Einmal ist keinmal.
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自分に腹を立てているうちに、何をしたらいいのか分からなくなるのは、まったく自然なことだと思いあたった。
人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。
テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?
比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわちす、無のためのスケッチであるからである。
Einmal ist keinmal(アインマル イスト カインマル)(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
--ミラン・クンデラ(千野栄一訳)『存在の耐えられない軽さ』集英社文庫、1998年。
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ちょうど金曜の夜、1月に都立大学@東横線で一緒にひっくり返るほど飲んだ--そして事実ひっくりかえってしまった--大学の同期から電話がありました。
KOで目黒を一緒に元気にしようぢゃないか!との叱咤激励?を受けてしまい、ちょうどその土曜日から市井の仕事もあるので、チトキツイよな……などと邪念がよぎりつつも、二つ返事でうけてしまいました。
彼からの案内は断れません。
「他にも誘ってみるよ」
……とのことで、待ち合わせの改札へ向かうと、大学時代に、一緒に喜怒哀楽の全てを経験した?同期と後輩が集まっており……、
「来て正解だった!」
……と内心安堵しちょいと喜んだナイーヴな宇治家参去です。
思えば、彼らとは何でも挑戦しあえた仲だと思います。
「ぜってえ、できねえよ!」
「まぢでやるんスか?」
……っていう難関を何度も一緒に突破してきました。
学生時代のことですから、今から振り返ってみますと、まだまだネンネのおこちゃまだったかもしれませんし、そのとき「ぜってえ、できねえ!」って思ったハードルは今から思うと低かったのかも知れません。
しかし、それはそれでの後日談というわけですが、まさにそうした地球的問題群?と対峙していたきはまさに抜き差しならぬ難事であったわけですが、お互いにお互いを励ましながらひとつひとつ乗り越えていったことは何にも代え難い経験の一つなのだろうと思います。
さすがに大学を卒業してから一〇数年たっておりますので、姿形には当然変貌(成長?)がみられますが、心意気はあの一〇数年前のキャンパスでの姿と同じであり、べつに何をするわけでもないですが、会うと、また歩いていこう!と鉢巻きを締め直すことができるのは実にありがたいものです。
人間は自分で限界を設定しているのかも知れません。
そしてそれは自分だけではなく、他者としての人間も同じなのでしょう。
孤立してしまうと設定した限界に忸怩して時がすぎてしまうのが通例ですが、不思議なことに、おなじく悩み・限界を設定している人間ですが、出会うとそこからひとつづつ坑を穿つことができるのが、実に不思議なものだよな……などと思ってしまいます。
ひとりでコツコツやることももちろん大切なのですが、人間という存在自体が倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)が描いて見せたように「間柄的存在」であるとするならば、ひとりでコツコツやるだけでなく、人間同士の切磋琢磨によって、限界を突破してみたり、凹んだところから再び歩み出したり、種々、思っても見なかった展開が現じてくるものなのでしょう。
そのことはどのような精緻な反駁理論があろうとも生命の叫びとして否定することは不可能です。
ほんとうは、皆とそのあと飲みにでも行きたい!気分でしたが、こちらは生憎しごとですし、土曜の午後、2時間あまりの同道でしたし、皆もそのあと種々スケジュールがつまっておりましたので、燦々!と散会しましたが、いや~あ、学生時代の仲間ほどよいものはありません。
……ということで、またの再会と人生での勝利を期しつつそれぞれの帰路へついたわけですが……。
朝から何も食べておりませんでした!
そして、これから24時まで仕事だろう!
……ってことで、クィックイーティングを所望しましたので、JR高田馬場駅構内で気になっていたメニューに挑戦です。
いわゆる駅中ジャパニーズ・ファースト・フードというやつです。
早稲田口改札内……ここが大切です!……改札から出てしまうと遭遇できません……に店を構える駅蕎麦屋「ちゃぶぜん」です。
蕎麦の類は何度も利用しておりましたが、いつも気になるメニューをスルーしておりましたので今回頂戴してきた次第です。
「馬場丼」がそれです。
べつにジャイアント馬場(1938-1999)がのっているわけではありませんが、丼メニューです。
写真のとおり、丼からはみ出すほど大きなチキンカツをのせた丼物です。
丼といえば、カツ丼、親子丼に代表されるように、汁で種物を煮立てたような丼とはことなり、どちらかといえば、天丼に近いサッパリ丼です。
はじめてやり、腹も減っていた所為でしょうか、実にうまかったです。
大きなチキンカツはしかしながら、かなり薄目ですので、食感としてはハムカツにちかいそれですが、そのうえにかけられたソースは麻婆なんちゃら風のあんかけソースでこれが実にスパイシーでして、カツをめくるとしゃきしゃきキャベツ、そしてキャベツをめくると鳥そぼろ……。
じつに多層的な……神学の世界でいうなれば、多元論的なコスモロジーの展開する丼でございますが、それぞれのエレメントが実にハルモニア(調和)というかたちで差異を口蓋にて讃え合っているという状況で、実に美味でした!
さて冒頭で引用したのはチェコを代表する大・現代作家ミラン・クンデラ(Milan Kundera,1920-)の主著『存在の耐えられない軽さ』からの一節。
実に読みたいのですが、読むのが惜しいので封印してきた一冊ですが、そろそろいいだろう?……ということで鞄に突っ込み本日より読み始めましたが、じつにいいです。
スタイルとしては、冷戦下のチェコスロヴァキアを舞台に、プラハの春(1968)を題材にした恋愛小説なのですが、どうしても小説として読めません。
冒頭からニーチェ(1844-1900)の「永劫回帰」の可能性が議論され、そしていきなり男女の議論へと誘われ、読み物というよりも哲学書といった方が精確だよな……と電車のなかでニヤニヤしてしまいました。
※ということは同じ電車でそのニヤニヤした宇治家参去をご覧になった方にはすいません!
さて……。
人間の人生とは、まさにクンデラがさきに描写したとおりだと思います、すなわち……、
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……それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわちす、無のためのスケッチであるからである。
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だからこそ旦那!
捨てたもんぢゃないんですよ!
無のためのスケッチほど素敵なものはありませんですワ。
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫) 著者:ミラン クンデラ |
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