしまうような感があり、そしてヘア(R.M.Hare,1919-2002)以降のメタ倫理学で見られるアンチプラトニズムとしての倫理の機能主義にもなんだか違和感がある中で……。

……って脱線したのでもどりましょう。
はい、そうです。
これが非常に生産性の高いひとときになったのではないかと思います。
悩み抜き、考え抜くなかで、種々、こういうあり方があるんじゃないかと議論してみましたが、実にこちらが学んでしまうという状況でして……。

……って話題のずれをもう一度ただします。

「善をなせといわれ、具体的に何ができるのか、ひとりの学生としての人間として」。

宇治家参去は学生にしかできないことがあると思っております。
そして学生時代にしかそれはできないことなんだろうと思っております。

国連をはじめとする国際機関で活躍するために仕込むのもそのひとつでしょう。
また具体的なスキルをもって、その分野の最前線で活躍するために仕込むのもそのひとつでしょう。

しかしすべての人がそうしたところで活躍するわけでもありませんし、大学という教育機関は国際機関職員訓練養成所でも訓練機関でもありません。

そう思うひとは、その想いを真剣に使命に転換してゆけばよいのです。

では、そこにのっかれないひとは、善をなすことができないのでしょうか。
早計してはなりません。

でもそうした想いを使命に転換しそうなっていく人も、そして生活者として例えば、住んでいる日本で懸命に賢明に努力していく人も、すべての学生さんにしかできないことが実はあるはずなんです。

古来の人はうまくいったものです。
「灯台もと暗し」

学生さんにしかできないこと……それは「学ぶ」ということです。

あせってはいけません。
学ぶことが最も大切なんです。

善への熱意があるからこそあせるのは承知です。
しかし、あせってはいけません。
60年代の学生運動を証示するまでもありません。
そこにつけこんでくるのが「一発解決!」を謳うデマゴギーなんです。

だから、あせらず、ただ黙々とその熱意を抱きながら学ぶことが大切なんです。
学ぶとはどういうことなのでしょうか。

すなわち、それは、「自分をつくる」戦いにほかなりません。
「心を鍛える」「頭脳を鍛える」「体を鍛える」戦いこそ学生として学ぶということなのだろうと思います。

いうなれば土台をつくるといっても過言ではないでしょう。土台なくしては、どんな家も、どんなビルも建ちません。ひとの一生も同じです。
その土台を建設するのがまさに「学ぶ」という作業なのです。

ぐっとこらえるしかありません。
そして、黙々と学ぶしかありません。
しかし、それと真剣に取り組むことによって、一挙手一投足が善を成そうする着実な歩みになるはずなんです。

休学して一目散にイラクへいく必要もなければ、退学してチベットへいく必要もありません。

まずは「ちゃんと生きること」。
そしてそこから自分のできる善を着実にこなしていくこと。
そのために「学ぶ」「学生」なんだと思います。

福澤諭吉(1835-1901)が自伝でおもしろいことをいっているので一つ紹介しましょう。

-----

……私はその戦争の日も塾の家業を罷(や)めない。(中略)世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ會(かつ)て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな
    --福澤諭吉(富田正文校訂)『福翁自伝』岩波文庫、1978年。

-----

江戸崩壊の前夜、ちょうど上野の山で彰義隊と新政府軍が戦いの火ぶたを切った、幕府崩壊のその日も福澤諭吉は講義を止めなかったそうです。

そして、めまぐるしく騒動する世間に一喜一憂し、ソワソワとする学生たちを前にうえのような言葉を語ったそうです。

すなわち「世間に頓着するな」。

これは世間を無視して、学問の世界へ隠遁しろ、との言葉ではありません。
福澤ほど、日常生活世界の有為転変する状況を綿密につぶさに追跡した人物は同時代ではまずいないでしょう。ですから、むしろ「世間の事件のふりまわされるな」との諫言に他なりません。

力のないまま、世間へ出陣しても負けるのがおちで、それこそ、その恨み節からひきこもってしまうのがその実です。

そうではなく、世間の事象に幅広く耳を傾けながら“も”、学びぬく……そうした相関的な関係が必要だ……福澤の諫言は今の世界にも「あせるな、がんばれ」との励ましに聞こえて他なりません。

……とここまで書くとなにやら道学者風で恐縮ですが、そこにしか繋がっていく道はないんです。

だからこそ、「あせるな」!
真剣に学べ!

それこそ遠いように見えても「善をなす」において一番の早道なのだから。

……ということで、「一ノ蔵」(宮城県)でも呑んで寝ますワ。
全く反省がないといいますか、歴史は繰り返すといいますか、昨日かったのですが、一升瓶が残り少ない状況のようで……ですが、善をなすために、ぼちぼち本日は沈没します。

02800pxuenosenso 03_r0014510

新訂 福翁自伝 (岩波文庫) Book 新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

著者:富田 正文,福沢 諭吉
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 適量がむずかしいです | トップページ | 目覚めは人間に固有のものだ、と私は思います »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「学ぶ」とは「自分をつくる」戦いにほかなりません:

» 宮城県 花火大会 [宮城県 花火大会情報局 ]
東北地方 宮城県仙台市はもちろん、宮城県北、県南全ての花火情報を網羅! [続きを読む]

受信: 2009年6月 7日 (日) 15時35分

» 三沢光晴よさらば!斎藤彰俊涙の土下座!バックドロップ写真の週刊プロレス大増刷 [三沢光晴よさらば!]
三沢光晴よさらば!斎藤彰俊涙の土下座!バックドロップ連続写真の週刊プロレス大増刷 [続きを読む]

受信: 2009年6月21日 (日) 09時15分

» お別れ会~さようなら三沢光晴!追悼番組も [お別れ会~さようなら三沢光晴!追悼番組も]
お別れ会~さようなら三沢光晴!追悼番組も [続きを読む]

受信: 2009年7月 3日 (金) 14時24分

« 適量がむずかしいです | トップページ | 目覚めは人間に固有のものだ、と私は思います »