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【研究ノート】人間より以上に神に従おうとし、国家社会主義によって布告された掟とはちがった掟に従う

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時間が無く考える暇もなく、脳死状態のようですので、【研究ノート】ということでお茶を濁しておきます。

ドイツを代表する歴史家マイネッケ()の著作をひとしきりめくっていたのですが、ちょうどドイツにおける教会闘争……すなわちトータル支配を目論むナチズムに対する福音主義教会の闘争……の部分を読みながら、ひとつ考えておかねばならない点を確認したい次第です。

常に日頃申しておりますとおり、最も人間が警戒しなければならない問題とは、人間の神化ではなかろうかと思います。

人間は全能の神とアナロギアするならば、その可能性の無限大性から、まさに全能というべき存在であると想定することはできます。
しかし、人間とはその一方で、死ぬべき存在であり、朽ちてゆくべき存在としては有限存在にほかなりません。

これをユダヤ=キリスト教的世界観においては「原罪」としての人間、そして仏教的世界観においては「凡夫」として定義されてきたわけですが、その自覚の問題をわすれてはならないということなのでしょう。

有限性の自覚が契機とならないかぎり、人間の可能性の無限大性は発動しないのだと思います。

人間の可能性の無限大性にハナから依拠してしまうことほど恐ろしいことはないのでしょう。
可能性の無限大性とは導き出されるエトヴァスであり、根拠ではありません。

そこに根拠をおき、ひらきなおってしまうと、人間を神として定置し、人間を人間として扱わない軽挙妄動がじわりじわりと出てくるのでしょう。

超越的な倫理が必要だ!

……とは申しません。

ただしかし、どこかで自分自身を相対化させる視座を失ってしまうことほど恐ろしいことはありません。

とくになんでもかんでも「のみこんでしまう」東洋的エートスにおいては、無限大性に根拠をおく「開きなおり」という発想・あり方がとめどもなく噴出してしまう可能性を大にひめております。

