教義は、--だれかが言っているように--見ることを妨げる壁ではなく、その逆で、無限に向かって開かれた窓なのだ
福音が生きており、キリストご自身が望まれた聖職位階制にゆだねられている秘義としての教会への信仰の危機から、その当然の成り行きとして、教導によって示される教義への信頼の危機が生じる、とラッツィンガー判断する。
彼は言う。「神学する主体は個々の学者ではなく、カトリック共同体一同、教会全体であることを、多くの神学は忘れてしまっているかに思える。教会への奉仕としての神学研究が忘れられてしまうと、そこから、実際はしばしば共通の伝統の基礎とはあまりかかわりのない、ある種の主観主義、ある種の個人主義である神学多元主義が生ずる。神学者はそれぞれ“創造的”であろうとしているかにみえる。だが神学者のほんとうの役割は、信共同遺産を深め、分かるように助け、告げることであって、“創造する”ことではない。そうでないと、信仰はしばしば対立する一連の学派や動向へと砕け散ってしまい、神の民を大混乱に陥れてしまうだろう。ここ幾年かに神学は、キリスト教宣教に新しい道を開こうとして、信仰と時代のしるしを調和させることに精力的に専念した。だがこの努力は、しばしば危機を解決するどころかますますそれを深刻化させてしまったと、多くの人が確信するに至った。この断定を一般化するのは正しくないけれども、だからといってそれをただひとえに否定するのは偽りであろう」。ラッツィンガーは彼の診断を続ける。「神学のこの主観的ヴィジョンでは、教義は得てして我慢のできない檻、個々の学者の自由に制約を加えるものと見なされている。ところが、教義の定義は真理への奉仕であり、神によって望まれた権威から信徒たちへ贈られたプレゼントでえある、という事実が見失われている。教義は、--だれかが言っているように--見ることを妨げる壁ではなく、その逆で、無限に向かって開かれた窓なのだ」。
--V.メッソーリ(吉向キエ訳)『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』ドン・ボスコ社、1993年。
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ほとんど寝ていないまま……、早朝から“たたき起こされ”、息子殿が入学を希望されている小学校の入試説明会に参加させて頂きました。
息子殿と細君は、一昨年来よりオープンキャンパスだとか、入試説明会にかなり通っておりますが、宇治家参去の場合、近くは一年前の入試説明会以来のことで、いつもながら……直線距離ではちかいのに、公共交通機関をつかうとそれでも1時間程度はかかってしまうので、冷戦下における旧ベルリン市に在住する西ベルリン地区のひとびとの苦労を思い起こすこと屢々です。
昨年の訪問時も、細君より忠言されたとおり、ネクタイ、スーツ……しかしWのスーツはNG……にて訪問しましたが、いやはやひどく暑かったです。
東京では33度を超え、体感的には35度ぐらいでしょうか……、風が強く、ほとんど熱風です。
しかし、鍛え抜かれた強靱な肉体のおかげで?、流れ落ちる汗などどこふく風よ!とばかりに、がんばり通すことができました。
で……。
1時間余りの説明会は、本年完成した新体育館でありました。
開始まで時間があるので、少々読書です。
昨年は、近代日本のカトリシズムの文献をひもといておりましたので、今回も、
「やはり、カトリックの文献だよな!」
……ということで、持参したのが上の引用文献です。
現・ローマ教皇(第265代)ベネディクト16世(Benedictus XVI,1927-)が教皇庁教理省長官時代のインタビュー集なのですが、これが頗る面白い!
……熱中して読んでいると、細君からまたきつい視線が……。
「あんで、こんな日にそんな本を読んでいるんだ!」
……といわんばかりですが、
「学問の自由だろう」
……などと思うのですが、いつもやられてばかりいるのでちょいと
「意趣返し」
……という部分もなくもないのですが、なんとなくバツがわるくなり、鞄へ戻し、まわりを眺めてみると、知己がちらほらと。
1月にKOで目黒を元気にするぞ!……って一緒に誓って前後不覚になるまで飲んだ莫逆のN氏もいらっしゃったようで、旧交を温めながら、すこし言葉をかわしつつ、お子様の合格を祈っていきたいものだな……など思った次第です。
宇治家参去個人としては、「なるようになる」という受験者本人に対する還元主義がどこかで機能しているので、血眼になることはまったくなく、かえって、ほかの家庭のお子様の方を応援したくなるのですが、……この感性が不思議なものですし、そこが細君からすると「薄情者!」と罵られる理由にもなるのですが、「なるようにしかない」ものは「なるようになる」わけですので、合格・不合格という問題以前として、その本人が「なるようになる」ための仕込・取り組みができれば、宇治家参去としては……十分ではないのか……などと思うのですが、そのあたりが「哲学」とか「倫理学」とかそういった学問に“憑かれた人々”の一種“浮世離れ”したところかもしれません。
さて、説明会そのものはこ1時間程度で終了ですが、冷房の効いた体育館から一歩外をでると熱風地獄!
