おまえはまだ若いし、俗世の誘惑も重く、おまえの力に余るものだから
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ちょうどそのとき、パイーシー神父が、彼にはなむけの言葉を贈ってくれた。その言葉は思いもかけず、きわめて印象深い感銘を彼にもたらした。それを言われたのは二人が長老の庵室を出たときのことだった。
「いつも肝に銘じておくのですよ」とパイーシー神父は、前置きもなくいきなり切りだした。「いまでは、俗世の学問はひとつの大きな勢力になり、過去一世紀はとくに、聖書に記されている尊い約束を、何もかも秤にかけてしまいました。俗世の学者たちの容赦のない分析にさらされた結果、かつて神聖とみなされていたものはもう何ひとつ残っていないありさまなのです。しかし学者たちは、部分の解明にばかり気をとられて、肝心な全体を見落とし、あきれるぐらい目先が利かなくなっているのです。彼らの目の前に、その全体が相変わらずびくともせず存在しているというのに。地獄の門、黄泉(よみ)の力もその全体は攻略できません。
そもそもこの全体は、十九世紀をとおして生きつづけ、現に今も、個々の人間の心の動きや、人民大衆の動きのなかに生きているのです。いや、何もかも破壊しつくした当の無神論者たちの魂の動きのなかですら、全体はこれまでと同じようにゆるぎなく生きているのです! なぜかと言えば、キリスト教を棄てキリスト教に逆らっている人たちも、本質においては当のキリストと同じ顔をし、同じ人間としてとどまっているからです。そして彼らの英知も、彼らの情熱も、大昔にキリストがお示しになった姿以上の、人間と人間の威厳にふさわしい最高の姿をほかに生み出すことができなかったからです。たしかにいろんな試みがなされましたが、それらはどれも醜いものばかりでした。とくにこのことをよく覚えておくことです。なぜかと言えば、おまえがこれから俗世に出ていくのは、いま他界されようとしている長老さまがお決めになったことですから。偉大なこの日を思い出すときは、心からのはなむけにおまえに授けたわたしの言葉も、きっと忘れずに思い出してくれるでしょう。なにしろおまえはまだ若いし、俗世の誘惑も重く、おまえの力に余るものだからです。さあ、お行きなさい、みなし児よ」
こう言ってパイーシー神父は彼に祝福をさずけた。修道院を出るとき、この突然の子t場を思い返しながら、アリョーシャはふいに、これまで自分に厳しく厳格だったこの修道僧が、思いもかけず新しい友となり、自分を熱烈に愛してくれる新しい指導者であることを悟った。あたかもゾシマ長老は、臨終に際し、このパイーシー神父に彼の後見をゆだねたかのようだった。
--ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年。
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火曜日の深夜……精確には水曜の未明ということですが……アサヒ ザ・マスターをかなり飲み過ぎてからなおも、日本酒をかなりやっていたようで、布団で最初は寝ておりましたが、朝起きると、ふとんを敷いていない自室の床の上に転がっており、かなり飲んだようだな……などと朝ゲフゲフしたものです。
本来ですと昼過ぎにおきるのがちょうどよろしいのですが、生憎朝から中野へ細君と一緒に出かける用事があり、寝たと思ったらすぐにたたき起こされる……という具合で、寝不足の宇治家参去です。
さて、こうしたデイタイムに出かける場合、ちょうど時節柄幼稚園が午前保育になっているため、ふたり出かけてしまうと息子殿をサルベージすることができませんので、園を休んで頂き、家族で出発!
中野に都合15年近く住んでおりましたが、足を踏みいれたのは初めての地域で、駅は杉並区という具合で、その境目の地域に住んでいらっしゃる細君の知り合いのところへ出かけてきました。
さて、要件を済ませると、同道している息子殿へのご褒美?
……ということで、中野へ行くと、それが中野区の東西南北のどの地域であろうが、ちょうど中心部に位置する中野ブロードウェイへ行かざるを得ませんので、新井薬師駅からタクシーにて直行!
親の用事でどうしようもなくついてきた訳ですが、文句もいわず、楽しそうについてきてくれましたが、いよいよ自分が表舞台?に出る段になりますと、目の輝きが違います。
最近大好きなポケモンバトリオS(スーパー)にて日頃のストレスを発散されたようですが、こちらは百円玉が湯水の如く消えていくのがなんともいえないところですが、マア、毎日勉強して、元気に幼稚園にも登園しているようですから、そこはすこし我慢?するしかありませんかねエ。
この中野ブロードウェイで恐ろしい?のは「まんだらけ」に代表されるように、子供のみならず大人の触手を刺激して止まない食玩・おまけ・フィギュアの類を商う店を軒を連ねておりますので、ここですこしまた銭を落とす……というやつで。
……ということで? 時計に目をやるとけっこう良い時間になっておりましたので、関東では有名なお好み焼き・モダン焼きの「ひまわり」へ赴き、しばし休憩です。
店内ではソースの匂いがたちこめ、香ばしいにおいや「お好み焼きには生ビール」と書かれたKirinのポスターなんぞをみかけるたびに、「いっぺえやりてえ」とは思うのですが、生憎、その後は仕事ですので、じっと我慢の子です。
本来の目的は達しましたので、何もなければ「昼ビール」というわけですが、そうもいかず……我慢できた宇治家参去は「偉い子」だと思わざるを得ません。
で……。
とりあえず、昼ランチのトリプルなんちゃらというプレートメニューを頂きましたが、焼きそば、オムレツ、生姜焼きにライス、味噌汁がついて1000円でおつりが来るというのはこのご時世においては、財布に優しいメニューでしたが、ひとつ発見です。
関西出身の市井の職場のアルバイト君がいつも公言してはばからないのは次の部分です。
すなわち、「お好み焼き」「焼きそば」には「ライス」でしょう!
