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世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる

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 かくも目立たぬ現象に、かくも手広い解釈を加える甲斐があったとすれば、以上のような展望に加えて、おそらく次のような第二の展望があったからかもしれない。すなわち、それ自体としては取るに足らぬものにたいして有効性をもつことによって本来の姿を現す、象徴的関係というもののもつ射程の大きさだ。
 というのも、ここで取り上げているのは、まさにあの偉大な人間の理念的綜合と反立にほかならないからである。すなわち、あるひとつの存在が、自分を包み込む領域の統一性に完全に帰属しながら、同時にまったく別な事物の秩序から要請を受けているということ。この事物の秩序は、その存在に合目的性を課し、その形式を規定しているが、にもかかわらずこの形式は--あたかも事物の秩序など存在しないかのように--統一的連関のなかにあいかわらず組みこまれ続けるということだ。
 私たちが加わっている驚くほど多くのサークル--政治、職業、社会、家族のサークル--は、ちょうど水差しが実用的環境にとり囲まれているように、さらに別のサークルにとり囲まれている。そこでは個人がより狭い、閉じたグループに属しながら、まさにそれによって、より大きなサークルに参与している。そして、その大きなサークルがより狭いサークルをいわば操作したり、自分の側のより包括的な目的論のなかに組みこむ必要があるときには、そのつど、狭いサークルを利用する。
 取っ手が実用的課題に答えようとするあまり、水差しの形式的統一を破ってはならないように、個人もまたひとつのサークルの有機的な完結性の内部での役割を保持することを生の芸術から要求されている。しかし、個人は同時により大きな統一体の目的にも仕え、その奉仕をつうじて、より狭いサークルを周囲のサークルのなかに組みこみのを助けるのだ。
 私たちひとりひとりの関心領域についても、また同じことが言える。私たちが認識し、倫理上の要求に従い、あるいは客観的に規格化された構築物を作り上げるとき、私たちは私たち自身の持ち分や力をつうじて、理念的な秩序のなかに参入している。この秩序は、それ自身の内的論理ないしは超個人的な発展衝動に駆られ動いており、そのつど私たちの全エネルギーを個々の肢体で捉え、自分のなかに組みこむ。そのとき決定的に重要なことは、私たちが、私たちを中心とする存在の完結性を破壊させないこと、そしてその存在の周縁における個々の能力、行為、当為が、その存在の統一性の法則にあくまで留まり続けるようにすることだ。しかも同時に、この存在はかの理念的な外部にも帰属しており、私たちをその外部の目的論の通過点とするのだ。
 これがあるいは人間と事物の生の豊さということかもしれない。なぜなら生の豊かさの本質とはひっきょう、それらの相互共属性の多様性にあり、内部と外部の同時存在性にあるからだ。そこでは一方の側への結合と融合は同時に解離でもある。そこにはつねに、もう片一方への結合と融合が対置されているからだ。
 ひとつの要素が、ある有機的連関のなかに完全にとけこむようにして、その連関の自己充足性を分かち合い、かつ同時に、まったく別の生がその要素に入りこんでくるための架け橋となりうること、そして一方の全体性が他方の全体性を、どちらか一方が他方によって引き裂かれることなしに、捉えるための手がかりとなること--これこそ、人間の世界観、世界構成におけるもっともすばらしいことだ。
 水差しの取っ手は、おそらくもっとも外面的な形で、そしてそれゆえにまたその射程がもっともよく分かる形で、このカテゴリーを象徴している。このカテゴリーが私たちの生に、これほどまでに多様な生と共生を贈りとどけてくれるということは、おそらく二つの世界に故郷をもつ私たちの魂の運命の反映なのだ。なぜなら魂もまた、ひとつの世界の調和に自らを必要不可欠な部分として帰属させ、同時に、この帰属性を魂に課している形式にもかかわらず、否、その形式のゆえにこそ、もう一方の世界の網の目と意味のなかへ入りこんでいくからだ。魂の自己完成は、この二つの課題をどこまでなしとげられるかにかかっている。そのとき魂は、さながらひとつの世界--現実の世界であれ、理念の世界であれ--がもうひとつ別の世界にさしのべた腕となる。それはもうひとつの世界をつかみ、それを自分につなぎとめる腕であると同時にまた、その世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる腕となるのだ。
    --ゲオルク・ジンメル(北川東子編訳、鈴木直訳)「取っ手」、『ジンメル・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年。