げんなりとしつつも、創立者から参加者一同に冷たいジュースが振る舞われ、ありがたく思うとともに、いわゆる「人間教育」というのは、そうした形にならない活字にならない“配慮”だとか“賢慮”に現れてくるものでは……などと感慨しつつ、ありがたくイッキのみした次第です。
N氏と再会を約しつつ、帰路へとつきましたが、駅へと通じる、玉川上水沿いの森林にめぐまれた小径は、木立のお陰でしょうか……炎天下のグランドとかアスファルト上よりも、いくぶんか気温がひくく、汗も引くとでもいうのでしょうか、森林の持つ力もあるのでしょうが、しばし和らぎながら帰路へと足を勧めながら駅近くへ出ると、
「乗り継ぎ駅の百貨店のうえで昼食を取る? それともこのあたりでやる?」
……などと細君がきくので、
熟慮熟考していると、息子殿がこのへんで!
……というので、テキトーに蕎麦屋に……東京でテキトーにどこかへ「へえる」には蕎麦屋が定石でしょう……入りましたが、「砂場」という王道の屋号がたまりません。
こちらは、チト小腹も空いておりましたので、ハンバーグセット!……子供みたいやんケ!というツッコミはなしネ……を頂戴しましたが、息子殿は渋く、「ざる」などというので……、
「おお、大人だよな」
……などと丼物に目もくれず蕎麦道を邁進する息子殿を仰ぎ見た次第です。
そのうち
「せいろ1枚」
……などと言うのかしら?
で……。
くどくどしく、今日の炎天下を書き連ねてきましたが、はっきりいうと、何度“溶けた”かわかりません。スーツはクリーニングに出さない限り、二度と着ることのできぬ状況にまで陥っている状況であります。
ここで……
「瓶ビール」
……というオーダーをしないわけには参りません……よね!
幸い、本日は遅い夕方からのシフトに調整してもらっていたので、まよわず注文しましたが、ありがたいことに、細君が文句をいわずGoサインをだしてくれたことでしょうか。
いつもなら、「昼から“やっちゃって”」……などと酒道を“小馬鹿”にした発言が飛び出すわけなのですが、本日は、無言でOKというサインを頂き、堪能させて頂きました。
さふいえばむかし、「一杯のかけそば」という話題が耳目を引いたことがありました。
まったく文脈はことなりますが、真夏のくそ暑い昼時の「一杯のきんきんにひえたビール」ほど、“生命力”を回復させる話題はありません。
ゴキュ! ゴキュ!
……って喉を鳴らしながら、やりますと、これまで噴出していた汗がひいていくのが不思議です。
さて話がそれましたが……
物事を批判的に吟味する哲学者、共同存在としながら同時に還元不可能な存在者を探求する倫理学者、そして真理との応対関係のなかで本質を吟味しぬく神学者として「異種返し」にためにひもといたベネディクト16世(Benedictus XVI,1927-)の教皇庁教理省長官時代……ですから本名で言うと、ヨーゼフ・A・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)時代なのですが……の文献に戻りましょう。
現代カトリシズムにおいてラッツィンガーほど評価の別れた人間は存在しないのかもしれません。カトリシズムを大きく世界に開いた第2バチカン公会議では、公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献したとおり、進歩派の側面をもっております。
しかしそれと同時に、カトリックの伝統的な倫理思想を硬く擁護しているむきから、守旧はの元締めのように見られるフシもあり、教皇庁教理省長官就任以後、どちらかといえば、進歩派というよりもアナクロニスムな伝統主義として巷間に流布されているのが、メディア評なのだと思います。
しかし、実際に彼の文章を読んでいると進歩/伝統という二元論を貫き“撃つ”力強さと責任を感じられずにはいられません。
私見になりますが、そして宗教学・宗教学史、そして教会史を学んでいると実感するテーマが一つあります。これは後日詳論しようとおもって温めているテーマであり、その課題ひとつが、実は博士論文のテーマにもなってしまう難事ではあるのですが、結論から先取りすると、宗教は、基本的には、制度・伝統が必要不可欠であるという点です。
制度とか伝統というと、人間を引き裂いてしまう構造的暴力だ!といってしまうと、それには反対することはできません。そして歴史を振り返ってみますと事実そうです。
しかし、だからといって、それまでの伝統とか制度をロシア革命式に一気に抛擲することは不可能です。
