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世界を明るくし、それに耐え忍べるようにしているのは、世界とわれわれの絆から--

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 世界を明るくし、それに耐え忍べるようにしているのは、世界とわれわれの絆から--また、より個別的には他者とわれわれを結びつけているものから、われわれが維持している日常的な感覚だ。他者との関係は、たえず持続をわれわれに働きかける。というのは、そうした関係は常に発展を、未来を予想しているからだし--またわれわれも、あたかもわれわれの唯一のつとめは、まさしく他者との関係を維持することであるかのように生きているからだ。だがやがて、それがわれわれの唯一のつとめではないことに気がつきはじめ、またとりわけ、われわれの意志だけがこうした他者を手もとにひきつけているのであって--たとえば、書くこともしゃべることもやめ、たった一人になってみたまえ、他者は周囲から消え去ってしまうだろう--実際多くは相手に背を向けているのであり(悪意からではなく無関心から)、あとの連中にしたところで、いつかは別のものに関心を寄せる可能性を常にもっていることがわかりはじめると、ひとは、われわれが愛とか友情とか呼んでいるものに突然訪れる不慮の出来事や、偶然のいたずらを頭に浮かべる。すると世界は夜に変じ、われわれはまたわれわれで、人間の温かい情愛がせっかくそこから救いあげてくれたのに、またもとの冷たい世界に帰ってしまうのだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『反抗の論理 カミュの手帖--2』新潮文庫、昭和五十年。

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さて土曜日は、父親として吐露するのは難ですが、チト辛いなア~という一日でございまして、細君所用で不在のため朝から息子殿と二人生活で、そのまま授業参観へ参加です。
朝早くから動き出すという時点ですでに難なんですが、普段、交流のうすい?息子殿からしてみると、それは嬉しかったようで?、興奮して登園し、そのまま参観です。

しかし、例の如くですが、ネクタイして上着をきているのは宇治家参去ひとりのみで、あとの父兄は、みなラフなスタイルで、梅雨の蒸し暑さが染みる次第でございます。

「平服で結構ですよ」

……などと案内に書かれておりましたが、「平服」とは何ぞや?

……というところから悩みはじめ、長谷川平蔵が日頃家内で着用している日常着は何かと申しますと、家の中だけですが、、禅僧が日々の日常業務(作務)を遂行する際着用している衣類、すなわち「作務衣」を着用しております。

これがすこぶる快調です。

しかし、これがすこぶる評判がわるく、大学の仕事のときは朝から自宅におりませんが、市井の仕事のときなどは、昼過ぎまで家におりますので、「宅急便で~す」とか「郵便で~す」とか「マンションの営業でえ~す」などと来訪者が来ますと、その怪しげな?スタイルですたすた出てきて扉を開きますものですから……

「このおっさん、何者?」

……などとドン引きされてしまう始末です。
幸い、なじみの配達さん関係は、スルーしてくれますが、飛び込み営業の方なんかは、「ピンポンする家を間違えた!」

……そういう表情がありありで、それを実は密かに楽しんでいるのでは無かろうか……などと思わないこともありませんが、平服たる作務衣を着て箒をもって、颯爽と登園するなど「もってのほか!」と細君がウルサイものですから、ここは対他世界(パブリック・スフィア)での活動着ということで、例の如くスーツにネクタイを締めて、登園しましたが、やはりアチかったですし、同志不在にがっくしです。

さて……。

青天でしたので、まずは園庭での園長先生の挨拶からはじまり、ラジオ体操へと式次第が進行するわけですが、マアそこはへそ曲がりな曲学阿世の徒ですから、

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パノプティコンは、いわば実験をおこない、行動を変えさせ、個々人を訓育したり再訓育したりする一種の機会仕掛けとして活用できる。
    --ミシェル・フーコー(田村俶訳)『監獄の誕生--監視と処罰--』新潮社1977年。

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……なんだよなひとり悦に入るわけですが、流れ落ちる汗は瀧の如し。

ミシェル・フーコー(Michel Foucault,1926-1984)は、“知と権力の関係”とか“知に内在する権力の働き”をその探究の主眼においたフランスのポスト構造主義を代表する思想家なのですが、世の中で真理……そこまでいわなくてもいいかもしれませんが……所与の常識的な概念とされるものが、実は、社会に遍在する権力の構造のなかで形成されてきたものであることを鮮やかに描いて見せた人物です。

このフーコーの権力論の登場によって、善悪二元論を背景にする共産主義的前衛理論は学問の世界ではまったく色あせてしまったものですが……ついでにいえば、ポスト・コロニアル批評の旗手・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の指摘によってフーコーの権力論すらその限界が指摘されてしまったわけですが、所与とされる構造のいかがわしさを丹念に追求したその業績には敬意を払わざるをえません。

先に引用したフーコーのこの著作『監獄の誕生』では近代以前の刑罰と、近代以降の刑罰との著しい差異に注目しながら、馴育される人間・そして一定の規範にしたがい自己目的的に再生産されゆく「人間」の実態を喝破したわけですが、その著しい差異とは何でしょうか。