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「川の両岸がたんに離れているだけではなく、「分離されている」と感じるのは私たちに特有のことだ。もし私たちが、私たちの目的思考や必要性や空想力のなかで両岸をあらかじめ結びつけていなかったとしたら、この分離概念はそもそも意味を持たないだろう。ところがここで自然の形態は、さながら積極的な意図をもっているかのように、この概念に立ち向かってくる。そこでは自然の要素間にあたかも独立した存在としての分離が介在しているように見え、いまや精神がその分離のうえに和解と統一を差し伸べるのだ」(ジンメル「橋と扉」、前掲書)と語るのは、社会学の黎明期の主要な人物として知られるゲオルク・ジンメル(Georg Simmel,1858-1918)です。

通常、社会学者……精確には社会学を打ち立てた人のひとり……とカテゴライズされる人物ですが、哲学になじみ深い宇治家参去などからすると、社会学者というよりも、むしろもうひとつの側面、すなわち「生の哲学(Lebensphilosophie)」の思想家という趣のほうが、当該人物を表現するには適切なのではないだろうか……などと思われて他なりません。

「生の哲学」とは、「生」ですから、生ビールはどのように飲むのが旨いのか、「生」の“魚”はどのように捌いて頂くのがいちばんよいのか……そうしたことを議論するわけではありませんが、結果としてはそこに通じていく隘路を開拓しゆく哲学なのだろうと思います。

デカルト的な二元論を乗り越える試みが「生の哲学」に通底している部分ですが、知性や理性偏重ではなく、現実に生きている人間を、いわば“全体”としてどのように理解していけばよいのかということを議論しますので、当然光明だけでなく暗部をも照射する知的動向といってよいと思います。

傾向としては、やはり、理性・知性偏重という思想史の超克という側面が強いですから、当然アンチ・形而上学に傾きがちとなってしまいます。

もちろん、そうした極端な論者も多々存在しますし、「生の哲学」とグルーピングしてしまうのは、学説史としての概念化の暴力に他なりませんから、実際にはさまざまな傾向をもったひとびとが「生の哲学」というジャンルされているのが実情でしょう。

しかし、そうした知的動向のなかで、群を抜いて、現実感覚と、現実を打ち抜く感覚をもちあわせた人物はジンメルをおいてほかには存在しないのではなかろうか……初学者の域を出ない感覚的直観ですが、ジンメルの著作と向かい合うとそのことが思い起こされて他なりません。

川の両側は、岸からしてみれば、たしかに、「離れております」。
だからこそ、川なのでしょう。

しかし、川そのもの、岸そのものからしてみると、「離れている」だけにすぎず、「分離されている」という発想はないのかもしれません。

そこに「分離」を見出すのが、人間の「目的思考や必要性や空想力」なのでしょう。「分離」しているからこそ「橋」をかけたいのが人間なのでしょう。

ジンメルに特徴的なのは、人間は他者や事物に対する「つながり」を拒否すると同時に、「つながり」を強烈に求める存在である、という人間観です。

ですから、その人間が「つながる」あり方としての「社会」が注目されるわけですが、ジンメルはそもそもそうした楼閣でありながら堅牢な構築物のようにそびえたつ「社会」そのものには別段に注目しないところが面白いところです。

