知恵の観照における楽しみは、それ自身のうちに楽しみの原因を含む
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知恵の探求は、人間のすべての営みの中で最高であると宣言したトマスは、次の一文でそれを遊びにたとえている。なおトマスは『神学大全』第二-二部、百六十八問題第二-四項で遊び突いて考察し、遊びは人間の共同生活において欠くべからざるもので、遊びを知らず、快活さに欠けることは一種の悪徳であると述べている。
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ここで(『集会書』((三二・一五~一六))に「いち早くあなたの家へ走り、そこに引き籠もり、そこで遊び、あなたの心に浮かぶことをしなさい」とある箇所を指す)知恵の観照が、遊びに伴う二つの要素ゆえに、適切にも遊びにたとえられていることを考察しなければならない。すなわち、第一には遊びが楽しいものであり、そして知恵の観照が最大の楽しみを含むものだからである。ここからして『集会書』(二四・二七)には、知恵みずから語る言葉として、「わたしの霊は蜜よりも甘い」とある。
第二に、遊びにおける活動は他のことに秩序づけられているのではなく、それ自身のために追求されるからである。そして、この同じことが知恵の楽しみについてもあてはまる。
というのも、時としてある人が、自分の欲しがっているもの、あるいはなそうとしていることについて思いめぐらすことで、楽しむことがある。だが、この楽しみは、彼が到達しようと欲している何か外的なものに秩序づけられている。
ところで、そうしたものを手に入れることができなかったり、入手が遅れたりすると、この種の楽しみには少なからぬ苦痛が伴うものであって、『箴言』(一四・一三)に「笑いには悲しみがはじまるであろう」と言われているとおりである。
しかし、知恵の観照における楽しみは、それ自身のうちに楽しみの原因を含む。ここからして、何か不足なものが生ずるのではないかとの不安におそわれることはない。このゆえに『知書』(八・一六)には「知恵との対話は苦さを含まず、知恵との交わりは倦怠を生じない」と言われている。このようなわけで神的知恵はその楽しみを遊びにたとえて、次のように語るのでえある。「わたしは、彼の前で遊び、それぞれの日を楽しんだ」『箴言』(八・三〇)
ここで「それぞれの日」とは真理についてのさまざまの考察のことである。このゆえに「そこであなたの心に浮かぶことをしなさい」と付け加えられているのであって、「心に浮かぶこと」conceptionesとは、それでもって人が真理の認識を受け取るところのものを指している。
(『ポエティウス・デ。ヘブドマディブス註解』序言)
--稲垣良典『トマス・アクィナス』講談社学術文庫、1999年。
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午前中は爆睡していたのですが、起きると息子殿が帰宅したようで……、今日が幼稚園の終業式とか。
本当は本日外出の予定があるのでおこしてくれと細君に頼んでいたのですが、おこしてくれなかったようで、洗顔をして着替えると、食事をすませた息子殿が宇治家参去さんのPCにてYoutube三昧のご様子。
細君は外出の用事があったようで……
「帰宅するまでYoutube見ていていいよ」
……とのことだそうで、仕事に使うためのPCが占拠されておりました。
息子殿には専用のPCを用意しているので、そちらをセッティングして使って欲しいものなのですが、24H電源入れっぱなしの仕事に使うためのPCの方が便利なのでしょう。
遅く起きてしまったので、要件のために外出することもできず……。
細君が不在ですから、そのまま「ままよ」って式に飛び出すこともできませんので、大人しく、息子殿がYoutubeを楽しんでいるとなりの座席にて、今朝届けられたばかりのレポートを数点添削していた次第です。
あとになって貯めこむと苦労するのは自分自身ですから、到着したその日から手を入れるのが常道です。
さふいえば、今回のひとやまには、海外からのレポートが1件あり……タイランドですが……、地球的規模で拡大する向学心に襟を糾させて頂いた次第です。
で、頃合いのよいところで、天使博士・トマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225年頃-1274)に関する補足資料をぱらぱらと再読していたのですが、態度が「遊んでいる」ように見えたのでしょうか……。
帰宅した細君から、勉強しないで遊んでいてばかりと恫喝です。
遊んでいたわけではなく……勉強していたのですが……、息子殿がYoutubeを見ながら、奇声をあげている横合いにて、寝っ転がり本を読んでいて、そのちかくにCDとか漫画本が散逸していた様子がよくなかったのかもしれません。
しかし、なあ~。
トマスも言っているとおり、「しかし、知恵の観照における楽しみは、それ自身のうちに楽しみの原因を含む。ここからして、何か不足なものが生ずるのではないかとの不安におそわれることはない。このゆえに『知書』(八・一六)には「知恵との対話は苦さを含まず、知恵との交わりは倦怠を生じない」と言われている。このようなわけで神的知恵はその楽しみを遊びにたとえて、次のように語るのでえある。「わたしは、彼の前で遊び、それぞれの日を楽しんだ」『箴言』(八・三〇)」わけですから、ここから、あたらしい発想の局面が展開するはずなのですが……。
……ということで?
存分に楽しんだ息子殿は細君によって自室へ引き戻され、しばしのお勉強タイムのご様子です。
そのあとかたづけをしながら、「さふいえば、今日は外出すべき予定が……」
……ということで、思い出したのが、「骨董ジャンボリー」
土曜日曜と開催されるのですが、市井の仕事のためいくことができず。
前日の金曜が「アーリーバイヤーズデー」ということで、楽しみにしていたのですが、涙ながらにスルーしてしまいました。
前日に「骨董、骨董!! ぴーひゃらら」と叫んでいたのがよくなかったのかもしれません。
来年は「捲土重来」したいものです。
http://home.att.ne.jp/sun/jambokun/antique/?gclid=CMaqtouR3ZsCFdMtpAodei_i_A
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トマス・アクィナス (講談社学術文庫) 著者:稲垣 良典 |
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