勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません
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ト伝は、義輝にせがまれるままに、この冬を京で越すことにした。義輝がせがむままに、自ら木刀をとって教えつづけた。
当時の剣法というのは、まだ原始的なもので、戦場での活用を主眼としているから後年のような複雑な太刀筋がまだ生まれてはいない。
ト伝は、ただ一撃の打込みにこもる気力と、この気力に伴う肉体の自由自在な活動が、いざというとき充分に発揮されるべく鍛錬をかさねてきた。これを義輝に伝えるのである。
それともう一つは--いかなる場合にあっても、燃え上がる闘志を押える冷静な心と、立合いの駆け引きである。
「勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません」
と、ト伝は義輝に言った。
「勝てぬと思うときは逃げるのです。恥ではありません。よろしゅうございますか、私は、あなたさまが自らをお守りになる為に剣をお教えしたのでございますぞ」
年があけて永禄五年となった。
--池波正太郎「ト伝最後の旅」、『上意討ち』新潮文庫、昭和五十六年。
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ひとつだけ自慢できることがあります。
それは何かと申しますと、「喧嘩をしたことがない」という……ただそれだけのことです。
勿論乳幼児期の記憶は定かではありませんので、学齢期以降ということですが、喧嘩を一度もしたことがありません。
……などというと、「男は拳と拳で勝負じゃああ」的な発想からすると……言語が若干差別的表現を伴いますがリアルな状況を表現できますので臆面もなく表現するならば、いわゆる「女々しい奴」「男らしくない奴」……などといわれてしまいますし、そのことを否定しようとも思いませんし、それはそれで当を得ていると思わざるを得ません。
いずれにしろ喧嘩だけはしたことがなく、それは裏っ返せば、憶病の誹りをうけてしまっても、反論することができません。
しかし喧嘩だけはしたことがないんです。
憶病ですし、怖いからですし、ついでにイタイからです。
「やっぱ弱虫かよっ」
……って言われてしまうと、それまでなのですが、そのことは否定もしませんし、逆に言えば、批判のまさに的となってしまう全方位外交こそが、自分自身のレゾン・デートルを形成してきたのだろうと思います。
ですから、小学生の頃から、どのようすれば、そうした縁に紛動されないですむのか……丹念に取り組み?、オトラント公ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, duc d'Otranto,1759-1820)も驚くばかりの権謀術策に知的リソースを注ぎ込んできたようなチキン野郎です。
ですから、大声でなにかをやられるとか、リアルな拳法をやっちゃうとか、その類が極めて苦手でございます。
剣道を小学1年生のころから、都合12年ほどやっておりましたが、試合で勝ったことも通算2度ほかしかなく、……それはアンタがヘタクソなのだろうといわれればそれまでですが……、剣道で学んだのはなにか「力」によって「伏せる」ということよりも、それ以外の方が多かったのかも知れません。
いずれにせよ、力量・技倆・気迫の問題もありますが、「諍う」ことに憶病になってしまう宇治家参去です。
ですから細君などからは、「闘うときに役に立たない」などとのたまわれてしまいますが、そこに、宇治家参去の「非暴力の聖者」としての止めどない人類に対する愛を感じて貰いたい次第なのですが、話がずれてきました……ので、本論?にもどりましょうか。
……ということで?
市井の職場6連勤の最終日、マア、例の如くありえないレジ地獄ではありましたが、ちょいと別件のしごともしなければならず、やっている最中に、お客様との応対をしながら……、聞こえてきたのが、大人“たち”の“怒声”でございます。
……ひょとして“危ない人”が騒いでいるのか?
応対しているお客様に、怒号の情勢を“察して”もらい、手短に要件をすませ、現場?へ急行すると、お父さんとお父さんがガチ喧嘩をしていた次第です。
「“あ”んだ、テメエ」
「“い”いかげんにしろよ、こんにゃろぉぉ」
「“う”ぜえぇぇんだよ」
「“え”えかげんしろやぁぁぁ」
「“お”い、なぐりたけりゃぁぁ、なぐれやぁぁ」
……ってご様子で、買い物に訪れた他のお客様も怯えるばかりでございます。
ちょうど時間帯が夕刻のピークタイムですので、ふぁみりーなひとびともおおく、
「うぉっぷ、まじですか」
……って式に「驚く」というよりも「おびえている」わけですから、
誰がどうすんの?
