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教会の名においてではなく、市民社会の一員としての自分自身の名においてであること

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 第2バチカン公会議はこのことを綱領としてうたっている。「教会はその任務と権限から見て、けっして政治共同体と混同すべきものではなく、いかなる政治体制にも拘束されるものではない。同時に、人間(ペルソナ)の超越性のしるしであり、またその保護者である」。この見地から、キリスト者の市民や政治家として自分の政治的任務を受けとめるのは教会の名においてではなく、市民社会の一員としての自分自身の名においてであることも明々白々である。
 同様に、政府の諸官庁が自らを厳正に所管の領域にのみ限定し、市民たちの信条と宗教活動に干渉しようとするあらゆる誘惑に抵抗することは、人類にとって幸せなことである。自発的に自らの権能の限界を注意深く守り、自分の目的のために教会を利用しようとすることをまったく断念している政治権力が、人びとの救いと福利、およびあらゆる階級・民族・国家・国民の正義と平和における一致のみを心がけている教会との対話に向けて自らを開くならば、それは自由をもたらしすくいに近づかせることであろう。
    --ベルンハルト・ヘーリング(田渕文男訳)『政治倫理と地上の平和』中央出版社、昭和61年。

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カトリシズムの文献を読んでいておもしろいなといつも思わせてくれるのは、神学として扱う対象が、狭義の教義学の分野に限定されていない幅広い沃野をもっていることです。

生命・物質、戦争の問題から、家庭生活、国家生活(政治・国際関係)に至るまで、いうなればどの分野にかんしてもきちんと責任ある指針、文献が用意されていることには驚くばかりです。

政治との関わりで言うならば、カトリック教会はあきらかに歴史的には成功と失敗をあじわっております。

しかし、この200年来の世俗化が進む中で、狭苦しい教会のなかに「後退」してしまうことをいさぎよしとせず、人として動くこと、そしてそうした個人を薫育する教会というスタンツをきちんと示すことが出来たのは宗教の歴史において稀有な出来事ではないだろうか……と思ってしまう宇治家参去です。

さて……そうした書物をひもときつつ、日曜日、実家へ戻る母と義母を中央線までおくると、細君と息子殿と中野で下車し、すこし旧友を廻ってきました。

『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵@池波正太郎の青春が本所界隈だったとすれば、宇治家参去さんの青春は、まさに中野区とともにありました。

先日、大学時代の莫逆の友が語っていたことを思い出しました。
彼は高円寺に長く住んでい、結婚してから杉並区の他所へ転居しましたが、やはり青春は高円寺にあったようで、今でも往時を偲んでときおり、高円寺を丁寧にまわることがるそうな。

そうすることで、感傷を断ち切り、さあがんばろう!と元気が出てくる

……そうしたことを話しておりましたが、宇治家参去の場合も同じだったようで、細君との新婚生活をおくったのもこの地でありました。

今回は息子を連れ(本人は中野ブロードウェイにあるゲームに用事があるようでした)、すこし古巣を散策してきましたが、まさに感傷どころか元気になるとはこのことなのでしょう。

すこし往時を偲びながら、旧知と再会し、再び中野駅へむかいましたが、宇治家参去としては、ラーメン激戦区のこの地でうまいラーメンでも堪能しようと思っておりましたが、息子殿の希望でマクドナルドへ。

ちと、それががっくしです。

さて、いずれにせよ「この見地から、キリスト者の市民や政治家として自分の政治的任務を受けとめるのは教会の名においてではなく、市民社会の一員としての自分自身の名においてであることも明々白々である」というところが大切ですね!

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