たしかに、伝統、権威、仕組み、体制、制度といったものが、本来は「人間のため」と称しながらも「人間のため」にならなかった事例を数えあげるには枚挙に暇がありません。
しかし、そうした“仕組み”をはなれて、ひとりでなにかをしてゆかんとするのは甚だ困難であることの事例を数えあげることにも枚挙に暇がありません。
かつて宗教学者・ヨアヒム・ヴァッハ(Joachim Wach,1898-1955)は宗教とスピリチュアルの違いを論じるなかで、その「社会性」したことがあります。
宗教の両輪とは何かといった場合、宗教における社会性と、そして還元不可能な個人の内面世界になるのでしょう。
歴史においては前者が宣揚された結果、さまざま罪過を生じてしまったことは疑いのない事実です。
しかしその“反動”して後者にのみ重きをおきてしまうとどうなるのでしょうか。
まさに批判的契機を欠いた恣意性にながれるフシがあります。
そしてこれは、実は、宗教的達人というものは……これは宇治家参去自身の用語ですが、仕組みにたよらず悟りへ至れる人々……歴然として存在します。トルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1829-1910)、エマソン(Ralph Waldo Emerson,1803-1882)なんかはその代表なのでしょう。
しかし、それは達人にしかできません。
罪人@キリスト教、凡夫@仏教におけるうつろいやすい人間は、どこかでそれを矯正できる共同体抜きには、現実を超克できる視座はないのかもしれません。
だからといって既存のシステム・体制の過誤を擁護するつもりは毛頭ありません。逆に言えば、だからこそ、超克できる視座を提供すべく、たえず批判にさらされ、よりよきあり方へとブラッシュアップしていく必要があるというのが実情でしょう。
そうした共同体からはなれて、ひとり超越できるのはトルストイとかエマソンぐらいです。凡夫がやってしまうと、どうなるのでしょうか。
ヴァッハの指摘をまつまでもなく、それは、自己の相対性の吟味を欠如した内面全面論のスピリチュアル世界へと移行してしまうのでしょう。
……ってずれていますかね?
すでに飲みながらやっている……いつものとおりやん!と突っ込まないでくださいまし……わけなので議論に重みはありませんし、この問題は事後詳論するつもりですので、それまで待ってくんろ!というのが正直なところですが、結論から先取りすれば、
1.人間がなにかをめざすうえでは、それを成し遂げるための仕組みとか共同体というのもが必要不可欠である。
2.そしてそれを目論んだはずのでシステムが、かえって人間が上昇しようとする方向性を阻害してきたのが歴史であることは疑う余地もない。
3.しかしながら、人間がなにか、仕組みとか、組織……それは肯定的に表現するならば、自助を励まし薫育するシステム……を欠いて、ひとりでやってしまうと、「ひとりよがりになってしまう」のが実情でしょう。
4.であるとするならば、システムに対してはたゆまないチェックシステムをもちあわせつつ、生きている人間が開花できる体制を!
5.結局ひとりでやってしまうと“達人”をのぞき、“恣意”化してしまうわけですから
6.“恣意”でもない“ドグマ”でもない第3の道!
それが要請されているのではないだろうかと思われて他なりません。
それがおそらくラッツィンガーことベネディクト16世の発想ではないかと思われるんですよね。
たしかに歴史を振り返ると、体制が人間を歪めたことには異論はありません。だったら体制を全てぶっこわして、かってにやれやってやってしまうことにも賛同できません。
その第3の道……それを模索しているのだろう……などと読むたび思われるわけですが……、
……って結構飲んでいますが、こういう話をシラフでやると、一般民間人の細君……ちなみにワタクシも一般民間人なのですが……ウザイみたいです。
ともあれ、昼食ビールありがとうございました!!!
ついでに、息子殿、がんばってくださいまし。
……って、以下は、蛇足ですが、
不思議なもんで、お蕎麦やさんの洋食メニューって、何故か、家庭的とでもいえばよいのでしょうか、なんとなく懐かしい味わいです。
……とともにおどろきですが、帰路の玉川上水ほとりの小径の木々で、野生?のカブトムシ(メス)に遭遇!
東京も捨てたものではございません。
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