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現代の知識人は、アマチュアたるべきである

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……アマチュアリズムとは、文字通りの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。
 現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。そして、そうであるがゆえに、知識人はこう考える、もっとも専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵抗したり、自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のありかたにも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格をもつのだ、と。さらに、アマチュアとしての知識人の精神は、わたしたちのほとんどが毎日無自覚なままおこなっている専門活動のなかにはいりこみ、それをかえることもできる--もっともいきいきとした、ラディカルなのに。この場合、そうするであろうと期待されていることをなすのではなく、逆に問いかけてゆくのである。人はなぜそれをするのか、誰がそこから恩恵を得るのか、それが個人的な計画と当初のもくろみと、どのように関係するのか、と。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』(平凡社、1995年)。

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こうした世知辛いご時世ですから、市井の職場でも人員整理がすすみ、数名の方が退社あそばされましたが、人員の充足ができません。

ですから、全社的に、専門的な部門別の縦割り行政的な作業を行うという従来の業務スタイルを見なおし、極端な言い方ですが、専門的スキルがなくてもできるような業務は、所属する部門の垣根を超えてチームとして動くような業務スタイルへと転換させていこう!……そういう試みがはじまっております。

たとえば、職場はマアGMSということになりますので、玉子からパソコン、そしてパンツからスーツまで扱う小売業になるのですが、たとえば、たとえば、生鮮商品の陳列なんかに関しては商品の日付の新旧をまもれば、ある程度だれにでもできるわけですので、それはガッ!とチームを組んで補充する……そういう作業スタイルです。

そして、その対極にある、代変不可能な専門的業務というのが、例えばお魚を三枚に下ろしたり、ウロコをとったりするような作業になるわけですが、部門の垣根の超えて、まあ挑戦してみよう!そういう疾風怒濤のなかでもまれているある日の宇治家参去です。

こうした業務改革……すなわち人件費の圧縮……が成功するのかどうかは早計できませんが、業務スタイルとして定着すると、ある程度の経費削減にはつながっていくのでしょうね。

さて……。
最近、そうした横断的作業のひとつとして取り組んでいるのが、青果部門の展開商品の補充です。

一番回転のはやいバナナや瑞々しいレタス、仕事をやめてかぶりつきそうになってしまうトマトなんかを並べてはおりますが、これがまた結構な重労働でございまして……。

作業スケジュールは分単位でタスク化されておりますので……、これをだしたら、ハイ、次はこれ!ってかたちで、売り場への登場を今か今かと待ちわびる野菜さんたちが待っております。

が、メタボな痛風の素浪人ですから、なれない作業にひいいひいいいながらやっておりますが、野菜を運んでいると、「宇治家参去さぁ~ん、4番レジお願いしますぅぅぅ」って店内放送が入ったりして、「さあ、出そうか」と思って売り場へ持ち出したすいかを、またもと着た青果厨房へがらがらがらって戻してきてからレジへ向かったりするわけで……。

ときおり、ふと我にかえって「オレ、今何やってたんだっけ?」などと自問することもまれではありません。

さて……そんなことが書きたい訳ではないのですが、

生鮮野菜の商品に関する業務に従事するようになって……生鮮野菜に関してはアマチュアなんですが……悩むようになったことがひとつ出てきました。

「ワタクシ、専門家ぢゃないんですが!」

……という部分です。

「テネシー・ウイスキーとバーボン・ウイスキーって何が違うの?」

……などと聞かれたときには、

「はい、テネシーとバーボンは材料や蒸留方法に違いは全くありませんが、前者は、蒸留後に燻蒸をして風味をつけるのですが、後者は、蒸留後に燻蒸を行ないません。燻蒸された樽によって風味付けするのがバーボンなんです。そこに“風味”の違いがあるんですよ」

「ほお」

「ですから、違いをためすには、そうですねエ、こちらのジャック・ダニエルズとエライジャ・クレイグの両方をお買い求めになって、実際に違いを確かめた方が確実“カモシレマセン”」

……などと、たいていのご質問にお答えすることができるのですが、こと商品が生鮮野菜になってくると、まさに

「ワタクシ、専門家じゃないんですが!」

……と貝になりたくなってしまうことに多々遭遇します(「貝になりたい」というネタが古いですが)。

「メロンってどういうやつが熟したやつなの?」
「アボガドってどう料理するといいわけ?」
「ねぇねぇ、この胡瓜、群馬県産と茨城県産ってあるし、値段もちがうけど、どう違うの?」

……ん、ん、ん!

高校時代は数学が苦手でした。
微分計数や導関数、リーマン積分……やるのはやりましたが、まったく解析不可能でした。200満点の3点(どうやったら取れるの?)をとって、職員室で追試を受けたこともあります。

しかし「メロンがどうよ」「アボガドがどうよ」「キュウリがどうよ」っていう質問は、その難解さを遙かに凌駕してしまうようで……、数学の方が楽だったかもしれません。

「アマチュアの宇治家参去に、そんなことを聞かないでくれ」

……とは思ってしまいますが、お客様から見れば、青果商材に対する商品知識がつぶらな瞳の幼子と同程度のアマチュアである宇治家参去であろうが、野菜に関する知識においてはアインシュタイン(1879-1955)ですら敵うことのできない専門家たる青果マネジャーであったとしても、おなじ「専門家」として見られてしまうところが、実に辛いところです。

ですから、チト青果商材に関する基礎知識およびかんたんな応用知識程度は身につけた方はよかろうか……などと悩む昨今です。

……ということで、レタスが「春」の「季語」だったことを本日会得しました!

わ~い、ぱちぱち!

……って、

「このレタスと、あのレタス、どちらがおいしいかしら」

……などと洒落た御婦人に質問されたとき、

「そうですねエ、レタスは春の季語ですからねえ~、春にやるのが一番よろしいとは思いますよ」

……などと返してみたいものですが、そんなことは全く出来ない宇治家参去です。

……って飲みながら書いておりますので、何が書きたかったのでしょうか?

そう!

知識人としてのアマチュアと専門家の問題を、ポスト・コロニアル批評の論者として知られるサイード(Edward Wadie Said,1935-2003)の言葉をたよりに考察してみようかと思ったわけですが……すこしだけ書いておきましょうか。

「専門が違いますから」

……この言葉は市井の職場よりも本業でよく耳にする言葉です。

しかし、「専門がちがいますから」って言い方はある意味では謙遜な言い方を代表する表現に他なりませんが、それだけではないのかもしれません。

やんわりと議論のテーブルから降りる恰好な「言い方」なんですね。

「専門がちがいますから」

たしかに専門研究においては「専門がちがう」ということは容喙できない、そして容許を拒む分厚い壁があることも承知ですが、こと「人間の世界」に関する議論においては「専門」も「非専門」もヘッタクレもあったもんじゃない!というのが実情ではないでしょうか。

やんわりと議論からおりて安全地帯へと後退してしまうあり方よりも、「おめえ、青いんだけど、その熱意はわるよ!」などと違う専門同士が胸襟をわって語り合えるあり方のほうがチト素敵だとは思うわけですが……。

……といことで、A Cup of Happiness の大関(株)「ワンカップ 大関」でも飲んで寝ますワ。

ちなみに、いろいろなカップ酒を“ワンカップ”とグルーピングしてしまうことがありますが、「ワンカップ」とは大関(株)の商標登録であり、他社が名乗ることは不可能だそうでございます。

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