ジンメルが注目するのは「社会」そのものよりも「社会」を成り立たせる原点としての「「社交(Geselligkeit)」です。

この社交とは広義でいえば、まさに人と人との交際、日本語のこなれた表現をつかうならば「世間的なつきあい」を意味する共同関係といってよいでしょう。

ジンメルにおいて「社会」とは、すでにできあがった仕組みや組織ではありません。対峙してみた場合、そうした錯覚を抱きがちですが、冷静に向かい合ってみるとそうではないことが多々あります。

そうしたほころび、そしてそうした仕組みや組織の原点としての諸個人の相互作用に注目したのがジンメルの学的営みといえるかと思います。

人間はひととひととの間柄的関係において、すなわちそれが社交ということですが、自己を個別化させる要求にしたがい、既存の社交性を解体してゆきますが、それと同時に、ある側面では、既存の社交性をも強化していく生き物なのでしょう。

そこにおいては、あれか・これかといった革命家的な敵・味方論は通用しない、現実の人間世界の地平がひろがるばかりで、そのたゆみない対決のなかに、人間が、現状を不断に変革し行くきっかけがあるのかもしれません。

それを相対するものとして対峙してしまうと、そこには生きた生活空間はまったく存在しないわけですから、議論として結局人間を扱わない立場しか出てこないのかも知れません。

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魂の自己完成は、この二つの課題をどこまでなしとげられるかにかかっている。そのとき魂は、さながらひとつの世界--現実の世界であれ、理念の世界であれ--がもうひとつ別の世界にさしのべた腕となる。それはもうひとつの世界をつかみ、それを自分につなぎとめる腕であると同時にまた、その世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる腕となるのだ。
     ジンメル「取っ手」、前掲書。

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つかみ、つかまれている……だからこそ人間の喜怒哀楽はそこに存在するわけですし、そのことを一慨に抽象化することは不可能です。

抽象化された立場は、どの局面においても、生きている人間を分断するばかりですから、われわれが選択するべきは、(わたしが)つかみ、(わたしが)つかまれているきめ細かい織物のなかで、わたしという糸が輝き、わたしという糸に綴られた織物としての社会が煌めくという立場をとるしかないのでしょうねえ。

久し振りにジンメルを読みながらそのようなことをふと思った次第です。

……ということで、昨日からスポット的な三連休でございます。

市井の職場の各課長、店長の夏休み調整のための振り替え出勤がかさなっているのですが、その代替休としてまさにスポット的に頂戴した次第です。

来月はスクーリングがあるので、そこでリフレッシュ休暇を申請して、そして大学へ講義へいくという夏休み“消化”を申請しておりますので、実質これが夏休みかもしれません。

ただ、課題も山積しておりますので、論文2本とか博士論文の仕上げとか、夏期スクーリングの仕込とか……今日も自室に“ひきこもり”でございます。

ただ、夕方、玉子が切れていたので、細君より、「購入依頼」……そのバーターとしてタバコ1箱代を請求したところうまくゲット!……がありましたので、ちょいとついでにぶらぶらすると、19時すぎてから、燃えるような夕陽に向かい合い、ちと感動です。

夕陽そのもには自然の営みとしては「意味はない」のでしょう。
しかし、そこに人間が「かかわる」=「つながる」ことによって「意味」が出てくるところが不思議なものです。

しかし、ジンメル……水差しについた「取っ手」を材料にしながら、人間世界を論じるとは、……ここまでの本質的美文家は、どこをさがしてもいませんねえ。

ドイツ語もこれまた格調高い美しい文章なんです。

……ということで、今日は、『黒龍』(黒龍酒造(株)/福井県)の、「逸品」にて晩酌です。

大吟醸、純米酒、垂れ口……等々、種々『黒龍』は試しているのですが、「逸品」は初めてです。

一番安い入門者用=酔うの酒かもしれませんが、やわらかな味わいとさわやかな匂いには紛れもなく福井県産五百万石の旨みが生きているようです。

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