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これらみな人間の偉大な仕事だ

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フランシス・ジャム これらみな人間の……

これらみな人間の偉大な仕事だ。
木桶のなかに牛乳をしぼること、
針のようにちくちくする麦の穂を摘むこと、
涼しい榛(はん)の木のそばで牝牛の番をすること、
森の白樺を切り倒すこと、
強い流れの小川のほとりで柳の小枝を籠に編むこと、
仄暗い炉ばたで、皮膚病にかかった年老いた猫や
眠っているつぐみや、幸福そうな子供たちに囲まれて
古靴を修理すること、
こおろぎが鋭くうたう真夜中ごろ
音をしのばせて機(はた)を織ること、
パンを焼くこと、ぶどう酒をつくること、
畑に葱やキャベツの種をまくこと、
生あたたかい卵を集めること。
    --フランシス・ジャム(手塚伸一訳)「これらみな人間の……」、『フランシス・ジャム詩集』青土社、1992年。

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やっぱり月曜日が一番きついです。

前日の日曜は24時まで仕事やって、かえってきて25時前。

風呂に入ったり、酒呑んだり、明日といいますか……数時間後の準備をしていると、結構朝方になるのですが、9時はおきて大学へ向かい、昼から講義してすっとんで帰ってそのまんま市井の仕事で……。

それでも2-3年前であれば、「まだまだ平気!」という精神・肉体ともに乗り切れるスタミナ?があったものですから、気力・体力ともに充溢していたのだと思いますが、最近はチト辛いナ……などと自覚する宇治家参去です。

ひさしぶりに帰りの電車で違う駅で降りてしまいました。

帰宅の電車で、うつらうつらしていてはっと起きて降りて、ホームから改札に向かい、suicaで自動改札を抜けると見慣れぬ風景で……。

一駅手前で降りたようです。

もう一度、改札をくぐって自宅へ戻り仕事へ出かけましたが……。
ちと、これからいっぺえやって疲れを癒して寝ます。

さて講義の方ですが、通信教育のスクーリングでも、短大での講義でも、いつも心がけているのが「一方通行」にならないように!という配慮です。

ときおりディスカッションを入れてみたりするなど、「双方向」を心がけているのですが、今日はひとつ「講義」をしてしまいました。

忸怩たる部分です。

私家版の教科書も1頁も進みませんでした。

内容に関してはちょいと重要だと思うので後日詳細しますが、すでに自家薬籠中と化しているドストエフスキー(Fyodor Dostoyevsky,1821-1881)、レヴィナス(1906-1995)の議論を援用しつつ、「世界のために」「何か」やりたいのであれば、自分自身の生活を「ちゃんと生きるしかない」というあたりを学生達と議論しながら、話をしたわけですが、……結果としては「演説」になってしまいました。

まさに忸怩たる部分です。

ポストコロニアル批評の代表的な論者の一人であるスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の表現を借りれば、「ダブルバインドを承知でそれを対象化することなく、強(したた)かに足下を掘れよ」って話ですが、やはりこの部分はナイーヴであるがゆえに、丁寧に話をしましたので、結果として「演説」となってしまいました。

双方向を志しつつ、「演説」してしまった部分が忸怩たる部分です。

ご存じの方は?ご存じですが、宇治家参去、こうした熱く「語ってしまう」とき、念のため、「恐縮ですが演説をします」とか途中で「演説でスイマセン」断って「演説」するわけですが、ひさしぶりに80分ちかく演説してしまいました。

本当は「演説」なんかしたくはないんです。

ですが語ってしまったです、ハイ。

とわいえ、学生さんたちの「リアクション・ペーパー」@出席カード兼感想録を読んでおりますと、「演説」に「辟易」としたというコメントが全くなく、むしろ、「刺激になりました」「“演説”だなんて、“卑下”しないでください」との文言ばかりでむしろ、こちらが励まされるようで……。

ありがとうござんした。

ただなア~、これに自惚れてしまうと宇治家参去のレゾン・デートルそのものが肥溜めになってしまいますから、自戒しつつさらにブラッシュアップです。

宇治家参去さんは卑下しすぎ……とよく忠言されますが、自分としては「卑下」しすぎるぎらいが均衡的にはちょうどいいだろうとおもっておりますので、「自虐」しなくなってしまうとそのキャラクターがレディ・メイドになってしまうのだろうと思ったりもします。

だから自分も「ちゃんと生きよう」と思います。

……とわいえ、冒頭に記したようにヘロヘロですので、「ちゃんと酒を呑んで」寝ようかと思います。

今日の寝酒ならぬ寝本は、20世紀前半のフランスで活躍したカトリックの詩人・フランシス・ジャム(Francis Jammes,1868-1938)の詩集です。

パリから遠く離れたピレネー山麓から発せられるジャムの歌声はまさに「朝露にも似た澄んだ声」であります。19世紀後半の燦々と開花したフランス象徴詩の潮流が方法論に堕していくなかで、そうしたあり方と一線を画し、素朴ながらも対象と丁寧に向かいあうジャムの謳声には、大自然や人間が本然的にもつ生命の力強さを感じられずにはいられません。

ひとびとの生命の輝きにみたち溌剌とした詩世界がたったひとつの言葉から彷彿してきます。

自然を素直に美しいとありのまま表現するだけでなく、生きている人間そのものの声までも美しく謳いあげるジャムの紡ぎ出す言葉のひとつひとつに生命力が漲っております。

金がないので、スコッチの「Ballantine's」ですが、ジャムの言葉によってその雑味すら、味わいのひとつへと転換されるようで……。

生きているというのは実に大変な「闘い」なわけですけれども、それこそがまさに「これらみな人間の偉大な仕事だ」ということなのでしょう。

……ということで、とっとと寝ます。

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