……って式に宇治家参去さん、チキン野郎でしょうが、収めろや……って内面の声とともにフロアに対する職業倫理的@ヴェーバーの“責任倫理”から……、
声をかけた次第です。
ひさしぶりに心臓が爆裂した次第です。
興奮した2人をなだしつつ、状況を把握すると、どうやら、肩と肩がふれた……というような……実際は違いますが措きますが比喩で……“ささいな”突発事が発端であったようですが、一度火がついたおふたりのお父様は、なかなか矛を収めてくれません。
どちらかといえば、ますますエスカレートする様子で、そこには仁義も公共精神もへったくれもあったもんではりません。
やるなら外でやってくださいましよ……とは思うのですが、不特定多数のひとびとが集うGMSという、公共空間@ハーバーマスであるわけですから、放置プレイもできず、補佐のバイト君……こうした場合は複数人対応が原則です……に「警察でも呼ぶか」って声をかけると……、
「薬が効いた」……のかしら?
……一方のかたが、鉾を収め初め、三々五々に当事者およびギャラリーが雲のを子を散らすように退散した次第です。
これ以上、ことをあらげるつもりもありませんでしたので、
「もうしわけございませんが、ここは、いろんなひとが集まる場所ですから、ほんと、もうしわけございませんが、ここはひとつおだやかにできませんでしょうか……」
……って最後に声をかけると、すこし冷静さを取り戻したお二人が、「いやいや、あんたが“あやまる”必要はないんだよ」
……などと、一方のかたが声をかけてはくれたのですが、
「あんたが“あやまる”必要はないんだよ」
……っていうのは、「わるいのはおれと喧嘩しているおめえだ」……っていう言語の表裏に隠された「夏への扉」という余韻がふくまれいることが濃厚でしたので、
「では! これでよろしいでしょうか。警察も呼びません。種々誤解があったようですが、他のお客様も“怖がって”おり、“迷惑”しております。おわりにしましょうか」
……って“びくびく”で案内し、ようやくクローズです。
言語として記述すると長くなりますが、1分足らずの出来事です。
ひやぁぁ、なんとかおさまてくれて幸いです。
ある意味では……処理するという意味では……クレームの方が楽であり、諍いの仲裁ほど生命力を使う事例はありません。
ともかく無事に案件終了で“幸い”です。
しかし……“怖かった”です。
この手の事案に“介入”すると、正直なところ、「あんだ、テメエ」って“ぶん殴って”もらったほうが楽なんです、司直的には。しかし、「易き」への「阿(おもね)り」を排した極限状況?の提示というものは、まさに、人文学者としての本業の枠を拡げてくれているようで実にありがたいものです。
しかし……“怖かった”です。
……といわざるを得ない、まさに“チキン野郎”宇治家参去でございます。
接客の問題、品質の問題を含め、クレームとか事故が一番多いのがこの季節です。
それはそうですよね!
これだけ暑くてゲレってきてしまいますと、ぶち切れてしまう……というものでしょう。
しかし、宇治家参去は“ぶち切れ”ることが許されていないんですよ、……トホホ。
だから……喧嘩をしません。
「勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません」
負ける相対というのが“喧嘩”なのでしょうねえ。
そして必ず勝つとというのが“勝負”なのでしょうねえ。
どこに生命力を“注ぐ”のか、ひとつ学ばせて頂いた次第です。
しかし蛇足ながら、喧嘩を収める……これはチキンの蛮勇にしかできないかもしれません。
つうことで、帰宅すると、注文していたデッドストックのシェーファー(SHEAFFER)の「スクール万年筆」が届いておりました。
今はつくっていない80年代のラインですが、ネットオクで易く入手できました。
スクール万年筆とは、学齢期の児童にもつかってもらおうという簡易な万年筆ですが、やはり老舗の作った物は、書き心地が、使い捨てアイテムとは全く異なります。
お子様向けですから自重はほとんどなく、かるく、まさにライトな万年筆ですが、お子様向けなのでしょうか、細字ののりもよく、これはひとつめっけもんでございます。
このライン、すなわち「スクール万年筆」は、ペリカン(Perikan)なんかも出しているのですが、未使用のデッドストックになかなか出会えず、ペリカン党としては是非ペリカンなどと思っては居たのですが、ぼちびち学齢期にさしかかる息子殿にも1本と考えていた矢先、シェーファーもそうなのですが、なかなか手に入らない奴が手に入ったのは幸いです。
来月あたりに、なんとなく「勉強をがんばったご褒美」ということでプレゼントしてみようかと思います。
宇治家参去自分自身もネズミのはったような文字しかかけません。
しかし忘れがたいのは、自分自身も小学校に入学した折り、父母からもらったのが万年筆です。
今は手元にありませんが、ドイツのラミー(Lamy)の“サファリ”ラインだったかと思います。いわゆる「スクール万年筆」ではありませんが、初学者向けの一品で、なんだかんだといいながら6年間使い倒した思い出があります。
うちの息子殿も、親である宇治家参去以上にグレート“チキン野郎”でございます。
しかし、“諍う”ことに専心できるよりも、“諍う”ことを調停できるひとになってもらいたい……などと思うのは、親ばかでしょうか。
……っていうことで、寝ますワ。
上意討ち (新潮文庫) 著者:池波 正太郎 |
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