そのことです。
「ありえねえよ~なあ~」
……などとタカをくくっておりましたが、今回は焼きそばとのコラボレーションでしたが、おもった以上にマッチングすることにはおろどろきました。
ただスーパーで買ってきたマルちゃん(東洋水産)の3食パックの焼きそばとかでやるとどうしてもショボくなりそうだよな~というのも実感であり、なかなか食することのできぬ太麺の焼きそばに脱帽です。
しかし、今日は風も強く、雨が降ったっかと思えば、日が差してきたり……ということで、蒸し暑さの不快指数全開!ですから、「ひまわり」を辞してから三歩も歩くと暑さでゲレゲレ状態になってしまいますので、茶店へ入り、禁断の?アイスコーヒーの注文を細君にお願いして一足先に、席に座って待っていると……
出てきたのは、「本日のコーヒー」(ホット)でした。
「本日のアイスコーヒーって注文した筈なんだけど……」
……とのようでした。
やっぱり、暑いときには熱いコーヒーだよな!ということで、漢字で「漢」と書いて「おとこ」と読む!との気概にて、上着をとることもなく飲みほさせて頂いた次第です。
……ということで、『カラマーゾフの兄弟』
昨夜痛飲した原因がここに存在するわけですが、5月に再読したばかりなのですが、なんとなくもう一度読んでおきたいな……ということで酒を呑みながらぱらぱらと読んでいたわけですが、やはり染みこんできます。
まさに『十四代』が染みこんでくるように、染みこんできます。
多読も大切ですが、『カラマーゾフの兄弟』と向かいあうなかでいつも思うのが、“一書の人”にもならなければならないということです。
いわば、原点の一書をもつということでしょうか……つらいとき、かなしいとき、そしてうれしいときに自分と向き合える一書を持てたこと以上に幸福はないよな!……と思いつつ、酒をがんがんのみつつ、自分の一書としての『カラマーゾフの兄弟』と向かい合った次第です。
カラマーゾフ家の三男・アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフは敬愛するゾシマ長老の命、そして逝去を契機に還俗しますが、その転回への扉をひらいたときに、いわば上司からかけられた言葉がうえの引用文です。
こうした言葉を読むと、世俗内禁欲と世俗外禁欲の問題をどうしても考えさせられてしまいます。詳細はヴェーバー(Max Weber,1864-1920)を繙いて欲しいところですが、前者が制度的修行システムを介さない自発的な世俗における修行システムのことであるとすれば、後者は制度的修行システムに自発的に誓願し、古臭い言い方ですが「徳」を積み上げ修養していくあり方です。
宗教改革以降、世俗外禁欲の価値は、教会のもつ影響力が減じるのと等しく世俗内禁欲へとバトンをタッチしていきましたが……そしてヴェーバーによると、世俗の取り組みのなかで「神の国」の成就をなしていくという努力が資本主義の興隆を招いたというわけですが……システム・理念として飽和した現代の状況をみていると、そうした状況を撃つ、なんらかの相対化させるような視点としての世俗外禁欲的なものも必要なのかな……しかし大切なのはそのシステム事態が硬直化を招き本来の「救済」を損なってしまうというディレンマですが……などとは思ってしまいます。
ドスエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)は晩年、ロシア的なる宗教性へと回帰していきますが、現状を撃つ、なんらかの根源的指針を模索していたのかもしれないな……などと思われて他なりません。
今日は久し振りに仕事をしながら「おめえ、何様だ!」と口からあやうく発しそうになりました。
このところ官民あげてのエコロジーですから、レジを打っておりましても「システム」として「レジ袋」の「要・不要」を確認しなければなりませんので、アイスを数点購入された高齢の夫人に確認したところ……
逆キレされました。
「こんな冷たいものを手でもってかえるわけねえだろう。お前は馬鹿か! んで、あん、マネジャーか。こんなしちめんどうくさいこと聴かなくても察するように指導するのがあんたの仕事だろ! いるのかいらないのかっていつもうっとうしいんだよ! あんたがこのシステムを変えなさいよ! こっちもいそがしいんだから、もう」
……って。
「もう」……って。
そんだけしゃべる時間があるので在れば、ご自身の境涯を開陳される必要もないのだと思うのですが……。
変な話ですが、逆に大クレームとかその筋の方のごり押しの方が楽ですが、市井のひとにこうしたアレをやられると、ホンマ、人間って何っていう哲学的命題を考えさせられてしまいます。
だからこそドストエフスキーのひとことひとことが染みてくるのでしょうか……ねえ。
なにしろ「おまえはまだ若いし、俗世の誘惑も重く、おまえの力に余るものだから」しょうがないですね。
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カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫) 著者:ドストエフスキー |
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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) 著者:マックス ヴェーバー |
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