警戒しないといけないな……などと思う常日頃です。

……ということで、ハイネケンはやはりうまく、疲れをいやして、脳髄にビールの鮮烈さを染みこませて寝ます。

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 しかし、ヒトラーのキリスト教にたいするもっとも深い憎悪は、なんといっても、それとは別の点に向けられていたように、われわれには思われるのである。キリスト教のなかに生きている、神にだけ責任を負う独立の良心という理念、人間より以上に神に従おうとし、国家社会主義によって布告された掟とはちがった掟に従う、この世のものでない神のみ国を認めようとする要求、これらのものこそ、内外の生活の全体主義的画一化にたいする抵抗のもっとも深い泉がキリスト教のなかにさらさら音をたてて流れているという正しい認識に、ヒトラーを導いたのであった。
 そのさいかれは、キリスト教の教義についてニーメラー牧師と争うつもりは、すこしもなかった。ヒトラーの意見によれば、キリスト教の教義は、かれをそこなうことなしに、しずかに広く伝えられることが可能であった。しかしヒトラーは、良心が自主的に宗教的な審査を行う権利や、良心の圧迫にたいする反抗を、かつての潜水艦長であったこの勇敢な牧師に許そうとはしなかった。ニーメラー自身は、最初はヒトラーに希望をつないでいた。しかし、ヒトラーのなかの非キリスト教的、反キリスト教的な特徴をとつぜんあらわれるやいなや、かれの良心の義務もまたそれまでの幻想をつきやぶり、かれは抗議の説教者となり、そのダーレムへの説教壇へ、人々は全ベルリンから群れをなしてやってきた。そのためにやがてヒトラーは、一九三七年の秋からかれ自身の権力の終わりまで、ニーメラーをダハウの牢獄にとじこめたのである。
 ニーメラーはしかし、それと知らずに、たんなるかれの教会の信仰をはるかにこえたものを、代表したのであった。二千年にわたるキリスト教的な西洋の過去全体が、かれにおいて立ち上がり、この過去の強奪者に、次のように呼びかけたのであった。自分の国はこの世のものではない。おまえが建てようとする国はしかし悪魔の国だ、と神様は仰せられる、と。
 われわれは、ヒトラーに反抗したこの過去のキリスト教的性格を、まったく広い意味でとらえなければならない。自由主義やデモクラシー、その他ヒトラーが熱烈に憎んだすべてのものは、正しく理解すれば、これまたキリスト教的性格の一部をなすものだったのであり、キリスト教の地盤のうえでのみ、漸進的な成層化と世俗化を通して、歴史的に発展することができたのである。一七八九年の人権ならびに市民権の宣言は、すでに明示されているように、良心の自由にもとづく自然権のうちに、宗教的-キリスト教的な根をもっていたのであり、ロード・アイランド州(アメリカ合衆国)の民主的な清教徒たちは、この自然権をかれらの憲法の基礎に置いていたのである。
 キリスト教的-西洋的な世界の内部で、一方の積極的に信仰するキリスト教と、他方におけるあの成層化と世俗化のあいだには、従来、不和と闘争がみちみちていた。人道主義的なフリーメイスン団の会員たちとカトリック教会とのあいだの深淵は、なんと深いものにみえたことであろう。ところが、いっけん不倶戴天の敵と思われたこれらのものは、一つの新しい異教の興隆にたいして、同時にまた、一つの新しい、だがこれまでのものとはまったくちがった性質の世俗化--われわれはこれをいまこのように表現してもよいだろ--にたいして、とつぜん同一の闘争ならびに防御の戦線を形づくったのである。
 なぜなら、この新しい異教においては、在来の世俗化を教義的キリスト教に結びつけていた最後のきずなが、断ち切れていたからである。すなわち、人間の良心を神の永遠の命令の、なかんずく隣人愛という倫理的命令の布告者であると認めることは、なくなっていたからである。そしてこの隣人愛とは、つまりまた、われわれにめぐり会うどんな人のなかにも、その人がまったくの異種族に属していようとも、人間的尊厳を認めることを意味していたのである。したがってまた、民族や種族のあいだの闘争にも、倫理的な制限がついていたのである!
 この制限は、もちろん歴史の実際のなかでは、われわれがせまい意味であるいは広い意味でキリスト教的な西洋の末流とみなす人々によっても、しばしば存分にふみにじられた。しかしそれにもかかわらず、諸民族のなかにはつねに良心の針が存し続けたのであって、暴行ののちには、ふつう、倫理的な根本命令にたいするなんらかの再反省が行われた。人々は、この根本命令を原則的に廃棄しようとはしなかったのである。
 ヒトラーとその一味のものは、このことをあえてした。もっとも、まさか全面的にそうしたわけではなかった。なぜなら、もしそんなことをしたら、無秩序と混乱にいたったであろうから。それゆえやはり、隣人愛同様のあるものを通じて、部分的にはけっして効果がなくはないいろいろな事柄が、「民族の幸福」のために行われた。けれども、民族的利己主義はこれらの善行を原則的に自民族のうえにかぎり、また自民族の内部でも、国民社会主義の指導に反対せず、政治的に危険のないように思われた若干の人々だけに局限した。他のすべてのもの、なかんずく憎むべきユダヤ人にたいしては、倫理的制限も、人権や人間的尊厳の承認も、もはや存在しなかった。ヒトラー一派はこのことを公然とは述べなかったし、また戦術的な理由からまったく態度を変えることも、おうおうあった。しかし強制収容所のガス室のなかで、ついに、キリスト教的-西洋的な文化と人間性の最後の息は絶えてしまったのである。
 新しく築かれた第三帝国は、暴力的な良心の圧迫を始めたが、この圧迫は、無数の運河を通ってドイツ民族内のあらゆる個人の生活に流れよせるか、さもなければ、かすかに絶え間なくしのびよった。われわれはこの圧迫のなかに、第三帝国のやり方のうちでもっともひどくかつ有害なものをみるとともに、第三帝国に固有の原罪をみるのである。なぜなら、この良心にたいする圧迫は、他の場合に傲慢な宗教や、時には傲慢な輿論さえもが人々に加えることのできる圧迫とはちがった、それよりもいっそうくだらぬものだったからである。
    --マイネッケ(矢田俊隆訳)『ドイツの悲劇』中公文庫、1974年。

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