単純化していうならば、近代以前の刑罰とは「みせしめ」です。それに対して以後の刑罰では「(監獄への)収監」・「精神の矯正」がその主眼となってきます。

人間性を尊重した近代合理主義の青果としての近代の歩みを評価するならば、人間は、権力者の威光を誇示するための残虐なみせしめ刑から「解放」されたと見て取ることは可能ですが、自分自身がマイノリティであった……彼自身同性愛者であったわけですが……フーコーはこうした見方に疑問を呈します。

すなわち、監獄に収監された人間は常に権力のまなざしにより監視されるわけで、そこで、特定の価値観に対して「従順な」存在であることは強要されてしまいます……そこにフーコーは、残虐刑以上の暴力性を見て取ったわけです。

うえの文章で出てくるテクニカル・タームとしての「パノプティコン(Panopticon)」(一望監視施設)とは功利主義者ベンサム(Jeremy Bentham,1748-1832)が勘案した刑務所です。一望監視システムという名前のとおり、中心に監視塔がおかれ、周囲に独房がめぐらされた監獄建築になりますが、ここでは、収監された人間がいつ看守に監視されているか確認できないシステムとなってしまい、看守がいるにもいないにもかかわらず全ての時間・すべての方向から監視されてしまう……そうしたシステムです。

実際に看守はいないけれども、その視線にさらされつづける囚人は自分自身で自己自身を特定の価値観に従った人間像へ変貌させていかざるを得ない……ここに近代に特有な精神性をフーコーは見て取ったのでしょう。

この自己が自己を規律するシステム……。
いうまでもありませんがカント(Immanuel Kant,1724-1804)のいう主体とか自律の問題とは対極にあるシステムです。この自己とはまさにsubjectというタームに象徴されておりますが、「主体」を表現すると同時に「支配される」ということを表現するこのことばのように、近代というシステムは、規律を内面化した従順な身体を再生産する原理として稼動しているのでしょう。

監獄に限らず、軍隊、学校、工場、病院……そこで人間は、特定の規則に従った従順な身体に改変させられていってるのでしょうねえ。

……ついでに幼稚園でもその「馴育」システムがこれも効率よく稼動しているんだよなあ~などと思った次第ですが、話がすっとびました。

本来は晩年のフーコーの説く牧人的権力の問題と合わせて議論すべきであり、監視・馴育されることでのアドヴァンテージに言及しないと、管理国家である福祉国家の基礎付けは崩壊してしまうわけでニーチェのいうような「超人」にだれもがなれるわけでもないのでこのままで議論をクローズさせてしまうと、話半分であり、ちょい片手落ちな感があるわけですが、チトずれすぎましたので、もどりましょう。

ちなみに、こういうことを、たとえば、その光景を長めながら細君にボソッとぼやいてしまうものですから、「大層ウザイらしい」です。

さて……。

……ってどこまでいきましでしょうか。

1.幼稚園参観で参った
2.作務衣はドン引きされる
3.近代というシステムのもつ、近代以前より以上の暴力性の問題

……って感じで大学での講義はずれ込むことはないはずですが……、ちと深夜になりつつあり、ぼちぼち落としどころを探らねば……!

……ということで、冒頭のカミュ(Albert Camus,1913-1960)の言葉にでも耳を傾けてみましょうか。

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 世界を明るくし、それに耐え忍べるようにしているのは、世界とわれわれの絆から--また、より個別的には他者とわれわれを結びつけているものから、われわれが維持している日常的な感覚だ。他者との関係は、たえず持続をわれわれに働きかける。というのは、そうした関係は常に発展を、未来を予想しているからだし--またわれわれも、あたかもわれわれの唯一のつとめは、まさしく他者との関係を維持することであるかのように生きているからだ。
    --カミュ、前掲書。

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いやはやたしかにそうです。
ときどき、このどぶ臭い・どろ臭い世界から散逸して実態のない何か理念的なるものへ跳躍してしまいたいという衝動にかられることが多いのですが、なんとか現実のどぶ臭い・どろ臭い人間世界に踏み留められているしまうような絆が何本も体に巻きついており、その跳躍を断念し、霊性に冷静に自分をおちつかせ、なんとかもういちど歩き直そうなどと、歩みをやめないように、そっと背中を押してくれる存在というものは確かにありがたいものです。

ですけど、それをアタマリマエと思って関心を払わなくなってしまうと、たちまち換骨奪胎されてしまい、「すると世界は夜に変じ、われわれはまたわれわれで、人間の温かい情愛がせっかくそこから救いあげてくれたのに、またもとの冷たい世界に帰ってしまう」ので、あまりウザイとかダルイとかは言わない方がいいのかもしれませんネ!

息子殿も元気に喜んでおりましたし、おまえ、集団生活大丈夫か!って危惧もしましたが、

参観最後のスチュエーションになって……いつも幼稚園では先生がそうしているようなのですが……、

「紙芝居の読み聞かせ誰かご父兄の方でやってくれません~か?」

……って提案に、息子殿が手をあげてしまい、宇治家参去自身がやるハメになったのには、チト参った次第です。

……ただ息子殿は、嬉しかったようにて……親馬鹿ですいません。

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